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考えていたことがいくつかあって、たとえばscholaの編集工程を、可能な範囲で実況しながら進めるというか、オープンにしてみてはどうか、みたいなことを具体的に5人から、冗談まじりも含めて言われた。最初の、それを聞いての印象は、「そういうのはチガウんだよな〜〜」ということで、今もそれはそうなんだけど、じゃあ何がチガウの? と考えるとなかなか良いことばも出てこなかった。べつに、誰かを説得したいのでも、誰かが説得されたがっているのでもナイんだけど、なんか、ひっかかる、ちょっとしたことだけどけっこう重要な何かがそこにはアルんじゃないか、という気がしてちょっと考えていた。
違う、というのは単に、守秘すべきコトがあるからだよ、みたいなことでは全然なくて、守秘すべきことをするのは当たり前で、あるいは守秘すべきと思ってたけどそうじゃなかったかもねー、ということだってあるかもしれないのでそれは丸ごと関係ない。
僕が思うのは、つまり、誰に話すのか、誰に見られるのか、ということが、話される内容にとても影響を与える、ということだ。オープンな環境で作られるものは、オープンな環境の中で作られるものにしかならない。よしあしでも優劣でも大小でもなく、ただそういう内容になってしまう、ということだ。そういう面白さ、それがもつ意義、というのも一方ではあるけど、いつでもどこでも適応する何かにはなりづらい。ひとつの道具、としては十分機能するだろうがあんまり柔軟には使えない。
だから何でもかんでもユースト、とかもドキュメント的な面白さにはつながるだろうし単に情報共有(遠くに住んでる人がイベントに参加できる)とかには向いているけどクリエイトされた作品としての強度、ということでいったら僕にはそんなに面白いものとしては見られない。そこには編集がない。編集がない、というのは自由がない、というのに近い。
オープンにする良さはあるが、そこには圧倒的に欠けているものがある、という視点が重要だ。欠けている、というか、それを選択することによって思いきり投げ捨ててるカタマリがある、ということだ。何を失っているのか、そこに目を向けなければならない。
僕はscholaを毎日作っているけど、そのときに何巻のナニについて作業しているかは、自覚的には一切口外していない。それは守秘すべきだから、ではなくて作品に良い影響を与えるためで、わかりやすい面ではたとえば、楽しみにしているお客さんにネタバレ(広義の)をしないように、ということがある。もしかしたら今12巻目を作っているかもしれない。あるいは既巻に関する何かをしているかもしれない。それについてはなるべくひとつも言わない。
それが唯一の正しい、絶対的な良い方法であると信じているわけでもなくて、いま選択できるのがそれだけである、ということ。考えるに至っている、という時点で、それが絶対だとは思えてない、ということでもある。ただ同時に、やっぱりオープンな作業に至るだけの納得もナイからとくにやっていることも変わっていない。
オープンな作業、ということで思うのはいわゆるライヴ・ペインティングとかですね。ライヴ・ペインティングというのは僕がこれまでちょこちょこ見たかぎり、そこに描かれたもの自体が面白かったことは一度もない。そこにはその作業中の時間だとか、見ている人たちの人数とか、誰が見てるかとか、予定がどの程度ズレたかとか、そういうののコミコミでの面白さが「作品」ってことになってるんだろうと思う。もしかしたらそのときにキャンヴァスに残っているのは、搾りかすのような跡(あと)なんじゃないか、とも思える(わるい意味ではない)。もしキャンヴァス上に良いものを込める/作る、ということをしたいなら、やっぱり僕なら、人前では描かないだろう。
人前でなければ生まれない面白いものがナイ、ということでもなくて、むしろ人前でしか生まれない跡もやはりあるだろう。それはたしかに一人っきりでは作れないものだとも思うが、でも単に別物だ、というだけであって比べてよしあしとかではナイだろう。というか、コト現実物としての作品という意味でいえば、やっぱりオープンな場所では作れない。
何でもかんでもUst、という今の感じがなんか変だな、と思ってる。個々人がメディア発信所になる、というのは面白い。けどいくつもある面白さのうちのひとつに過ぎない、ということ。オープンなものがもつ狭さ、不自由度がもっと認識されるべきじゃないかと居心地悪く感じている。
Twitterハッシュタグにも似たことを感じている。誰でもハッシュタグを共有することによってそのある種のサークルへ加われる、という自由度があるのと同時に、誰がいつどんなトンデモナイことを書き込んでしまうかもわからない、それをコントロールできない、という状況を否応なく受け入れなければならない不自由さがある。Twitterの自由さの中には、「好きではない人のつぶやきを見なくてもいい」という性質が大きくある、と僕は思っているが、ハッシュタグを追っているときはそのかぎりではない(まあ、最近は公式RT機能のせいで見たいわけでもない人のつぶやきを幾度となく見せられることもあるがそれはそれで、まだこちらのコントロール可能な範囲の問題でもあるとは思う)。
だから僕はハッシュタグをつけることはあっても見ることはない。見るのは自由。見ないのも自由。たぶん今後も、schola関係の呼びかけとかで「#schola を付けてつぶやいてください!」みたいなことは僕からは言わないと思う。
話を戻せば、オープンな場でのクリエイトとは、オープンな場で作れるものしか作らない、ということでもある。それがつまらないわけでは全くない。でもあまりにも可能性が限定されている。ありあわせの道具と材料で物を作ることになる。その良さもある。でもその良さしかない。十分な素材をなるべく集めて十分な道具を使って作りたいものもある。