103

自由という名の

2003年の8月にぼくは3度目のフジロックに行って、そのとき28歳で、バイトはイタリアンの小さな店の調理補助だった。フジロックは全日持参のテントで、しかし体がつらくて仕方なくて、もう来年からは来ない、と初日から思って本当にそれが最後になっている。

この年の収穫は勝手にしやがれというやつで、そのついでのように見たデートコースの菊地さんが結局その後の時間を変えたと言っていい。音楽はよく分からなかったが、自分によく合う面白さみたいなものを発していると思った。この人を追いかけると、自分が好きなものに出会う確率が上がるような気がした。いいハブを見つけたという印象。
家に帰って、その年からつなげたインターネットで菊地さんを検索して日記を読み始めた。この頃には高山なおみさんとかよしもとばななさんとかの日記もよく読んだ。

翌年の1月に突然菊地さんは私塾の生徒を募集して、条件を確認して応募したら50分で返事がきてOKだった。ぼくの応募した音楽理論科は意気込みだけOKならOKで、とくに実績なども求められていなかったからほとんど先着順だったろう。
ネットであれTVであれ雑誌であれ、「向こう」にいる人に直接、狭い空間で、継続的に会うというのはそれが初めてで、最初に菊地さんから道端で「ペン大のかた?」と聞かれたときの情景をまだ覚えている。それは2004年の2月の金曜の夜で、菊地さんは白い上着でぼくは慣れない帽子をかぶっていた。

「向こう」にいる人が「生身」の人間だと肌で知ることができて、いろんな見えない殻みたいなものがパリパリと音を立てて崩れていったということじゃないかと、今となっては思えなくもない。それまでなら冷笑的に避けたであろうチャレンジをブルブル震えながらあれこれとやるようになった、というのは事実だからだ。ペン大がはじまった2ヶ月後から菊地さんの東大講義にもぐるようになって、そこで会った大谷さんとやがて本を作って出してそれがすこし前のニコ動でジュンク堂スタッフに紹介された。結局菊地さんのおかげだろうとは思わざるをえない。

今、scholaという音楽全集を作るようになったのは後藤さんに誘われたからで、そこに菊地さんは一切関係ないが、たしかペン大に通い始めて1年以上経って、後藤さんのこれまた私塾の存在を知って速攻申し込んで、という流れが大元にある。後藤さんの私塾にはペン大より多めのひとがそれより高い頻度で通っていたけど、どうも人間の枠というか広がりというかアウトプットの分量的にはミュージシャン体質の多いペン大の生徒に比べてスケールが小さめ、という印象だった。守りの度合いが高いというか。どうやらぼくの自由はすでにペン大を通して規定されていたようで、物知らずが身の程知らずにつながってあれこれはずかしいこと(発言や作成)をしているうちに教室では少なからず目立ったようで、たぶんだから後藤さんの記憶にも残ったんじゃないかと想像している。

まだまだぼくは人生の途上で、振り返るには早すぎるがそれでも方向性というか姿勢として、こっちに飛んでいきたいという望みの傾向みたいのはなくもない。それはつまり自由というやつだ。思うに、後藤さんの私塾に電話で申し込んだとき、ぼくは自由のまっただなかにいた。どこまでもつづく深い青のプールで、永遠に近く泳いでいるような感覚だ。

若さを振り返ればそこには自由があったように見えるが、本当に若かったときぼくは自由ではなかった。今はかつてよりずっといろいろラクだ。ときに大きな地雷を踏むが、やはり求めているのはそれで、それが含まれている表現を好きになっていると思う。