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ゴールデンのすべらない話とか、M-1とか録画してたのを見たがなんかかなりキツかったな。笑ってる人の顔うつしたりとか冷める。すべらんなーって、どこがやねん。というかすべった方がまだ救われる。笑い教、「いまの笑わなかったらおまえハブな」みたいな、笑う振り付けさせられる雰囲気を感じたな。いや番組の作りとして。それって自由がないし、定められた通りに「ここ笑うとこですよ」みたいな感じで本来の笑いによる楽しみの対極にあるものであるような。やっぱり発想、「それきたかw」みたいなビックリするような転換・突き抜けた感じを味わいたい。その意味でやっぱり笑っちゃいけないシリーズはさすが、と思われる部分が多々あった。それにかぎらず笑いとは共有、事前に共有されている思い込みをどう動かすか、という試みであり、ある程度視聴者の層が絞られているところならやるべきことがつかみやすいのかもしれないが、多種多様な人間が見ている前提のゴールデン枠とかでそれをやるのはあまりに困難というかチャレンジングなのかもしれない。最近のTVが低劣だとは言いやすいけど、その優劣の割合が以前からどれだけ変わったと言えるだろう? どう考えても変わったのは見る側の嗜好、いや嗜好がより厳密で細分化されてきたということではないか。もうオオアジなものでは満足できない。甘けりゃいい、多ければいい、ということではなく、我々はお茶や水を買う人たちになり微糖とか野菜中心・少量メニューとかが選択肢にごく当然に含まれた時代を生きている。というかそういうものを求めている。大勢に向けた番組を作るうえではもうそれが前提になってるだろうが、その中で面白いものがあったらそれって本当にすごい。中学入試みたいな漢字なぞなぞ延々やったりわざと不正解を言いつづけるのとか修行や訓練としては凄いし出演者もえらいが面白くはない。
ところでこのようにお笑いについて言うことが生まれるのは、どこが、何が、自分の嗜好とズレているのか、ということをある程度明確に把握しやすいからかもしれない。私はこのようなものが好きだ(嫌いだ)、ということまでは言える。そこから話が伸びて「だからこうあるべきだ」と言うときに、越権が生じがちな気もする。他人がすべきことを他人がどこまで言えるだろうか? 私に言えるのは、他人の自由を奪ってまで笑うことを強要するようなあり方って最も目的から遠いと思うしいやだな、というところ。強要したくなるのも本来的な人間の心性かもしれないが。