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 文芸誌『新潮』の先月号を図書館で借りて、かるい気持で四方田犬彦『先生とわたし』を読み始めたら物凄い面白くて、ずっと読んでしまう。それから、脈絡もなく川上弘美『光ってみえるもの、あれは』を再読。うーん、これも面白い。でもこれはどうしても、山田詠美『ぼくは勉強ができない』を思い出してしまう。そういうコンセプトなのかもしれない。でも面白い。ちょっとマンガっぽいんだな、良い意味で。
 再読、で思い出したけど、読了、という言葉について、以前宮沢章夫さんが「私はそういう言葉を使わないと思う」みたいなことを言っていて、それはまあそうか、と思っていたんだが、最近、いやしかし、読了、っていう概念もそんなに悪くないというか間違ってはいないんじゃないかなって気がしてきた。それは言ってみれば読書をダウンロードとかインストールとか(違いをあまり知らないけど)いうのと同様に、自分の体をマシンのように、無自覚であれ意識的であれ捉えているという事で、つまり本を読むという行為について、読んでいるあいだずっとその内容を自分は理解している、しなければならない、と思っている人にとっては「読了なんて概念は自分には関係ない」という事になるかもしれないのだが、自分が読んでいる内容をその時点において理解し切れなくて良い、そんな事が出来るはずはない、また同時に、読んでいる際には実は、その時点での理解・非理解に関わらず、ある種の情報は意識されないまま、頭に書き込まれていっているかもしれない、という前提を持っておいたなら、「とりあえず最後のページまで文字を追っておく」という行為には、それなりの意味があるのかもしれないな、と思って、こういう印象はたぶん大谷能生フランス革命第1回や、こないだの大谷さんの246レクチャー、それから先日のシンポジウムへ至る、構造構成主義や竹田先生の現象学や、池田先生の科学論について、あれこれ関連文献に触れていたって事から来てる気がする。
 あとマンガ、で思い出したのだが、どうしてもマンガなんて言うと学術論文や新聞などに比べて低かったり軽かったりして見られがちなのだが、その正否は置いといて、理由として「わかりやすい」って事がある気がした。つまり、「そんなの、わかってる」と思われるそれは低く見られ、「わからない」という事が少なからず高等に扱われがちなのではないか。数学や科学の入り組んだ仕組みがあって、それを理解「できない」という事は人間的価値、能力が「ない」ってことに、思われがちなのかもしれない。その点、マンガや易しい文章は「すぐわかる」性質を本来的に持っているから、その種の視点から見たらそうなるって事なのか。だからマンガの方がどうこう、という話ではないのだが、それでもそうやって「わかった」気にさせる性質はやはり凄い。でもきっとマンガにしても「わかった」と思った裏側で、頭の方はそれとは別種の物語や情報を駆動させている、という可能性はあって、「わかった気になる」というのは、それ自体気持のよい事だから忌避する必要もないのだが、ただ「全部はきっとわからない」という自覚を持ったままそういう気になる、というのがとりあえず面白いような気もする。
 それで多分この辺の話は、シンポジウムで西條さんが言っていた、無意識に持っている思い込みを対象化する事で少しは変わるかもしれない、といった話にも近い。ところでそのシンポジウムでは二つ、気になった質疑応答における質問があって、そのどちらについても僕は「タブレットのようにポイと服用すれば全部解決するような真理的回答を、求めんなよ」と思った。