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必然と鈍感

倉本さんのスクールに立ち会って、その後一念発起的に以前から行くべしと思ってたところに行ってみる。35才で実験くんか・・20と同じことやってる。想像したことのあること、という点では他のあまねき所業(=非・実験くん)と同じだが、想像した先にイイことしかない、というのととくにいいでも悪いでもないがとりあえず退屈、という2方向があるとして前者は本当にやるとちょっと引かれることが多いから実験くんだ。非・安全といってもいいし嫌われる可能性高いといってもいい。イイこと、というのはたぶんそのとき、ぼくにとって今までにない(=新しい)ことなのだろう、その意味でイイことなんだろう、と思う。逆に、安全なことがつまらない、それは想像どころか実際になんども過去にやったことがあるから安全で安心で、いいかどうかはわからないが知らない目にはあまりあわない、だけど(だから)退屈、ということなんだろう。
妄想のなかでぼくは無敵だ。無敵というのは敵がいないことだ。倉本さんが授業のなかで、夜見る夢では邪魔するやつがおらへんからしたいことがすぐ叶う、と言っていたそれがぼくのいつもの妄想だ。しかし朝起きて夢から覚め現実でそれやろう、となると誰が邪魔するより先に自分で自粛することになる。そんないらんことして、お前いままで積み上げてきたこと台なしになるぞ〜と言って実践を邪魔するのは他ならぬぼくだ。遠慮せず自粛せず萎縮せず躊躇せずやる、なんて口で言う数百倍数万倍むずかしい。何歳であっても別々の理由でそれはむずかしいだろう。
躊躇と慎重は紙一重、というか同じものだろう。躊躇レスは怖い。見る前に飛ぶのは何も考えてないだけだと思われ好きな言葉ではない。考えて納得して飛ぶべきだ。しかし、というかだからというか自分が飛ぼうと思ったのならどんな論理的な反対があってもそれに納得できないかぎり飛ぶべきだ。見て納得して飛んだらもうどうなったってしかたがないし責任もとれるというものだ。
失敗するとビリビリっと体に電気が走り恥ずかしさに消えてしまいたくなるが、実際にはまだ生きている。お前馬鹿か、とアタマをはたくのは何しろ自分なんだがそうは思われないのがひとつの罠だ。成功する方法はない。必要もない。時間が決まっていてやりたいこと、やってほしいと思われることがあるならそれに限られた全力を尽くすしかできることはあるまい。最大の敵が「お前そんなの恥ずかしいからやめておけ」と言う自分ならばそれを払いのけられるのも最終的には自分でしかあるまい。
他人に、あーすればいいのにこーすればいいのに、というのは「他人」がもつ最大の特権で、なにしろ自分がやらないのだから万能だしそれは妄想だ。自分のやることに対しても妄想までならばどこまでも行けるが、それを現実にするには山よりも高い壁を超える(砕く、避ける)必要がある、ようにどうしても思われる。砕いた覚えも避けた覚えも超えた覚えもないが、そういうときには必然が役立っているかもしれない。しかしその必然は妄想の的(まと)を見放したらもう来ない。ゴール前にいなければゴール前のボールを受け取ることは何しろできない。あんなの、運良くそこにいただけじゃん!と言われるそこにいることが重要とはいえる。
パターンもマニュアルもルールもメソッドもない。結論もないが、どんなに邪魔をされても最後に邪魔をするのは自分でそれを払いのけられるのも自分だってことはやっぱりあるように思われ(繰り返しだが)、もしかするとそれを支えるのは過剰な楽観や無責任や鈍感や本当に文字通り馬鹿なところだったりするのかなと思われもする。