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孤独とはなにか。僕にもわからない。

すこし前に書いたTwitterの記事
http://d.hatena.ne.jp/note103/20090503/1241367513
が、けっこう役立ったのか何なのか、はてなブックマーク複数ついていて嬉しかったな。
こういうのってけっこう不思議というか普通なのかもしれないけど、僕はその記事の冒頭にも書いたとおり、友だちがTwitter(ついったー)をはじめるというので(というか「はじめました」と教えてくれたので)、「そんならこの人たち面白いからフォローすべしだよ、あと俺このツール使ってるから適宜参照してみて」とだけ言いたく、しかしただ言うだけではコスト高すぎというか、せっかく書くならほかの人にも見れたりGoogleにひっかかってのちのち誰かの役に立ったり立たなかったり(場合によっては害悪になってそれが元で議論が生じて発展すらしたりしなかったり)した方が面白いよな楽しいよ血が沸き立って生きててよかったって思えるかもよ、と思ってブログに書いたのだけど、とはいえ第一このブログ(というかはてなダイアリー)を見てる人なんて相当局地的な何というかローカルな人たちに違いないので、結局は今を生きてる多くの人、というよりは時間が経つほど増えていく多くの人、つまり「少数×(かける)時間=多数」ぐらいのつもりで、そういう複数の多くの人たちも視野に入れつつやっぱり一人の人に書いたのだったけど、同時にやっぱり「役立つ情報かもな」と思うことを念頭に置きはしたからそういう点において役立つかも、とふと思ってしまってくれた人がいたのかもしれないな、と思った。

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はてなブックマークのコメントをそれで見てみたら、以下における「孤独」という言葉がけっこう興味深かったのでそれについてここでは書きますが、
http://b.hatena.ne.jp/innx_hidenori/20090504#bookmark-13286903
本質的には「孤独さ」と「Twitterやってるかやってないか」はあまり関係ないとも言えて(僕には)、「Twitterのおかげで孤独じゃなくなりました!」って人もどっかにはおられるのかもしれないけど、少なくとも僕の場合は孤独にならないためにTwitterをしてるのでもオススメしているのでもないので、たとえば誰か(Twitterを新たに始めた人)から「お前のせいで孤独になった」とか言われたとしても、「いえ、孤独にならない方法を教えたわけじゃないんです」というよりナイ。八百屋に行って「肉が売ってない!」って怒られても・・・という喩えはどうか。
ただもちろん、Twitterミクシーを通して(どうしてもミクシーを想起せざるをえないのですが私)孤独から脱却したい、と思う人がいても全然良いと思う。

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それでそのままつらつら書いていくと、どうなんだろうか、まあほとんど一番大事なこととして、「孤独」という「言葉」が指す対象も一人一人においてぜったい違うからその前提で、ということではあるんだけど(と同時にそれが指し示す対象が、「ある傾向」を有するということはあるだろうけど)、「孤独じゃなくなった!」っていう状況を果たして本当に我々人間は求めているのでしょうかね・・・?ということを思うんだけどどうなんでしょう。僕としてはその辺はかなり怪しいというか、まあぜんぜん、そんなことで我々人間は満足しないと思うんですが(笑)、と思っていて、言い換えるなら、そういったものから逃げたい、つまり孤独ではない状況をつかみとって幸せになりたい!みんなとワイワイやって暖かくなりたい!って気持ちを人は間違いなく抱えているのと同時に、孤独?というかさびしさ?みたいなものを、求めてもいるよね。
なんてそこでさらにハッキリ言ってみると、僕らは「動き」を求めているんじゃないかと僕は思う。有名なミュージシャンの一人があるときインタビューで「私はさびしがり屋の一人好き。(ひとりずき)」と言っていたけれど、それ、「私」だけじゃなくて俺もそうだし場合によっては大半の人がそうですから!みたいな感じで思ったことがありやっぱりそれなんじゃないかなーと思ったりする。我々はさびしくなったらあったかくなりたいし、うざくなったらまた一人の涼しい場所に抜け出したいし、というような、その移動の気持ちよさ、たとえて言うなら音楽理論における「ドミナント(不協和)」から「トニック(協和/安定)」への、そしてまた「トニック」から「ドミナント」への不断のケーデンス(感情にはたらきかける旋律の変動のあり方というか)をたぶん好きなので、いちがいに孤独が好きとか嫌いとかいう問題ではなくて「その動いてる仕方がカッコよければ好き」というのがひとつの事実ではあるんじゃないかなーと思っている。
絡む、という言葉も上記ブコメ(=ブックマークコメント)にはあったけど、それ、仮に「最上の絡み」とかが実現したとしてもやっぱりその後に人はさびしさを感じるんじゃないかなって気もするしでもそれを好きですらあるかもしれないし何と言ってもある種の「しょうもない絡み」のせいで貴重な(それはもう貴重な)時間を脂汗ながしながら過ごしてしまうぐらいなら、誰ともわかりあえず平安時代の絵巻物を眺めたりコナン・ドイルの小説を読んだりしながら「俺の言うこと、こいつならわかってくれるかもな・・・」とか「さびしく」感じながら過ごす方が場合によってはマシなときもあるんじゃないかなって気はする。

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話を戻しすぎて脱臼すると、一人のために書いた、その人が役立ててくれるかも、という記事がそれ以外の人たちにも時に役立ちうるのだとすれば(それってミスチルの人が一人の人のために書いた歌を歌ってそれが物凄いたくさんの人たちに凄い仕方で届いていることを想起させずにおれないのだが)、僕が今使ってるiPhoneアプリなり、ブラウザのブックマークツールバーにどういうブックマークレットを入れているかということなり、あるいはワンキー(ワンアクション)でどういう現象がデスクトップ上に生じる設定になっているかだとか、あるいはBBT2のナイ生活はありえませんwwだとかいう話だってもしかしたら今後生まれてくる人も含めて念頭に置きつつ書いておいたらイイのかもしれないな、とか思っているしその意味でもTwitterfox(ファイアフォックス・アドオン)や「Twitterfonと夏ライオンfor iPhoneとTweetieを並べたときにどうしても夏ラを起動してしまうこと」などについて書いておくのもイイのかもしれないなと思っている。

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ちなみに、先に挙げた「とりいそぎ」のリスト、最終的な人数は確かにたまたまその数になったようなものだけど、同時になるべくしてなってる点もあるというか、名前の並び順とか挙げた方々の人選とかは、それなりに意識してデザイン(としか言いようがないことを)しているし(坂本さんが最後になってる時点でそれが言えないとは言えない)、それはモールス信号とか暗号とかみたいなもので、あるいは行頭をタテ読みさせるのにも似てて「届いてください、届いて」と思いながら遠くに住む同じ何かをもった人への記しとしてそういう風にしてたりする。もちろんその対象の一人は何度もいってる当の友だちではあるけど、べつにその人がそれをまったくわかんなくたって、はからずも別の誰かに「キャッチしましたよ」とか言われたら「あ、そうですか」という感じだし、でも生きてるうちにはそういう人には会えないって、それは仏革本書いたときから言ってるのと同じだが期待はしていない。可能性を残して楽しみにしているしそれを期待と呼んでももちろんいいけど、それは当たり前でも前提でもない、という意味で期待はしてない。