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専門家に求められる能力、非専門家に求められる機能

オリジナルな神を信仰する我々は、拠点であったA町を追われ、数百人を擁する一団としてB町へ向かっていた。

途中、流れが急であることで知られるC川にさしかかった我々を驚かせたのは、以前はそこにあったはずの橋が崩れ落ち、対岸へ渡るすべがなくなっていることだった。
C川を越え、対岸へ渡らないことには、B町へ入ることはできない。
リーダーは皆を見回して、「とりあえず、やすみましょう」と言った。

川べりに座り、人々はつかの間の休息をとりながら、思い思いに不安の声を交わしていた。
リーダーは複数の班をそれぞれに取り仕切っている班長たちを集め、これからの行動について相談した。
班長のひとりは、このような場合に最も適した専門家の意見を聞きたいと言った。
このような状況に詳しい人間は一団の中に3人おり、班長たちの輪に加わった。

専門家同士の意見はある面において対立し、別の面においては一致した。そのやり取りのいくらかは、班長たちに理解できない専門用語によって積み上げられた。
不安を抑えられなくなったメンバーの数人が、班長たちの輪へ加わり、専門家の意見を耳にし、それに対して反対意見を述べた。

このとき専門家には、寄せられた非専門家による意見のうち、どれが有用でどれが無効であるかを選別する能力が求められる。
そして非専門家には、自分にはすぐには理解できない領域があることを察する能力が求められる。それを想像力と呼んでもいい。
想像力とは、ある意味ではすべての人間に付与された能力のことでもあるが、だからと言って誰もがそれを活用できているかといえば怪しいものでもある。
想像力とは、放っておけば自動的に稼働するようなものではなく、それを活用するためにある程度の技術や経験が要されるものだと考えたほうが自然ではないだろうか。
誰もが持っているが、誰もが使用しているとはかぎらない道具、それが想像力なるもので、それ自体が動的な能力というよりも、動力を別に必要とする機能であると考えたほうが実状に近いと思われる。

C川を渡るためには、専門家による純度の高い検討が必要であり、非専門家はその検討過程を知る権利を持ちはするものの、専門家と対等な意見を述べる権利は持たないと考えたほうが合理的だろう。
そして非専門家は、非専門家としての意見を述べる権利を有するがゆえに、その意見を受け止めた専門家には、玉石混交の中から玉を取り出すフィルター能力が求められる。