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4. 没頭できる暇つぶし

我々の目的は被災地支援であると上には書いたが、ぼく自身がボランティアをする理由は別かつ単純で、自分が楽しいからということに尽きる。楽しいといっても「それによってこの上ない充実を感じる」とかではなく、やっていると面白く感じることもある、という程度のことだ。その程度のことだが、他にそれ以上楽しいことがない場合にはとりあえずやっている、という感じだ。(たとえば現実逃避の一環として)

これはたぶん、やったことはないがパチンコの楽しさなんかと近いかもしれない。あるいはこれも小中学生のとき以来ほとんどやっていないが、TVゲームなんかの面白さにも近いかもしれない。今だったらFacebookとか、Twitterとかを見ている感覚もそれに近いだろうか。
それをやることそのものが何かの役に立つわけではないのだが、その中で何事かを見聞きし、何らかのアクションをした場合のリアクションの様子などを見るのがそこそこ楽しいからやる、という感じだ。手遊び(てすさび)というか、まさに暇つぶしのような感じとも言える。

ただ現実世界においては、一生手遊びだけで過ごすわけにはいかない。それだけをやっていてはいずれご飯を食べられなくなるし、寝る場所もなくなるし、やはり「仕事」をしなければならない。一方、仕事をしていないときであっても、他にも役に立つ本やら、人生を変えるような映画や音楽が山のようにあるのだから、それらに時間を費やしたいという気持も少なくはないが、どうしても取り掛かりへのハードルがより低い「手遊び」の方をやってしまう。ゲームが1日1時間であるように、ボランティアもだから1日1時間までにしたほうが人生のためにはなるかもしれないと思うほどだ。
そんな浮わついた気持ちでやるなよ、と言う意見も出てきそうだが、幸いなことにこれまでとくにそういう声は聞かない。仮にあったとしても、何らかに対して役に立つ部分があるかぎりにおいては、そして誰かの邪魔をしているのでないかぎりにおいては、こういう感じで良いだろうとも思う。

仕事は他人のためにやるから苦しく、だから報酬をもらうべきものだと考えている。副作用のようにして、仕事はそれまでの自分から自分をグッと一段引き上げてくれることもあるように思う。一方、遊びにもそうした副作用は充分生じうるが、一番の違いとしてこれは自分のためにやるから報酬をもらえない。ときには自分からお金を出してまでやらせてもらうものでありうる。結果として、遊びは仕事を通して得られるようなことを得る機会を減らすことにも大いにつながりうる。
ぼくにとってボランティアというのは後者に属するから、それを通して、つまりそれを「方法」として「何らかの目的を目指す」ということがない。「行為そのものが目的」なのであり、「得るもの」になる。

ぼくがボランティアの中でやっていることは、簡単に言葉にすれば「できることをやって、役に立つ」ということになる。蛇口をひねってほしいと頼まれて蛇口をひねって喜ばれることに似ている。簡単だし、自分の能力を発揮できるし、やって良かったなという気になる。その際にぼくが得るもの(目的とするもの)は、能力を発揮することそれ自体であり、その行為を通してある状況が改善されることである。改善されたことによって感謝の言葉を受け取ることもあるが、それはオマケのようなものであって目的ではない。
もしも感謝されることが目的になれば、ぼくはやがて自分に向いていない、あるいはできるはずもないことに手を出すことになるだろう。

ボランティアとはたしかに無償の行為ではある。それに際しては、上記のように、貴重なお金などを自ら持ち出すことすらある。たとえばミーティングが生じた時の交通費は自腹だし、他のことをできたはずの時間を費やしてそこへ行かなければならない(だからあまり行かない、とも言える)。
しかしたとえば好きなTV番組を見るというときに、あるいは好きな音楽コンサートを聴きにいくというときに、「貴重な時間を費やしてしまった」とか「交通費が自腹では納得がいかない」などと言うだろうか、といえば言わない。誰に頼まれるわけでもなく、自発的に、好きでやってることだからだ。無償で(または持ち出しで)行動する、というのはだから、一般にボランティアと言われることにかぎらず、誰もが日常的にやっていることであり、逆に言えば本来ボランティアとはそのように「日常的に好きでやってること」の延長として語られたほうがいい場合もあると思う。
その意味では、ボランティアとは無償の行為ではあるが奉仕活動ではないと思う。奉仕という言葉は自分の大切なもの(時間やお金やその類の代替が利きづらい何か)を捧げることであるような印象を喚起する。だから仕事に「奉仕」するという言い方は正しいかもしれないが、ボランティアという極私的な行為にそれを求めたり提供したりするのはちょっと違うというか、重いと思う。

一方しかし、ボランティアという言葉には元々そういう「奉仕」に似た印象が巣食っている気もする。だから、本当はそれをできたはずの人が敬遠してやらない傾向も生まれがちだと思われ、そのことにより、する側もされる側も機会を逸するということがあるのではと想像したりもする。

もちろん、「奉仕」をするように、仕事をするようにして、多くの時間やお金をかけてボランティア活動と言われることをする人も多くいるだろうし、そういう人や活動ぶりを非難する気持ちはまったくない。現に、ぼくが手伝っている団体においてもそのように活動しているひとは少なくない。というか知らないところも含めて多くいるだろうと想像される。
問題があるとすれば、そのように奉仕的に活動している人が、そうではない人に対して抑圧的な態度をとってしまう場合だろう。「自分はこんなに自らの自由を抑えて活動しているのだから、そうでない人は地位的に下である」的な態度をどうしても人は取りがちで(ぼくを含めた人間一般に自然な傾向として)、しかしそのようになると色々もったいない。
本来はその他にあったはずの、やりたかったことをやめてまで(それをする自由を捨ててまで)活動するというのはなかなか高度な行動で、多くの人に向く方法ではないような気がしている。そういうあり方ではない中で、無償で、奉仕活動のように自らの時間とお金を費やしたい、ということであればとくに言うことはない。

他のやりたかったことを諦めてまでそれをする、とどうなるかというと、作業の完成度の面でも継続性の面でもいいことが少ないような印象がある。短期間で燃え尽き、使い捨てのコマのように人がどんどん入れ替わり、当人たちがそれをヨシとするなら構わないが、もし当人がそれにつらさを覚えるようなことがあるなら、そのやり方はある程度変えたほうがいいだろうと思う。
そこで重要なのが「適材適所」というものだ。つらさを覚えない場所に配置され、適切なリソースを適切な方法でつぎ込む、ということが実現すれば行為の精度は高く安定するだろう。
ぼくは結局のところ、その団体のなかでそうした適材適所を可能な限り実現するためにあれこれいろいろやっているのだと思われる。

「適材適所を実現する」、といっても大それたことではない。それは血管の詰まりを取り除く作業に似ている。どこが詰まっているのかを特定し、詰まりの原因を取り除き、血行を回復する。たとえて言えばそれだけのことだ。

継続性においても、長く続ければいいということはまったくない。たったひとつの、一瞬で済む作業であっても、それが求められ、誰かの役に立つことであったなら、誰にとっても幸せなことだろう。長く続けなければならない、と他人に求めることがあるようなら、そう求めた人はすでに「自らの意志に反した無償の仕事」をしてしまっている。
たしかに、一連の作業に慣れた人が長く携わってくれたら、さまざまな作業が効率的に進むかもしれないが、それでも金銭等の報酬が出ないかぎりは意志に反して行為しないほうがいい。そこで押しつぶされた欲求は、多くの場合増幅した形で返ってくる。

慣れた優秀な作業者に行為してもらうことを望む場合には、賃金を支払うことが理想的ではあるだろう。以前、慈善団体の職員に給料が出ていることを非難している文章をネットで読んだが、避けがたく必要となる職員の生活費等が考慮されていない浅はかな見解だと感じた。
たしかにぼくの手伝う団体では、作業内容にかかわらず誰一人賃金をもらっていないが、その代わりに、いやならいつでもやめられるし、そうでなくてはならない。その結果として、いつ作業のクオリティが劇的に落ちるかも分からないが、そこはそれ、そういう前提で付き合ってもらうのが正しいということになるのではないか。

上記を言い換えると「仕事=奉仕」「ボランティア=遊び」ということにぼくの中ではなっている。
だから、仕事の流れで参加するひとはどうしても無理が生じて継続しづらい印象があるし、継続しているのは、自分の能力を発揮する場所として活動している人であるように感じる。
たとえば企業支援という形で、企業が団体へ支援金なり自社ツールを提供する、という関係の仕方はうまくいきやすいが、同じ会社の上司がボランティアメンバーで、部下が引き込まれるというようなことになると(あくまで例だが)、充分なパフォーマンスが生まれないばかりか、かえって迷惑が生じる可能性もあるように感じられる。結局、やっている本人が楽しくないと場が機能しない。