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2001年の末ぐらいまでずっと音楽誌を読んでいた。高3で予備校に通いはじめて浪人して美大に入って卒業してもまだ読んでいた。 japanを読んでrockingonを読んでsnoozerを読んだ。snoozerは表紙がカッコよすぎる創刊から買った。フジロックには2000年、2001年、2003年に行った。どれも三日通し券。毎年前後あわせて5日間、新潟にいる。サマソニも第1回だけ行った。weezerが見たくて。 you gave your love to me softly聴いて衝撃。俺が一番weezer好きだと思ってたけどその曲を知らなくて周りはみんな大声で歌っていたから衝撃だった。 wireも最初の2回行ったなー。エイフェックスとかノーマン・クックとか来てた。ダレン・エマーソンとか。あ、それエレクトラグライドだ。wireはウェストバムとか田中フミヤとか。迷走、漂泊、疲労の日々。

いろいろあるんだけどある頃から僕ペンキ屋さんで働きまくって世の中のことに関心それまで以上になくなり音楽誌も買わなくなった。早朝、現場、深夜、帰宅、早朝、のエバーエブリーくり返し。久保憲司さんの写真や文章や写真集を読んでいたことを忘れていたが、いや、忘れているというより目の前からポッカリなくなっていたが、偶然知った渋谷でおこなわれている岡村詩野さんの音楽ライター講座のゲストに久保さんが来るというので昨日行ってきた。

久保憲司さんの写真や文章や写真集を読んでいたことを忘れていたが、いや、忘れているというより目の前からポッカリなくなっていた。それが妙なかたちでよみがえった。どう妙というのもいいがたい。単に再燃したとかではない何か。

久保さんは想像していた以上に想像しているとおりの素晴らしい方だった。岡村さんもほんとに素晴らしい方だった。講座もすごかった。どうすごいのかって言いづらい。まとめてしまえば嘘だと自分に言われそう。期待していた何倍かのレヴェルでえらいものを得てしまった。その内容をいえばきっとそれは消えるだろう。それでも言えるようには言っている。まあ、というか、じゃあ、どんだけ何も期待していなかったのかよ、というぐらい倍返し、倍々返しという感じ。

質疑応答とかになったらどうしよう、と開講前から思っていた唯一のことはそれ。だって、僕は久保さんをただ見るためだけに行ったのだ。聞きたいことがあるのでも、お話したい何かがあるのでもなくて、これが間近で話を聞けるラストチャンスかも、という気がとてもした。僕はずっと前から久保さんをとても近くに勝手に感じていたが、それは常にモノクロのザラ紙に写った顔や文字での存在だ。生きて動いているところを見られる、というのはなんて奇跡的な確率&幸運だろう、ということを時々思うようにまた思った。

FRFフジロック)に行った3回のうち2回はやはりそれだった。最初はshing02を見るためだけに行ったし、2回目はエミネムを見るためだけに行ったのだ。エミネムなんか最前列ダゼ!(その前のtoolは2列目)3回目は3匹目のドジョウを釣りに惰性で行ったら案の定なんのカタルシスもなかったが、たまたま見かけたデートコースなんちゃらというジャムバンドのコンダクターがスリルのマッド・コンダクターとかスカパラのギムラさんみたいになんかトリックスター風でアヤシー笑しかも細せー笑とか思ったので帰って買ったばかりのパソコン(windows me)で検索したらなんかフランス料理とか読んだ本とかレコーディングしたとかそういう話ばっかりいつまでも終わらない文章でサイトに書いていてでも凄く気持良い空間をそこに醸しているものだから(あとから考えるとそれが自由だった)なんか読みつづけることになってしまって(サイドバーの「お気に入り」から毎日見に行った)翌年1月に唐突に募集されたペン大に入ったのだった。

すごい人に会うとそれまでにちょっとずつ固定化・固着化してなんとか堅牢にと積み上げてきた文律みたいなものの後ろ盾というか土台が揺らいで「おい、今までやってきたことを無に帰すなよな」とその人やその人に感化されてしまった自分に言いたくなり守りたくもなるけど、それ以上にガラガラと崩れていくのを見ているうちにあああああ、という絶望みたいなもののウラに貼り付いてるヤッター!みたいのが顔を出してきて「これで良かったんじゃね? っていうかこれが欲しかったのかも」とか思いはじめてたのしくなる。それが良いことなのかはまったくわからないがそれは止まっていたものが(あるいは止まりかけていた、減速していたものが)ふたたび動き出す光景で、そこに私が乗っている。
行けないはずだったところに方向転換をしたマシンに私は乗っていて、それを動かしているのは私ではない私の出会ったすごい人だ。どのように生きて何を見て何をつくるか、ということを決めるのは自分で良いというか自分でしかないと言っていい気もするけど、会いにいく、と決めるのはそれ以上に自分でできる。かなり簡単にそれは(本当は)できる。行ったことのないところで、自分は「また、あの」未経験者に逆戻りであるし、もう小学校や大学初年度みたいな新入り気分はイヤだと思うし出来るかぎりそういうのからは逃げたい逃げつづけたいところだが、それが結局不自由や固着の退屈さを呼び込んでいくとは言える(かもしれない)。会いたい人に会う、というのは全然(本当は)大変なことではないようで、いわんやその渦中にいるのならをや、だ。たぶん麻酔にかかっている。

話されたひとつひとつのトピックが、上にも書いたが想像を遥かに越えて有意義だった。隣で時々意見を口にする生徒さん(通常回の講座にも出席されている感じの)の言うことがまたひとつひとつ参考になってメモをとる。僕はまたいつものようにコピー紙(反故)の裏に水性太書きペンでメモのような絵を走らせつづけたのだった。そういうことをチェルフィッチュの6時間稽古でもしたし、そもそも最初にしたのはたぶん高3の代ゼミ美術コースから帰ってきて講師に言われたことを思い出しながらメモした時じゃないかと思う。でも、どうして代ゼミのアトリエでそれを書いていなかったのかが不思議だ。

何が有意義だったのかという具体的な話はもったいないから書かない。それは、僕がいろんな他の選択肢を具体的に捨ててそこへ行ったことにより得たもので無償のものではない。誰にでもできるが誰もがやることではまったくない。僕には特別なことをする能力はかなりナイ気がしているけど誰にでもある能力で特別しつこい何かをすることは時々ある(気がする)。それで今までにない体験を、「また、あの」体験をして本当にありがたかった。そんなことは9割がたムリ、不安だし、と思っていた久保さんのサインをもらった。どうしようか行く前から迷っていたけど機会がめぐってきたので(岡村さんが教室の人々にその機会を与えてくれたというのもある)、行く前から「もらうならこのページかな」と思っていたところに書いてもらった。年月を経てその作品と付き合った。僕はその写真集が発売されたことを97年のsnoozer誌上にあった紹介記事で知ってあまりにそのページが(紹介文と表紙がモノクロで掲載されたけっこう小さめの記事だった)カッコよくてきらきらしていたから出版社と書名を紙にメモして近所の書店に注文した。