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 今日は目白(と池袋のあいだ)までこれを見にいってきました。
 http://www6.kiwi-us.com/~popotame/shop/archives/2007/02/16.html

「身近な本ができること」
16日(金)18:30〜20:00 参加費500円(お茶付)
第一部 中山亜弓(中野・タコシェ)×小川てつオ のトーク「つくる人*うる人」
第二部 いちむらみさこ紙芝居「スイカさんとメロンさん」
第三部 トーク いちむらみさこ×小川てつオ(司会:大林えり子◎ポポタム)

 小川さんに会いに。いやもう・・・フランス革命第9回、思い出しました。とても良い時間でした。いちむらさんの紙芝居、すごかった。小川さんの本『このようなやり方で300年の人生を生きていく』を買って来れてよかった。文章、すごくいい。文章っていうか、内容。エノアールもぜひ行こうと思った。
 小川さんの本の紹介は以下。
 http://kyototto.com/book1.htm
 http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0011011773
 ただこちらの本、内容はまったくとても面白いんだけど、製本、もう少し何とかなるのでは、という気もする。1000円であるから、1000円であるとなるとどうかな、と思った。あるいは、他の本が安すぎるのだろうか。考えがいのある問題だ。
 そうそう、タコシェの方のお話を聞けてそれも嬉しかった。今度行ってみよう。関係ないけど(あるか)吉祥寺の百年も行ってみたい。
 と、ここまで書いてこの記事は終わりのつもりだったんだが、帰り道に考えていたことをちょっと思い出したのでもう少し書くと、今回のイベントでゲストの小川さんといちむらさんは「本を作る人」という切り口で話を振られていたりして、それは会場が本屋さんだったから、ということもあるしそういうテーマ自体は面白いから良いのだが、ただ少し突っ込んで考えてみれば、このお二人は著述家として生きているというよりも、いくつかあるアウトプットのひとつとして「本を作る」ってことをしてるんだろうとも思う。もちろん、だからと言って「彼らのことを本を作る人として扱うのでは足りない」とか、「間違っている」とか言いたいのでもなくて、また、その「いろいろあるアウトプット」というのが公平な割合で重きを置かれているとも思わないし、さらにまた、本を作るという方法はそれなりの独自な意味を持って彼らによって選択されているのだろうとも思うのだ、が、そのうえで言ってみれば、やはり「人生」とか「ライフ」とかルビを振るたぐいの、アートとしてそれは行為されているんだろうな、と思う。
 などと言うと、あたかも僕が曖昧なものに無理にかたちや名前を付けて「いっちょあがり」的に整理整頓してみせた、みたいな気もしてくるのだがそうではなくて、ただ自然でダルな直観として、「それはやっぱりアートだろ」と思うし、逆に言えばアート(ルビ:ライフ、人生)というのはこのお二人がやっているような生き方と切り離しようがないよな、ってことである。
 という流れでさらにイモづる式に思い出すのが最近マジで気になっている、というより素直に言えば気に障っているある磁場で、つまり「アートとお金の関係についてもっと考えよう」的な上からものを言うような、あるいは私が引っ張っていきますよ的な、無意識上の優位性と共に語られる言説が実在してる。それはときに「アートの社会化」とかいうもんどりうちたくなるような言葉を通しても表されるが、そういうことを言う人がいや、というよりそういう思想、考え方が激しくいやだと思ってる。というのも、そういう話からは「システムだけ作っときゃいいだろ」的なイージーさしか抽出できず、早い話が「視野、狭すぎ」だ。アートにはたしかにお金があればいいこともあるし、アートマネジメントについて考えることは有用だろうが、そこには「アートって何だっけ?」という不断の問いが大前提的に不可欠で、それをせずに、と言うよりそういう問いは横にあるデカい白い麻袋にボンッて入れて後回しにしたまま「アートにお金を回すには・・・」みたいな議論をするのは不毛以前に不可解だし、そういうことを言うやつは単に威張りたいだけなのだ。繰り返しになるが、アートにはたしかにお金があればいいこともある。が、それは「あればあるほどいい」ということではまったくない。アートを口実に問題のための問題、批判のための批判、みたいなことをして抑圧機構を運営する人ら、というのが本当にいて、もうそういう人自体はしかたないのだが、その抑圧を受けて困ってる人がいるとやりきれないようなえも言われぬ気持で無言になってしまうし、そういう人は小川さんの本を読んだらいい、というオチにできたら良いところだがそうもいかず、なぜならこれはこれで、決して結論を出している本ではないにも拘らず、結論であるように見えなくもない性質を持ってしまっているからで、いちばんいいのはたぶん、この本を道具にまたあれこれ考えて考えて、ちょっとわからないことには保留をつけつづけ、まわりがどう急かしてきても自分で考えるってことをするってことだろうがそれがすなわち小川さんやいちむらさんのやってることでも、まあ、ある。
 と、結論づけてしまうと、小川さんたちを「良」の権化に抽象化というか暗喩してしまって間違ってもいる。菊地さんがそっくりもぐらさんの掲示板でもよく言うように(前田トークで)、一人の実在の人を「いいとこばっかりの人」みたいに思うのは激しく良くない。いや、良いは良いんだが、問題はあるって言い方だろうか。そのある人の良いところは良い、でも、決して尊敬できないひどいところだってあって、まあ、それを許容はできないが、そういうところも持った一個の人間としてトータルで見て、OKです、良いです、といった毒を食らわば皿まで的な、違うか、清濁あわせ飲む的な(こっちだ)飲み方で小川さんたちのアートを「良い」と言ってオススメしたい感じではある。