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もの凄いひさしぶりに完全徹夜ことかんてつ。これしないために最初っから頑張ってたつもりだが結局また。。まあまだ若いということだろうか。
徹夜してまでやらないといけない、というのはやはりどこかで条件とかが破綻している。やるべき人がやっていなかったり、やるべきでない人がやっていたり、そういうしょうもないズレがどこかにある、ということだ。ツール・ド・フランスに三輪車で出場するようなものでそれは、まあやってもいいけどちょっと違うんじゃね、ということだ。
時間と速度が決まっていて、走り切らなければならない距離もわかっている。その乗り物では絶対間に合わないとわかっているのにそれに乗っている俺ってどう? このようなことが普通にある。全速力で走れば、後ろから追いかけてくる波(水流)に呑み込まれずに済む時間が生まれるが、水流の速度は変わらず、抑揚も生じず、しかしこちらは人間だから始終全速力というわけにはいかず、全速で走るには時に休んだり速度を落とす必要もあり、そうした見込みはしかし含まれていない。波は変わらぬ速度で追いかけてくるので、いくら貯金を生んだとしてもいつまでも休んでいれば必ず追いつかれるし、というよりちょっと休んだだけですぐに呑み込まれている。呑み込まれた中からまたブワッと走り前へ波壁を抜け走りまた波に追いかけられるかたちになっている。相手は人間ではないから手加減とか予断とか油断とかしないからいつもこっちがそれを見て合わせるようなことになる。最近思うのだが、怖い、のは物が人間を扱うときの非情さであり人間が物を扱うときの非情さである。人間に対して、物を扱うように接してくる人がいてそれも怖い。人間を物のように扱う人、というのがしかし、どうして怖いのかと考えていたのだが、それはその人自身が物のように私には見えるから、ということなのかと思った。人間はやはり、人間を物のようには扱えず、人間を物のように扱うのは物だけだろうと思うのだ。怖いな、と思うのは、「こいつはこんなに悪いことをした奴なのだから、おれもこいつに対してこのぐらいヒドイことはしても良いだろうし、こいつはそれを受け入れるべきなのだ」とか思ってしまうその心性である。その心性(気持がそんな風になってしまうクセというか)自体はとても人間的かもしれないがやはりそのとき人は物になっているのではないか、少なくとも私はかなりそれになりがちでとてもそういう時にやってしまうことがなんか怖いしいつの間にか!と思っている。