103

宮沢章夫さんの日記&サイトがほんのちょっと見ないあいだにイイ感じのデザインになってて驚いた。ホントにちょっとしか、見ない期間なかったのに。
サイドバーにふたたび、Twitterステイタス(更新)流すようにしてみた。加えて、favつけた記事も見れるように。それがどうした、という気もするが。
今日はムチャクチャあつかった。湿気もあったような。いやあった。まだ家、ちょっとあついんですけど。
そういえばしばらく、僕のネット周りで話題はアイホンとコメント/トラバ欄について。前者は数時間で収束したけど後者はなんかヤーな感じでまだくすぶってる風な気が。あと今からイナゴっつったやつ罰金な。
ある種のおじさんブロガーがつい威張りたくなっちゃうのは何でだろうね。芸としてキャラとしてやってる自覚かもしれないしそれで構わないししばらくして「彼のゆう通りだったな」となる可能性も低からんけど、でも自分の中に批判対象と共通する共有してるものがある、という自覚・実感がどれだけあるのかと疑問になる風合いではある。
知ってる中のことで決着つける感じもなんか納得いかないな。威張るのはいいさ。提言もまた良し。but 自分で考える人々の自由をもっとフィーチャー尊重してほしいな。信じてくれなくていんだけど全然、でもキミの想像力はどこいった? という。
未知のなんか、でてくるかもしれないブレイクスルー的突破口を待望している。そんなのないよ、となるかもしれないし僕の方がじつは保守&固執なのかもしれない。but 間違えないために考えないのよりは、ヤな汗かいても自分で立てるようになった方が度違いにラクな気が。
結局身繕い(みづくろい)の言葉っていうかな、「さっき言ったことやっぱナシ、ホントはこっちが言いたかった!」ってこと、スタートから5メートルまでの距離の中で何万遍も反芻して言い直してるだけみたいな、そんな、誰も見てませんて! と思うけど本人はずっと汗かいて気にしてコントロールしたがってるなんてそんなのもうヤじゃん。それはもうそれとして、歩いてどこまで行けてそこで周りに何がみえるのかって、そっちに興味ありすぎ。
たしかになんかしら感覚が麻痺してきて、言っちゃいけない(とされる、で、実際に往々にしてその通り言わない方が良かった)ことを言ってしまったりとか、それはまあ歓迎できることではないかもしれないけどもこれまで通りの良識というか判断材料を上辺で踏襲してマルバツつけるのはむしろグロテスクというか、現象に直に対峙してその都度判断思考してくよりないんじゃないか。鈍感になれというのでも刺激的なのが新しいというのでもあらゆる障壁バリヤを低くして、とか言うのでもなくて、なんか、これまでこうだった「から」じゃなくて、これまでこうだった「けど」今回はその上で考えてこうじゃないのかもしかしてどう考えても、という方向がいいな。欲望が、ある方向に、音もない濁流のように動いている。それを押しとどめよう/逆行しようとする自分を見るんじゃなくて、どうしてそれがそっちに流れているのかを見ていたい。どうしてそっちなんだ? わかった、もうじゃあそれはしょうがないとしてさ、そのエネルギーを利用して役立てるぐらいのあれで行こうか、とか。言葉の響きに敏感すぎなんだよ。しかも浅い。もっとレイヤー重ねてさ。そうしろ、じゃなくてそうした方がラクだよきっとという話。構造を見て、彼がその言い回しを経由してその胸の方では何を抱えてリリースしようとしていたのか、それを「察す」ることのが大事だろ。どんな車に乗ってきたのかじゃなくて誰が乗ってきたのかを見ろよ。それしかやることないじゃん。言葉を信じすぎだろ、と思うことmjしきり。自分がわかってればいい、自分だけがわかってればいい。自分がわかってればいい、自分だけがわかってればいい。他人にもオkと言ってもらえないと不安なんだな。だからそれが言葉信じすぎって話。その、他人っていうのも想像しているところのそれは結局自分のヴァリエーションで、認められたつって嬉しくなってもそれファスナー開けたら自分が入ってますから。
だから仏革にありがたいご感想とかもらっても僕べつにジンとかしないでなんかフィクションの登場人物が褒められたような気持になる。そのご感想が、僕の中のでない他人によるものだからだ。僕を気持よく/安心させるためのものとしてのそれではないからいつまでも実感がない。よく「本屋さんに並んだら実感するのでは」とか「はじめて感想をもらった時が云々」とかあったけど全然そんな。そりゃ妄想の外で起こったことだから。
レイヤーを重ねて、どうしてそうなのかな、と、包装を一つ一つ取って中身のコアを見つめて、ああ、本当はこんなことがあるのか、と読む能力が我々には卓抜しているはずではないのか? あるいは度外れて欠落しているからこそ劣等感的に空気読む必要を説かれているのか・・・? 反応してしまうところまでは、それは叩けば鳴る音のように仕方ないとしても、そこで「音鳴るから叩くな」ではなくて、どうして叩きたくなるのかを考える力があるかあればその方がいいんじゃないか。