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後ろを振り向いたり振り向かなかったり

喩えとしてシンプルだから、ということだろうけど山登りにやっぱり似ている。つまり人生で最後にひとつ、これだけはやりたいってことがあるとしてそれはなんだ、と言ったときに自分がとりわけうまくできる特質を生かしてやれることをやりたいのだと、それをやっていくということ。得意なことを見つけて、ひたすらそれをやっていきたい、とは折々思ってきたが、いまだにその得意なことってのがなんなのかはわからないままだ。というかまあ、はじめからそんなものがあるわけもなく、つまりファンタジーにすぎないのだが悪い意味で。

少し前に書いたことで、最近はブログでもtwitterでもよく見るものでは大げさな表現が多いよな、と思っておりそういうのはいやなだと感じる。というか、子どもっぽい、経験が少ない感じだなと思う。それをまた山登りに喩えると、ちょっと登っては振り向き、ほら俺、こんなに登ったぜ、と悦に入るような感じだ。後ろを、というか上から下のほうを、というか、いずれにせよ振り向いているあいだは登れないからジレンマだ。何しろ前よりちょっとでもよい景色を見たいと思えば振り向かなければならないが、振り向いてるあいだは登れないのだ。登らなければ見たい景色は見れないしずっと同じ風景をみているしかないからつまらないのだが登れば振り向けないからまたそれもつまらない。さらには自分が登らずにいればそのあいだに周りのやつらは上へ上へと僕を追い越していく。だから、以前いた場所からの差分を測り気持ちよくなるためには下を眺めるのをそこそこに切り上げてみんなに背を向け登らなければならないのだがそのみんなって何だ。

ぼくが嫌がる大げさな文言というのはつまり、そのちょっとだけ登ったっていうのを相当登ったかのように誇張するということでもあり、誇張しているあいだにはもう登れないからいろんな意味でけっこう虚しい。かといって無償の感じで山頂だけ見て登っているというのも以前からの差分がわからず「なんのために」やっているかがよく分からなくなりまた虚しい。というかそういう求道的なのってしんでからやっていればいいんじゃないか、という気にもなってくる。お坊さんが厳しい修行をするように、ただ集中して上方から下への広がりを眺めることもなくひたすら登り続ける、というのがどうもできないというか、その努力すらしていない。余裕があるのか、物を知らないのか、まあやるしかないときにはやるほかないが、なにかとても貴重なものを失っているのではないかという気にたぶんなるからやっぱりできないしさぼってしまうのだと思われる。しかしよくよく考えてみれば、何も失わずに生きていくことなんて不可能だろうし、必ずしもまあ本人がわかっているかどうかはべつとして何かを失うことでべつの何かを手にしてはいるのだろう・・。
この、もったいないという気持ちには悩まされてきた。登るしかないし、その力もあるはずなのにしない、ということを良くないとは思っている。もったいないから見る、を捨てたいと思った。しかしそれにしたってどうも否定はできない、というかしても仕方あるまいと思いもする。俯瞰する目と、現場ではいずって進む目とがどちらも必要だろう。ぐんぐん登っていく力と、開けた下界を眺める気持ちと、どっちかだけってのはやっぱりおかしい気がする。