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仏革のときもschola1巻のときも思ってたのは、ささげる、というようなことで、時間や集中力や体力をそれにつぎこむ、というのはもちろん、なんかある種のまじないみたいな、げんかつぎ的なことも含めて、つまりたとえば好きなものやことを断って、作業に取り組むことが必要とされるうえに当然なんじゃないかと思っていた。blog書かない、とかもそのささやかな一環だったりしたわけだが、そうなると今度はだんだん「好きなことを断ちさえすれば上手くいく」というような、本末転倒的な事態にもなりそうだ。たしかに、事実のつながりで「AをしなければBは生じない」といったことはあるというか言えることもあるだろうから本末転倒とばかりも言えないが、手段としてのそれが目的化してくる、といったことは可能性としてあるというか高まりうる。
本来の要望として、作業および結果をよいものにしたい、ということがあるとして、そのために何がじゃまだったのか、あるいは必須だったのか、あるいはそれらは同じものでもあったのか、とか、セオリーのようなマニュアルのようなものはナイとも言えるしアルとも言える。ではアルと言えるならどんなことだろう、ということを思っている。
私は多くをささげているが、それは何のための誰のためのことだろうか。げんかつぎはくだらない、とは思うけどそれが生まれる理由があることはよくわかる、気がする。その理由の方を考えたい。そこにはある程度妥当な理由があるはずだ。
多視点を求めているのだろうか。リズムの変化を求めているのか。安心を欲しているけど退屈はやはりイヤなのだろう。私は、壊れていくこと、悪いことをしていくことを前提的に望んでいるように思われる。秩序を設定しそこにコアの要素を一部流し込むことで、壊れていく様子をよりわかりやすいかたちで観察しようとしているようにも思える。ここには、アル場所からすれば何もないとすら言えるような気もするし、何かはアル、と言える気もする。作業を進めていると、「それもよこせ、それもよこせ」と言われている気になる。まだ足りないのか? と思い、まだ差し出さなければならないのか、誰のために、なぜ、と思ってしまう。それさえすればいいのか、うだうだあてもなく身を保っている。目をつぶって飛んじゃえばいい、といった忠告を心から拒絶する。結果的に致命的に失うだろうか。私は失うことにいまだに馴れない。納得のできる理由があるはずだ。アドヴァイスはいらない。助けがほしい。よく生きるとは、より想像をして生きる、ということに似ているだろうか。とても大事なものを、理由もわからずに渡せるものだろうか。かたちやしるしを残すことで次を見定めやすくなることはあるだろうが、そのためにおこなっているのではなく、やはり納得のいく何かのためにおこなっている。そこには通行証なり入場料なりのようなものとして「それをよこせ」と言ってくる入り口があるのだろうか。