103

仏革本、詰めの作業ひきつづき。毎日あたらしいことをしていて夢の中かと思う。明日も早いです。
最近、年始に録画しておいたフルハウスを時々見てます。ウルトラ面白いなあ。最近のテレビが面白くなくなったなんて、そんなことはなくて、それはひとえに視聴者がそれを求めているのだろう。それ、とは何かというと、簡単な刺激だろう。ちょっと集中しておかないとわからない長い文章のようなネタではオチに行く前にチャンネルを変えられてしまう。チャンネルを変えることが悪いはずもなくて、つまりそういうのが求められているしつい求めてしまう。30分ぐらいかけて語り終える童話があったとして、7分ぐらいで飽きてしまったと言ってそこまでに関する感想を言ってみてもそれはその童話に対する感想だと言えるだろうか。言えるし、言えないというところかなあ。最初の7分、いや12秒にさえ、そのお話のエッセンスは詰まっているという論理があったとして、そういえば、糸井重里さんがほぼ日のコラムか何かで、鍋いっぱいの味噌汁の味をみるためにそれをぜんぶ飲む必要はなくて、ほんのひと口すくうだけで良い(わかる)というのは何だか不思議だ、みたいなことを言っていた気がするけど、それは隠されていた確かに事実であると同時にもちろん言えることの全部ではなくて、やっぱり最後まで飲みきってみて初めて言えることだってあるんだろう。まじな話、頭でいろんなピースがカチッ、カチッ、ってはまって「なーんだ、そういうことだったのか!」なんて思った構造的理解が現実にそのままはまるなんてことの方が少ないんじゃないだろうか。
言いたいことはフルハウスである。いや、そうではない。簡単に受け取ってすぐ投げ返す「ある程度」のコミュニケーションを本当に楽しくて気持良くてやっている、ということがあるだろうか。それはやっぱり退屈で苦痛なことではないだろうか。楽しいとラクは違うのだ、と誰かが言ったがそれは本当だろうか。楽しいということはやっぱり肉体的にラクなことではないだろうか。その退屈とは何語か。その退屈がさししめすものは、そんなに狭義の状況であるのだろうか。そう一様でも簡単でもあるはずはないのじゃないか。受け取って、すぐ投げ返す。そうしたいわけではない。そうしろ、と言うやつがいるから急かされてそうしてしまうのだ。そのあいだにあるものが好きなのだ。たぶん面白いのだ。たしかに、受け取る瞬間と押し出す瞬間には何かが生じる。それはわかっている。でも、その途中にあるもの、受け取ってから投げ返すまでのところの時間のあり方が長かったり重かったり何もないけどただあったりすることによって、その両端にあるものの意味や事実的なあり方は大きく変わっていくはずなのだ。両端だけをフィーチャーしてそれを先鋭化して、そこには大きな意義がある。固有の時代に応じた新しいものも出てくるだろう。でもそれはいくつかあるうちの一つだ。それだけではない。自分はどうなのか。僕はどうなんだろうな。答えはない。出せない。そういうのが必要なわけでもない。威張ったってしかたがない。面白いものがいいな。気持のよいものがいい。大体、思うのだが、同じ人間なのだから目的はほとんど似たり寄ったりのはずだろう。というか同じと言ってさえ良いのではないか。人間同士であらそうなんておろかすぎる。という僕は人間に文句を言っているのだが。でもそれは動物としてしかたないことなのかな。でもニヒリズムというのでもなくて進んではいるんだろう。これは考える言葉である。と同時にブログの言葉でもある。不思議だ。そんなことがあるのだろうか。早い人では、これを僕が書き終えて3分後ぐらいには見るのだろう。そんなことがあるのだ。これは考える言葉で、だからネットの言葉とはちょっと違う。僕の言う意味では違う気が。それ以上はまた本とかにするか。でもネットの言葉をネットで書くのも今やちょっとグロテスクな気が。このぐらいでいいのかもしれない。