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Twitterの公式ブログというのがあって、その日本語版が更新されていたので見てみたらすごい悪文でおどろいた。たまにそういう文章に出会って非常に憤りを感じるのだが、その憤りというのは、文章そのものに対する感情ではおそらくなくて、そういう文章を書いて平気でアップしてしまう、その書き手に対する恐れというか怯えのような気持ちだと思われる。僕の考えでは、そういう文章を書ける人というのは、言わばハラスメント体質というか、他人が自分の思いどおりになって普通、という意識が前提的にある人、という気がする。それはまあ、極論ですが。

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とはいえ言葉というのはつねに極論しかくり出せない。それは喩えるなら前進しかできない乗り物のようで、あるいはゴルフのパッティングとかにも近い。チャンスは常にワンストロークであり、方向や距離感が間違っていても途中からは(あるいは同時には)修正できない。一旦ひとつの動きが終わるのを待って、その後あらためて、その間違った場所からやり直すよりほかない。
文章において、その修正は「推敲」というかたちで行なわれうる。ワンパットで沈められなければカップに入るまで何度も打つことができる。僕は何度も失敗し、穴の周りを行ったり来たりしてイヤんなりながら、しかし納得するまで打っている(ことが多い)(と思う)(たぶん)(いや、わかんないけど)。
ところが、それを強引にワンパットで終わらせてしまう人もいる。というか、ボールはカップに全然入ってないのだが「じゃあ次のホール」と言って投げ出してしまう。悪文とは、文章を直さない人に書けるものである。さらに言い換えるなら、他人の声を聞かない人に書けるものである。

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推敲について考えるなら、それは何人もの他人の声を聞き、取り入れるべき意見、取り入れる必要のない意見を判断しつつ修正を進めていく行為である。他人のフィルターを自分の中に何枚も設置し、そこを通り抜け濾過された文章がここで言う「悪文の反対」のような文章になる。僕は頭の中で何人もの他人に自分の文章を見せて、「これでいい?」と聞き、「いや、ひどい」「意味不明」「3段目の2つめの述語に対応する主語が曖昧で、これだと逆の意味にとられかねない」「言葉遣いが読み手に失礼」とかアレコレ言われて可能なかぎりそれらの提言を取り入れては、後から「わ、あいつの言ったことメチャクチャ偏ってたじゃん!これなら直さない方がよかったじゃん!」とかいう新たな突っ込みに頭をはたかれ再度直したり、といったことをしている(と思う)。
僕は肉体をもたない、ただひとつの僕の体の中にいるそういう何人もの他人の声を聞く。彼らは僕と全然違う意見をもっている。さまざまな角度から、僕のつたない文章を点検し、「まだひどい」「もう見ねえ」とか言う。しかし彼らがどれだけ遠い他人だったとしても、やはり傾向は生まれるとも思う。傾向と言っても、それは文末に「である」を連発しているとか、「〜だけど」を必ず「だけれど」にしたくなっちゃうとか、そういう、見た目で同一性のわかることではなくて、なんかもっとどうしようもなく共通して辿れてしまう何かだ。それを傾向とか個性とか文体とか言ってもいい。(言わなくてもいい)
何しろ僕だって自分の書いてる文章を名文と言っているわけではない。文章がうまいと大声で記したいわけでもない。ただひどいのを見て「ひどい」と思ったという話である。悪文の反対はしかし、上に書いたような「名文」だろうか。それとも「美文」だろうか。その辺は何でもよいのかもしれない。いずれにせよ理想は、まあ月並みですが、読んでいることを忘れるような文章である。人の声、話、とうとうと語られたその音をただぼーっと聞いておりました、みたいなそういう体験ができたら楽しい。