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1. 素人に何ができるか

昨年から知人のボランティア活動を時々手伝っているという話は何度か書いているが、それに関連してまだ書いていなかったことがいくつかあるので試しに書いてみる。

ぼくの手伝っているそれはとくに歴史のあるものではなくて、昨年の震災後しばらくしてから立ち上がった。代表の人は発達心理学の研究者で大学講師をしている人だから、いわゆるボランティアの専門家とかではなく、しかし彼の出身が仙台だったりしたのでいろんな要素が絡んで彼がそれをやることになった。(誰も頼んでいないが)
それを手伝うために集まってきた人間も当初は彼の授業の学生や元々の知り合いなんかがほとんどだったので、メンバーにもボランティアの経験がとくにあったというわけではない。

その後、団体はある程度の実績を上げていくことになるが、その中でぼくにとって考え甲斐のある面白い課題として育っていったのは「素人がそういうことをやることの良し悪しってなんだろう」というようなことだった。

少し前に「スタディギフト」という学費支援を目的としたウェブサービスができて、紆余曲折の末に失敗し、仕切り直しとなったが、そのときによくある批判として言われていたことのひとつは「学費支援というそれなりに先例や知見の積み上がってきた業界になんの予備知識も覚悟もなく乗り込んでこられるのはいろんな意味で迷惑ですから」みたいなことだった。実際に問題とされたのはそれだけのことではまったくなかったが、ぼくが興味深く見ていたのはそういうところだった。
というのも、その言われ方やありようが、上記のボランティア団体が抱えている要素と近しいように思えたからだ。ボランティアという業界もそれなりの歴史をもっていて、いくつかの継続的に活動している団体やそこで編まれた方法論などがあるようなので、その中に素人集団として入っていった(ように見える)我々を指してそのように思った人もいただろう、と考えたのだった。

結論からいえば、我々がやってきたことは(そして今後もやっていくかもしれないそれは)、従来のボランティアと言われるものとは同じと言えなくてもいい何かだったと思う。であるから、従来のそれと比べてどこがどのようにズレている、という指摘があったとしても、それはおそらく本質的ではないというか何らかの役に立つものではありづらい。
我々の目的は被災地支援であって、それに対して効果を持つ活動であったら呼ばれ方は何でもいいということになる。

もちろん、だからといって、従来のボランティア団体が形成してきた「型」のようなものを踏まえたそれら各種活動の足を引っ張るようなことになっても構わないということではまったくないし、結局のところそれら他団体と我々は「補い合う」ようにして、互いの手が届かない部分を埋め合いながら活動してきたのだろうと思われ、それができていたならよし、できていない部分があったなら反省すべき、ということになるだろう。

その意味では、上述のスタディギフトにしても、従来型のものではカバーしきれない領野というものがあって、そこを埋める類の活動になるんだよ、ということであればそれでいいのではないかと思う。

自分がその活動を行うより前にさまざまな知見が積み重ねられ、それにより洗練されてきた型を含む分野というものがあるとして、そこに「後継者」として入っていくような場合には、先人たる玄人(または玄人たる先人)の姿や行動から多くを学び、多くを真似、時には批判的にであれそれらを後世へ伝えていくことが必要とされるだろうが、我々の活動はたぶんそういうものとは少し違う。
それは無償の行為であるという意味ではたしかにボランティアと呼ばれるかもしれないものだが、従来のボランティア活動と言われるものを踏襲することが目的であるわけではないからだ。その意味において我々は「後発者」ではあっても「後継者」ではたぶんない。
この際、従来型のボランティアが積み上げ、生み出してきた知見が必ずしも我々の邪魔になるということもなく、取り入れられるものがあれば取り入れていくべきではあるが、かといってそこに縛られる必要もないとは言える。先人の歩みを否定することが目的であるわけでもなければ、ただ肯定することが目的であるわけでもないからだ。
それはどこまでも「補い合い」なのであって、足りない手を貸し合っている状況だ。それぞれに向いた作業があり、ある意味での「適材適所」がそこにはあり得る。

だから「素人に何ができるか?」といえば、プロの人にはできないことを、ということになるだろうし、しかしそのときの素人・プロという定義にしても、「何の」プロであるか等の条件を明確にすることで協業はよりスムーズに進むのではないかと考えている。