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たまたま見たblogで、僕がはてブに対して最近感じていた不明点について回答されていた(ように感じた)のでメモ。
http://d.hatena.ne.jp/otsune/20090514/SocialbookmarkIsMicroblogging
とくに、以下のふたつの抜粋部分が、僕の知りたいことのいくらかについてまとめて説明しているように感じた。

あと

  • 同じ場所じゃないと反論わかりにくい。周りの人に反論アピールできない

ttp://b.hatena.ne.jp/nilab/20090513#bookmark-13430074
(※引用者註:本題と関係ないのでリファラが飛ばないようにidやhは外した。以下同)

それも「ブックマークされたblogエントリーに追記として反論を書く」という手法がいくらでも観測されていると思います。コメントやblogで言及されて、追記で反論するのと実質的に同じですよね。

私は「簡単じゃない・コストが高い」と書いている人は、ソーシャルブックマークはブログと同じだという事をよく考えもせずに「反論しにくいんだ」と先入観で思い込んでいるのではないかと疑っています。

という部分、それからほぼ同じような意味だと思うけど、

  • タイトルからしてコストの有無ではなく高低が問題視されていると認識していながら、「単に『規模・程度の問題』ということなんでしょうか?」という疑問が出るのがよう解らん。

ttp://b.hatena.ne.jp/casm/20090515#bookmark-13452176

その答えは簡単です。

私のこのエントリーの主張は「ソーシャルブックマークは実質的にミニblogと同じなんだから、blog同士の言及議論と比較すればコストは高く無いし面倒ではないだろう。blogと同じ面倒さ・コストで反論できるよ。(そしてそれに気がついていない人が誤解しているのでは)」という考えだからです。

ソーシャルブックマークサービスはblogよりも投稿のコストが低くて便利なのがウリでしょうから、「blog同士の言及議論と比べたら面倒でコストが高い」という判断に成るのは理解できます。(まぁその場合でもメタブックマークという手段が実際に行われているのが観測されていますけど)

で、上記に対する僕の解釈としては、つまりはてブというのはblogみたいなもんだと思えばそれほど腹の立つ対象にはならないんじゃないか、というようなことで、それを誤解してしまうと(というか別の何かとしてとらえてしまうと)、「ダメだなー、はてブは」とか思いやすくなる、ということかなと思った。
それを受けての暫定的な結論というか印象は、なるほど、ようするにid:otsuneさん(上記エントリーの作者)みたいな考え方・とらえ方をしていれば、きっと楽しく便利にはてブを使えるのだろうから、そのように考えて使ったらいいのだな、ということだ。

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で、それはそれで一つの結論ではあるのだが、また別の考え方というか、それなりに楽しい状況が生まれるための別の論理みたいなものもあるかもしれない、と思ったのでその方向でも考えたい。
問題は、「どうしてある種の人は、otsuneさんのような考え方・とらえ方”以外”のとらえ方(それをotsuneさんは「誤解」と、とりあえず呼んでいるわけだが)をしてしまうのか?」ということ、また言い換えれば、「どうしてはてブは、ある種の人からそのようにとらえられてしまうのか?」という点にあるのではないだろうか。
誤解させる何かがはてブにはあって、つまり「肉のつもりで食べたら野菜だった」と、そこで「話が違うじゃないか」とか、「間違われないように工夫しろ」とか言いたくなっちゃうんだけど(たとえば僕ならそうなんですが)、「いや、そもそもそういう物ではないのです、あなたが誤解しているのです」という状況があったとして、では果たして、それって「誤解してる人が認識をあらためれば(あるいは無意識のうちに誤解していたことに気づけば)」それで済むのかというと、それはそうだよな、と思うのと並行して、それはどうかな〜という気持ちも走ったりする。何が「どうかな〜」なのかというと、それだけの話では本質的な解決には至らないというか、私一人がウムと頷いたって結局また同じことが起こっていくというか、いや私一人でなく仮に一部のユーザーの中で次々に誤解がとけていったとしても、また新たな人たちがどんどん網にかかるように誤解していくのではないか、と(実際、はてブのコメント問題がいつまでも燃えているのはそれゆえだろって気もするのだが)、なんか「そういうものではないのです」という「実際には〜」の部分が何だかいつまでもわかりづらいままであること、が問題の根幹なんじゃないかって気もする。
ものすごく、どう考えても、パッと見「肉にしか見えない野菜」がどこだかの店に陳列してあって、「客:これちょうだい」「店主:まいどー(金を取って代わりに「それ」を差し出す)」「客:野菜じゃん!」「店主:誤解したのはあなたです」って、言われた!と思い込んでいる人(客)が少なからずいたのだとして、状況を詳細にたどればどうやら客の方が悪い(誤解していた)のだとしたって、そういうしょうもない現象が実際に次々起こっているのだとしたら、やっぱり店主としても、「あっちが誤解してるんですよ〜」という態度ばかりではいられないというか、まあ僕が店主だったら、「ちょっと考えなきゃなあ〜」って感じにはなると思う。
逆にいえば、そういう環境(誤解する人が多いその状況)の中で、そういう商品なりツールなりはてブなりを提供しつづけている、ということは、「そういう環境・状況が現実としてある、という認識」をできていない、あるいはそれに対応できていない、という風にも言えるのではないか。ある村において、自分以外の多くの人が、犬のことを「ネコ」と呼ぶのだとすれば、その中で「いや、あれはイヌですから!」とばかりも言っていられない。「まあ、イヌともネコとも言えるっていうのが現実のようなので、その中でなんか適当にやるしかないなあ〜」というのが、もし僕がその村にいたならやることだと想像する。
はてブの話に戻れば、otsuneさんの言うような仕方での妥当なはてブの使い方およびそれへの接し方みたいなのがあったとして、それと同じでもそうでなくても、いずれにせよ自分なりの妥当な使い方というのを「それぞれが」立てていかなければ楽しくはなれないのかもしれないとも思う。上では、あたかも「店主」が事態の改善を率先してすべきであるかのように書いている気もするけど、そんなことはないかもしれないとも言えて、ユーザーそれぞれが、自分なりの認識を立てていくのが良いというかまあそうするよりないって意味でそれが当たり前的な何かかもしれない。
肉の話に戻れば、実直に野菜を提供しつづけてきたはずの店主が、なぜか(というより理由は確実にあるに違いないが)ある種の人たちからにかぎっては肉屋だと勘違いされてしまうんだからほとほと参りましたよ……といった状況があったなら、それはその店主にとってもそのかぎられた傾向をもった客にとっても、いずれにせよ不幸なことではあるだろう。

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さてその上で、というか、あらためて、僕としては、はてブのコメントの中には、ひと言で回答したくなるような、それも、そのコメントのすぐ下とかに、簡便な一行とかで答えたくなる(その欲望を誘発するというか)コメントというのが少なからずあり、もしそこでサクサクやり取りができたなら、それをきっかけにまた面白いコミュニケーションが生じたであろうに…… みたいなことは思わずにいられないから、誰かそういう、Twitterにおけるpbtweetみたいなやつのはてブ版みたいなのを作ってくれたら楽しいのに、とか思う。(Twitterの場合は@がどんどん連なるけど、はてブの場合はメタブやそのパーマリンクにリンクしてる記事へのURLが連なって出てくるとか)
またところで、でもそこまで言ってふと思い出すのは、まあやっぱりTwitterだって、@の元記事なんかはどんどん自分で辿って行くわけで、それこそpbtweetとかTwitter Searchを使えばある程度一望できるにせよ、基本的には「なんかあっちの方でやり取り活発っぽいなー。見に行かないけど」みたいな感じでそれらの動きに関心あったりなかったりしながら(つかず離れずというか)接しているわけで〜……んー、まあ、でもそれと同じではないか!状況が違うからな。なんというか、やっぱりはてブのコメントへの返信の「でき方」っていうのは(idコールとかパーマリンク張るとか)、blogにおける「一人一人が別の場所から送ったトラバ」とか「多数のブロガーがそれぞれのblog上でおこなった言及」とか、はたまた「コメント欄で書かれたコメント」などに返信することとは根本的に違うもので、それはそのやり取りの様子を見ている人がどれだけの存在感をもった存在として感じられるか、ということと関わっているのかもしれない。それが、元記事を書いた人にとって「どうでもいいや」って思える感じなのか、それとも「どうでもいい……とは言えないなあ。なんか窮屈だぞすごく」と思われる感じなのか。それは、その見ている人たちの具体的な人数というより、ある種の雰囲気(群像感というか)が「ある」のか「ない」のか、ということに近いかもしれない。世論的な何か、というか。僕はやはり、不自由だったり窮屈だったりすることにすごく苦しさを感じるから、そこから逃げたい、もっと風通しの良い、合理的な方法はないかなーということを考えずにはいられない。その感覚から言って、やっぱりはてブの現状って「もっとこうだったらラクで楽しいだろうに」という気持ちをつよめに誘発してくるというか、そういう風に感じざるをえないし、僕のように思う人が結局「はてブはコメントへの返信コストが高いよな」って言ったりするのかなって思う。もう少し端的に言うと、「はてブは返信コストが高い」とか「難しい」とか「面倒」とかってことは僕もすごく感じるし、そう感じる自分が特別変わってるとは何となく思えず、むしろこれってけっこう自然というか普通なんじゃないか、というか「コスト高いって意味がわからない」ということをotsuneさんは言うわけだが、「え、本当に?喩えとして?じゃなくて、本当に?」と聞きたくなるし、あるいは曖昧だった問題をちょっとずつ明らかにするための方便というかつまり喩えとしてそういうことを言うなら実りあるかもなーとも思うけど。
ユーザビリティというのか、普通だったらこう来るよな、みたいな直観性みたいなものに関して、少なくとも僕にとっては、はてブのコメントへの対応(返信)の「できなさ」というか現状というのはカルチャーショックと言いたいほど自然に喚起・誘発される欲望から離れている。それを不便とか不自由とか面倒とか難しいとかコストが高い(まあ手間と時間がかかるという意味かな)とか言うことは僕にとってはさほど不自然なことではなく、またそれが「誤解」なのであったとしても、あるいは本来的ではない使われ方をしているがゆえに生じている問題なのだとしても、そういうことを感じる人が実際に「いる」のだという現実は打ち消せない。そういう人が「いる」ということまでは言えて、それに対して、じゃあどうしようか、ということはそれぞれの人間が考えて対応できることだろう。(「何もしない」という選択肢も含めて)

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だいぶ長いがまだ触れられていなかったことがあるのでそのまま書いてしまうと、はてブというのは元記事作者へのコメントではなく、ブックマークしている自分自身へのメモ(それに対するリアクションはとくに欲しくないという)だったり、あるいはブクマページの閲覧者に対する文章でもありえたりすると思うけど、たとえば「俺は自分のためのメモとしてブクマコメ書いているので、それに対してどうこう言わないでください」ということは、不可視モードにしているのでなければ言えない。(言えるけど。)それは、公開エントリーを書きながら「はてブ禁止」と言うことと変わらない。(と思う。)だから、以上はたぶんその上での話。