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中島さんとiPad。その他

きのうは末広町のトリプルジーで中島英樹さんの講座。にiPadの話をするということで一緒におしゃべりさせて頂いた。いつもは近くで助手的に立会っているんですが今回はけっこうメイン的に。
iPad電子書籍的なことがわーっと話題になっていたのもあってか予約して発売日に届けてもらう、という方式でwifi版をゲットしていたので、多少は慣れてることもあり、しかしそういう機器の専門家とかではもちろんない、ただのユーザーなので貴重な授業の時間をだめにしないか、と不安でいっぱいだったがそれなりに楽しくできたのではないか、と、中島さんはどう思われているかわからないのですが少なくともぼくは楽しみました。
とはいえ一応授業時間は2時間で、時間もてあましたらどうしよう、というのも上記のいっぱいな不安の中には含まれていて、対策としてはとりあえず電子書籍的に読むことをするには、みたいなサンプルをいくつか前日までに作業の合間を縫って作ってみたりした。(買ってすぐに作ったものもあった)
そういうのを使ったり使わなかったりしつつああ、よかったな、と思ったのは、案外「質問に答える」をしているうちにどんどん時間は過ぎていくのだな、ということで、時間を持て余すかも、なんていうのはだから取りこし苦労だった。苦労というほどでもないが。
それでそのときに思ったのは、つまり、質問に答える、というのは質問するほうにとっても答えるほうにとっても、なかなか楽しい時間だなということだ。まあもちろん、問題の前提が共有されていないとだめだし、その場合の共有、というのはたんに知ってる、というだけのことではなく自分にとって切実かどうか、の程度が共通しているということだ。
話は当然(なのか)Twitterにもおよんで、Twitterについて語るということはしかし、大抵の場合自分がフォローしている人たちと自分。が生み出しているなにがしか、について語ることにしかならないという前提がやっぱり必要になる。もし同じもの(ほとんど)を見ながら語るのならそれは結構シンプルだが、Twitterは案外そうではない。AさんはAさんのフォローしている人たちが土台になった、そのTwitterについて喋っているのであり、しかしTwitter全般について喋っているつもりにもなりがちだ。実際、全般について喋っている、といえる部分もあるだろうがやっぱり同じ映画をみて喋る、というのとは結構違うだろう。だから話がかみあわない、積み上がっていきづらい、ということはあるかもしれない。
いずれにせよ、Twitterを面白くするのもつまらなくするのも自分の使い方次第、ということにはある程度はなるだろう。というかそういう自分次第の余地、というのがmixiとかに比べたら大きいんじゃないか、サービスを作ってる側のせいにできる部分が少なめなんじゃないか、ということ。うわ、この発言はちょっといただけないな・・と思ったらやっぱり速効リムーブすれば、そういう気持ちにその人経由でなることはだいぶ減る。その人の発言をRTしてくる人、というのもまたいるわけだが、今度はそのRTした人をリムーブしたりリムーブ候補に挙げておいたりぼくはする。とくにうわ、となるわけでなくても、知り合い以外をリムーブするブームが来たりもするし、そうやって適度にそこにある人間関係には循環が生じているのがわたしのTwitterということになる。Twitterについての発言をする際には少なくともだから、そのあたまに「私の」と付けなきゃいけないんじゃないか?と思うことがよくある。
それはいいとして、しかし問題はつい私の話をしてしまう問題だ。もちろん私というのは最後まで大事にならざるをえないところもあると思うけど、しかしそこまでつねに大事であることを自他に対してうったえ続ける必要があるだろうか?と思うことが最近多い。もうきみ自身の話はいいよ(笑)とか。なにもそれは軽んじたりおとしめたりしているのではなく普通のこととして。それをやって時間を進めていいのか?と。しかしこの傾向が過渡的なもので今後収まっていくか、といえば難しい気はする。難しい、というといやだみたいだけどいやかどうかはもう意味のない話だ。そうなる。なるに決まってる。じゃあどうしようかと。もしそれが悪いことなのだとしたら、何の意味においてなのか、といって目的から遠ざかることが問題だろう。遠ざからないならいいじゃないかと言えるかもしれない。知らないことがたくさんあって途方にくれるが、それは自分をあわれんでうっとりしてのことなのか、それともようやく山のふもとに着いてこっから上まであんなにあるのかよ?とがっくりするいつもの現実っぽいことなのか、しかし目的とはやはりそれではないか。
おそらくは自分がどれだけの意味あることを残したか、と星の数をかぞえたくはなるだろうけど、それはたぶんでも最後の目的ではないだろう。星の数がわかったときの喜びがそれぞれの瞬間にさかのぼって書き換えを行うのだとして、しかしそこに意味というか良さを感じるとは想像できない。言葉こそが大きな一助にはなるだろうが言葉だけにのしかかれば簡単に折れる気がする。進む方向はほぼ決まっておりそれ自体は案外どうでもよいかもしれない。
iPadの話に戻ると、きのうの授業のために電子書籍的なこともいろいろ読んでみてしかし一瞬ではぜんぜんわからない。こういうときはきのうの授業のように直接あれこれ聞いてみる、というのがとっかかりとしてはいいかもしれない。といってもやみくもに聞きまくる、話しまくる、とかいうのでもなく、自分だけでゆっくり考えながら、というのがいい。そういえばこのあいだ、アルテスパブリッシングの木村さんが理事をつとめる音楽のNPOの講座に行ってみたら凄くよかったのでそのNPOを紹介したいなと思ったがまだできていなかったので今度書くかもしれない。