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mixiボイスへの反応でよく見るのは「Twitterのマネ」というもので、その大半が、というよりそのように言われる場合のほとんどすべてがわるい意味みたいなだけど、どうしてマネていけないのかさっぱりわからない。そんなにオリジナルが正しいのか。花のあすか組! 的に言えばそんなの何年か早く生まれてきただけじゃないか。いや知らないが。
マクドナルドとモスバーガー、セブンとファミマ、ドコモauソフトバンク東芝ナショナルサンヨーシャープ、同じようなものを同じように売っているが「マネだからダメ」なんて誰も思わないしそもそも思う必要がない。面白かったり役立ったりするものがひとつだけより二つ三つあって何が困るというのか?
こういった場合のわるぐちないし非難や批判するときに判断基準になるのは「面白いかどうか」じゃないのか。つまらな〜い、という意見なら腑に落ちる。つかわな〜い、というのも僕の意見とは違うがまだわかる。しかしマネてるやつはダメ、とかいうのはまったく何と言うか僕にはこわい。こわいからわざわざ書いている。

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機能がTwitterとかぶる、という意見はすなわち「使い分けで悩む」とか「使わない」という結論に流れていくわけだけど、いや、ぜんぜん違うじゃないですか! mixiボイスはmixiやってる人しか見れないんだから、そもそものユーザーが絶対的に少ないでしょう。対象がとにかく全然違うわけでだから目的だって必然的に変わらざるを得ない。それは友だち相手の、親密さのようなものを前提にしたTwitter的なものなので僕にはたんに普通に新しいサービスのように思えるけど。(だから不備も多い)

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それにしてもTwitterできてからしばらくの間、もの凄い勢いでそれこそクローンとか言われるそれこそマネとしか形容できない、そのまま劣化したとしか言いようのないサービスがたくさん現れたものだけど、もしかするとそういうのを知らないと大ざっぱに「マネ」のカテゴリに入っちゃうのかな〜。
やっぱり強い声、大きな調子での意見、というのは知っていることが少ないほど言いやすくなっちゃうというか、持っているエネルギーは誰も同じぐらいだとして(比喩)、それをどのくらいの数の容れ物に振り分けるのかという話で、容れ物が多ければひとつあたりに入る量は少なく、容れ物の数が少なければ大量に入る。大量に入った、数少ない選択肢のうちのひとつを一気に放出すれば、そりゃ声も大きくなるだろう。「いや俺が違うのかも、いや俺が違うのかも」と思うたびに声は小さくなるけれど、そうして残ったかすかなしるしはいつまでも残るんじゃないか、そしてずっと先の誰かに見つかるんじゃないか。