103

不可逆の歴史としての

たぶん最初のうちは、facebookなんてmixiのない国だから流行った、かつそういう人(というかアメリカの人口)が多かった。という程度のものだったのだと思われ、しかしいつしかそこにお金だしてくれる人が増えていくうちに開発や人間にも費用を回せて機能もよくなって今に至る。ということじゃないかと思うんだけど、やっぱりfriendfeedチームを引きこんで今みたいにどんどんなった、というのはデカイんじゃないかなと思う。
ニュースフィードというのが出来てtwitter的なUIなりアウトプット法なりもパクッてみて、プライバシーはある程度自分で設定できるようにしつつ(ユーザーがごちゃごちゃいうから)(どうせそのうちむしろ積極的に受け入れるわけだが)、でも見たくないのを一時的に非表示できたり、何より勝手にどんどん更新されていくとかはfriendfeedならではのナイスなところで、同時にffはfbみたいなワクワクする何かを全然もってなかったのでこれは典型的なというか愚直なまでのシナジー(相互補完)なんだろうと思ったりする。
そのような気だるい奇跡のおこった事態に対して、もはや感情的に拒否を通し続けるとかはできまい。メールやりません、というひとはまだいるにせよ携帯やりません、というひとは少なく、携帯持ってません、というひとはまだいるにせよ、電話使いません。という人はいないだろうし、電話きらいです、という人はいるにせよ(おれとか)、郵便宅配使いません、とか水洗トイレ使いません、という人はいないのであり、避けることが難しい便利、文明の利器というものはあって、100%それを人類が使う、ということはないにせよ増加するしかないそれ、というのはある。
どう考えても、汲み取り式より自宅に設置するなら水洗のほうが楽だな、という人のほうが多いからそれは増えこそすれ減りはしないのだし、携帯が公衆電話と反比例するのもそういった理由によるものだったろうし(ましてポケベルが残る理由ゼロとか)、あとスイカ・パスモね。これは今後切符に盛り返される、ということはないでしょう。使えばもう戻れない。
使えばもう戻れないものというのがあって、その点たんに道具としてfacebookはすぐれた点があるんで、流行りとか知識とかいうことではなく、早く慣れておいたほうが、どうせタダなのだし、いいんじゃないかと思ってる。よく、mixiでさえ(あるいはtwitterでさえ、あるいはメールでさえ、でもなんでもいいが)使いこなせないんで・・とか言う人があるが、えーとどう考えても最新のものの方が使いやすいに決まっているんですが。と思う。19世紀初頭にあらわれたカメラを使える人は世界に数人だったろうが、いまのデジカメで撮影できない人はまずいまい。ボタンひとつで何十時間録音できるICレコーダよりアラン・ロマックスが使った録音機のほうが簡単に操作できたとは考えがたい。
もちろん、新しいものにはそれなりに聞きなれない機能なり概念なりが新規搭載されてしまうので、以前から慣れたままの所作をまったく適用できることばかりではないだろうけど、二層式洗濯機に慣れているからといって2011年に発売された全自動洗濯機よりそのままのほうがラク、とはやっぱり言えない。(モノとしてのその洗濯機に愛着がある、というのはまた別の話)
ぼくとしてはいつ死ぬかわからないのでとりあえず新しいものには触れてみるしfacebookの次のが出てきても当然すぐそうする。知らないものを知りたい、という欲望を抑えることはできないしましてやそれを許す体力なり環境なりがあるなら尚更だ。それはそれを知らないままの自分を尊重したい、という気持ちを下回ることもなければ矛盾することもない。