103

早起き。引っ越す友だちの家にいろいろもらいに行く。午前中で、雨がまだパラパラぐらいで助かった。大学のときの後輩の人に手伝ってもらって(いつものように)なんとかやり遂げる。(後輩が。)家がまた狭く、カオスになってゆく。それもまたよし。(よくない。全然) 土砂降りと雷雨が街へ降りそそぐ光景を塔のてっぺんから見下ろし、壊れてしまえ、もっと激しく、とか言ってみてる気分になる。あたまがボーっとして遠くが見えないし音もよく聞こえない。疲れていてそれでも立ち尽くし見ている。うるさすぎる。
魂の午後5時半。いろんな案件がストップしておる。もちろん私の責任だ。ゆんべ(=昨夜。シャーリー3&4を観てから方言にはまっている局時的に)は何とうなされて声を上げ目覚めた。そういうことが以前にも、なかったわけではないがかなりめずい(珍しい)ので自分でびびった。なぜうなされていたのか、どんな夢を見ていたのか、覚えているが意味がないので書かない。しかしこの私の責任諸々と関わりはあるだろう。大丈夫? いや、大丈夫じゃないけど、それ聞いたらあんた何かしてくれんの? いらいらしているのは梅雨が近い証拠である。

    • -

最近考えていること。ふぞろいの林檎たち、というドラマのオープニングで林檎を投げては受け取って、ということをやっている人たちがいるけど(いや知らないが)あれがとても人生に似ているなと思った。上に放り投げて、キャッチするまで。いや林檎の方ね。つまり上に放り投げられて、キャッチされるまで。それが僕の生きている時間である。手から離れたときにそれは始まり、次に手に触れたときが終わるとき。何を言いたいのかというと、「始まったものは終わる」ということを表す喩えとして(可視化というか)あの「投げて、取る」の行為が非常にわかりやすいな、と思ったわけです。
生きているあいだは、基本的には手から離れている。自由なようで、そうではないかもしれない。不自由なようで、自由なのかもしれない(いずれにせよ、手には触れていない)。それが生きている時間で、じゃあ、だからってどうしたらいいのか、と思う。
ありがちな言葉に辿りつく。
「なんのために?」
理由がない。作ればいいと誰かは言うが、それはあまりにも説得力がない。楽しむために、というのは確かにそうだが同時にそれって後づけというか「せっかく生まれたのだから」というふうに事後的に言えることであって質問の主旨には応答していない。私が聞きたいのは、「そもそも、どうして? 何を求められて? 何に答えたらいいの?」ということだ。しかし現状、その「そもそも」がない。手から離れ、手に落ちるまでの時間がある(ということにする)、というだけである。

    • -

「たしかに人の一生は短いかもしれないが、だからこそ我々は子孫を残し、あるいは思想を残すのであり、そうして後世に命や恵みを繋いでいくことが人間に与えられた役割なのであーる(R)」と、いうのが一般的なそれに対する回答、であるような気がしているが(いや、私の想像です)、その「後世」にしたっていつかは離れた元の手に戻るであろう、ということは人間の想像力をもってすれば容易に想像できるというかそう考えざるをえない。他の可能性が見当たらない。
最近、ここ数ヵ月のうちに、J.S.バッハ、ジャズ、坂本さん、という音楽家(でありジャンル)の年譜を作りながら、あるいはその少し前ぐらいから似たようなことをするうちに、どうにも歴史というものも一人の人間のようだなまるでと思われてきて、「ガリバー旅行記」とかそういうときに思い出す。たしか小人の国、みたいな所に漂着して、目を覚ますと小さい人たちが体の周りになんかアリみたいにわんさかいて、でっかいガリバーを縛りつけたりしているわけである。子どものときに絵本で見たその縛りつけられてる絵がすごいキモくて怖くてまだ憶えている。
その絵で言うところの、ちっさい人たちが人間でありガリバーさんが人間の歴史である、というような像を思い浮かべてから瞼のうらを離れない。もし神さまというのがいるのなら、それはべつに我々人間より上位に位置する何かというより、人類が生まれて以来(といっても、その「スタート」がいつなのかは謎すぎるがとりあえず「そこ」から)今までの総体を、一人の人間の人生(歩みというか)に置きかえたときの「おっきい人」のことであり、その内実は、ガリバーさんと小人ひとりのそれぞれの人間性がおそらくさして変わらないのと同じように、質的にはさして変わらない、なんてことがあるんじゃないか、というより、そういう視点で神さま、というのを設定してみると、たしかにそういう存在をある程度の現実味とともに想像することは可能かもしれないな、と思っている。まあ、もちろんここで僕が言っているそれはいわゆる宗教におけるそれとは(自覚的には)全然違う。あなたの神さまとは別のものなので「違うそれ」とか言わないように。(何だったら今後は「おっきい人」と呼んでもいい)

    • -

ようするにその場合のおっきい人だって、いつかはドラマの林檎のように、投げた手に、あるいは地面にキャッチされるときがくるという話。さらに話を戻れば、じゃあ結局落ちちゃうなら「そもそも」なんのために放り投げられたのさ? という疑問がどうしても出てくるしだけど答えられないということで、だから思うのは今のところ「何のためにってことはないけど、とりあえずそうなっていることは変わらない(だろう)」ということだ。
どうにもならないが、そうなっている。そうなっていて、どうにもならない。
じゃあ、初めからナイことにしてやれ、というのは浅はかすぎて、なぜならその意見というのは「何かがあるはず」という欲望・願望が駆動している(原動力になっている)発想でもあるからだ。本当にその願望がなく、ナイことにしてやれ、と思ったならそのときにはもはや「ナイことにする理由」がなくなっている。「どうせ欲しいものが手に入らないなら」というときの「欲しいもの」自体がない状態、これってなんてキャッチ22。
読んでないけどたぶん「火の鳥」とかもそんなことを言っていたんじゃないか。もうそっちを前提にしよう、と。その上でしかし何かを作ったり求めたりしていくことはできるだろう、と。「火の鳥」ってなんかフラクタリックな、というか最大のものと最小のものは見た目いっしょ、みたいな話だった気がするんだけど、それが持ってくる(運んでくる)メッセージというのは結局、「勝ちとか価値とかはない」ってことで、というか元々そういうのが設定されていてその中での競走(レース)をしているわけではなくて、まあしてるんだけど、でもあんまり意味とかはなくて、ただそうなってるってことで、まあ、あとは自分で考えてよ(笑)みたいなことなんじゃないかなーって、これは奥田民生の「イージューライダー」聴いたときとかにも覚えた印象で、そのはぐらかされっぷりが似てるって感じなんだけど、実際には全然はぐらかされてはいなくてむしろ正面から答えているって点において似てる、と思っている。
「そんなはずじゃなかった」というのはなんか残念で、そんなはずだった。知ってた。やだね。まあでもしょうがないね。それはそれとして、その「湯のみ」とってくれる? 的に次の仕事に向かうべきなんじゃないか、というか向かわないわけにはいかないじゃないか、というか向かいたい気がしている。