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インタビュー、硬い絵を描く

こういうので少ししゃべった
http://magazine.cybozulive.com/2012/06/fumbaro.html

純然たるボランティア(無償)が話の元なので、ほとんど遊びというか楽しみとして参加した機会だったが、最初に想像したとおり結果的にはそれなりに大変だった。取材自体は新鮮な経験で面白かったし、出来たものを見たらやってよかったと思ったけど、やっぱりやり始めるとどうしてもある程度ちゃんとさせたくなるので記事チェックやその際の加筆修正や事前事後の準備報告等々ある程度ちゃんとやってしまった。それで多少なり疲れた。

疲れたというのはべつに悪い意味ではない。疲れない程度のものじゃつまらないだろう、とも思う。でもモノによっては、適度に手を抜いたもののほうが分かりやすくて受けたり、たしかに後から自分で見てもこの方がいいよな、となるときもあるので疲れるほど頑張ったからといって結果がついてくるかはわからない。むしろ理想的な結果から離れる、とわかっているにもかかわらずやりすぎてしまう、という傾向が自分にはちょっとあるような気もする。一番理想的なのは、やりすぎたところのもっと先、やりすぎのもっとやりすぎたところにあるんじゃないか、とも思う。

美大に入る前の予備校の頃に、(これ前にも書いたかもしれないが、)僕の2年上の浪人生が「すごい上手いけど、描きすぎて絵が硬くなる」と毎回のように講師に注意されていた。細部を面相筆で丁寧に描写しすぎて人物画でもモデルがぜんぜん躍動しない、みたいなことだ。講評のたびに講師は彼に「もっと手数を少なくしていいんだよ」とくり返し言っていたが、ぼくはそれを見ながらいつも「そうではない、中途半端なところでやめるから硬くなるんだ」と思っていた。彼の問題は描きすぎる方向へ進んでいるにもかかわらず「半端に徹底している」、つまり徹底しきれずに筆が止まることだった。もっと描きすぎて一度は硬くなった絵がまた溶け出すぐらいにさらに描いていればいいのに、と思ったし講師の言い方もアサッテだと思った。

今の僕はそのときの彼のようではないか、とちょっと思っている。徹底する方向を選びながらも徹底してはいない。全力でスタートしたものの数メートルで思いきりコケて、そのままグダグダになってゴールして後悔していたら、「よかったよ今の、力が抜けてて」と言われるようなそういうつもりじゃなかった感の評価を得ることはあっても「ここまで来たか、頑張ったね」みたいなことは数年来ナイ。

冒頭のインタビュー記事は全般的に補筆させてもらったが、少しその、中途半端に徹底した硬い絵に近いような印象が自分ではあった。