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 批評とは

 ちょっと前の日記に書いた、文芸誌「新潮」に載っていた島本理生さんの短編「クロコダイルの午睡」、最初の半分ぐらいを読んでいる時は、おお、面白い、推進力あるー!うん、俺はこの人のこと随分誤解していたかもな、と思って、読んでる途中だったんだけどそのまま思ったように「いいかも!」って書いたのだが、その後読み終えたらいろいろ思うところあり、しかもちょっと複雑というか微妙というか、簡単に切り捨てられそうでもあるのだが切り捨てるのは待った方がいいんじゃないか、とかいうタグイの話でそれは、でも結局何を思っていたのかっていう具体的なことを自分でも知りたかったので以下にためしにだらだら書きつつ考えてみました。
 と、その前に、このエントリーはもしかしたら(というか)内容に関わることが書いてあるかもなので、いや、本当はあんまり書いてないんだけど、ただ該当の作品を読む前の人には読み方を限定するってことも当然あるだろうから、島本ファンならびに読書ファンの方でそういうのが気になるような方は、注意、というか気づかい。

 で、最後まで読んでみたらとりあえずドヨーーーーンと落ち込むような感じになって、まあ後味が悪いっていうことなのだが、といっても僕はハッピーエンディングだけが好きってわけじゃなく、好きだが、とはいえむしろ話がどうであれ、何か残るものがあればいいだろう、小説のストーリーってのは、と思っているのだが、この小説の後味の悪さというのはストーリーに関するものではなくて、作者から僕が受け取った「・・・俺、というか読者、馬鹿にされてる?」みたいな気持で、言ってみれば不快感だった。
 というのはしかし、僕自身にしたら言うまでもないのだが島本さん個人への誹謗ではなくて、また作品を貶めたくて言ってるのでもなく、むしろきちんと考えたくて言っている。
 最初に、「ああ、面白い」と思ったのはキャラクターの一人、語り手ではなくて実質の主人公みたいな男子がいるのだが、彼が凄く生きているな、彼に感情移入できてしまうな、もっとこの人がどう考えていて何を言うのか聞きたいなー、と感じることが出来たからで、こういう魅力的な人を書けるんだ島本さんは、と思って嬉しくなったのだったが、どんどん読んでいくとその男子以外の人たちはどれも薄っぺらい。薄っぺらい登場人物だからダメなのかというとそれは僕にはわからなくて、ただ薄っぺらいというのを言い換えると、作者は彼ら出演者をあんまり熱心に見ていこうとしていない、書いていこうとはしていない、言ってみれば登場人物たちに対する愛がないというか、どっかこう、かつて先輩作家の誰かたちが造形し類型化したキャラクター像にあてはめていっちょ上がりって感じにしてないか?っていうことだ。といってもさらに、僕は類型化されたどっかで見たようなキャラ、つまりすでにパターン化された考え方や行動をするの登場人物というものが悪いと言っているのでもなくて(「キャラが平板だ」とか「類型的に過ぎる」とかいうのは、ただのトピック名で内容を全然説明していないので何も言っていないに等しいというか言ってもしょうがない)、何と言うかな、「まあ、こんなもんでしょ?」とか作者に言われちゃってるような気がしてそれがなんだか不快だったのだ。
 最後まで読まなくても、それが片手間に書かれたようなもんじゃないことは想像できもするのだが、あるいはこれを片手間に書いたんなら大したものだとも思うけど、でもそんなことは結局どうでもよくて、やっぱり読んだあとに一抹の不毛感というか、あーあ、みたいな残念感とともに、というか同じ意味だが「まだできるんじゃないの?」とか思ってしまう俺がいる。それも、「かなりいいところまで行ってるんだからあと一歩!」なんていう意味のそれではなくて、なんだ、根源的な大事な部分がすっかり抜け落ちてるんじゃないか?という意味でのそれだ。
 根源的な云々っていうのは何か、と、もう少し言うと、「うん、よく出来てる。でも、面白くない」ということで、それって個人的な好みでは?という気もするが、そしてその面はもちろんあるが、でもそうじゃない。「よく出来てる。でも、面白くない」なんて言うと、一見、後者の「面白くない」が大事だと言っているように思えるかもしれないが、大事なのは前者である。「よく出来てる」。そう、でもそれは、罠だと思う。そんなのは、いらないんだと言ってもいい、いや、よくない、いらなくはないのだが、ひとまずそう言うことがここでは必要で、「よく出来てる」、というのは何だ、あれだ、頑張れば手の届くところにあるものをゲットできている、という状態だ。島本さんは、頑張っている、頑張って、それを手にしている、偉い、大したものだ、でも、それは勉強すれば取れるテストの点のようなもので、と説明するときの「勉強」とか「テスト」こそまさに類型の典型で恥ずかしいのだが(テストで良い点を取るためにする勉強は人それぞれ違うはずだし)、とはいえその辺はあくまで比喩として通しておくと、そういう繋がりでやっぱり僕は彼女を優等生的に捉えてしまうのかもしれない。何というか、本当、よくできた作文。っていう感じがしてしまうのだ。それはきっと、非のうちどころがないできばえで、先生にも誉められる、でも唯一の欠点もまた、その非のうちどころのなさなのだ・・・と、言ってしまうとこれもまた月並みな言い方をしたがゆえの僕の失敗で、そこまで言い切ってしまうと言いたいことが逆に言い切れなくなってしまうから言い直さなきゃいけない、つまりですね、良いできばえの作文ができました、先生も欠点を指摘することができません、でも、それを書いた子は優しくない。
 チャーリー・パーカーがすげえ問題な人間で、でも演奏は神がかっていたとか、とあるギターの神様がもの凄いヤな奴だったじつは、とか、それでも彼らは演奏がいいからそれでも構わないのだとか、そんな話はゴロゴロしている、あのバンドの連中は普段だらしなくって最低なんだがステージでは最高なんだよ!とかそういう。でも、そういうのとは別に(別じゃないのだが)、やっぱり人は優しくなきゃいけないってことがある。ヤな奴では、だめなのだ。
 というのはほとんど僕の結論に近いが、いろいろ間にある大事なハシゴを端折ってしまっているので唐突かもしれない上に言いたいことが言えていない。でも結論が言えてるからいい、と言いたくもなるが、やっぱり過程が、というか「足りないな」と思いながら言ってる最中が大事なんだろうから振り返って端折ってしまった部分を書いていくと、島本さんの提示する一つ一つの風景、世界観というのはかつて先達によって作られた表現方法なり登場人物をそのまま流用していて、そういうサンプリング的な行為自体はいいのだが、いや本当に、でもなんというかな、「これ、前にあの人が使って評判がよかった使い回しだから使ってみたんだけど、っていうことはあの人がされたようにこの部分に関しては評価してくれるよね?」というような、「評価」込みでの引用の動機があるように僕には感じられてしまって、おい、君、この部分って本当に君が書きたくて書いたのか?それとも、そのフレーズ(ないしエピソード)を置くことで誉められたくって書いたのか?と彼女に問いかけてみたくなる。僕の印象では、島本さんの前にはすでに使えるフレーズの選択肢が決まって並んでいて、その中から一番得点の高そうなものを選んでいるって像がある。それは考えようによっては非常に野心的とも言えるし、しかもそれを経てちゃんと作品のレベル(というのがあるのかどうか)まで小説を着地させているんだから凄いのだけど、でもそれってもうコーディネート(見立て)の分野であって、というかコーディネートにおける創作とその可能性の話であって、小説の面白さとは別である。だから悪い、というのではなくて、だから面白くないのだ。
 可能性という言葉をいま僕は使ったけれども、小説の面白さはその可能性って部分にあって、誰も使ったことのない言葉を使ってしまっては小説にならないのに(誰かがどこかで使った言葉、しか使われないのが小説なのに)、それを使ってまだ何を作るの?という謎解きみたいなものでもある。(わからない。いまちょっと適当に言った。ともあれ、)そういう謎を俯瞰というか上から鳥瞰、達観して、コーディネート業に身を委ねることを潔いと言うこともできるかもしれないんだが、なんというか、やっぱり「上手くやっている」ようにしか見えないのが僕の印象、というかそうか、あれだ、小さくまとまってる。のだ。
 さて(とかいって)、つらつら書いたけど途中で言ったようにこれは島本さんへの悪口でもねたみでもなくて、批評のはじまりに関する話である。とか言っちゃうと何だか恐れ多いことを口にした気もするが、それをつぶやくために書き始めたようなところもあるエントリーなので死ぬ前につぶやいておこう。つまり、批評というのは感想でも意見でもなくて、当たり前だが誹謗でもねたみの吐露でもない。批評というのは、思った通りに誉めるか、ダメだと思ったところを作者に納得させる覚悟で言うか、あるいはその両方か、だと思う。(考え中なので断言しないが、たぶん間違いない。)
 という意味では、まず第一にここまでの記述は、悪口ではないにせよ(ですよね)ただの感想、ないし意見の表明というところに留まっていて、それが批評というものに比べて劣っている、とかってことはまるでないのだが、ただ僕がここでいま言いたいのは(やりたいのは)そうじゃなくって批評の方だ、という話。といっても、じつは僕は島本さんという作家さんとそこまでの覚悟をして(批評という現場を媒介にして)取っ組み合っていきたいとも必ずしも思っていなくて、それは彼女の作品をよく知らないから、ということもあるし、またこの限られた時間というか人生においてはもっと先に取っ組み合っておくべき(おきたい)相手というのがありそうだからそう言うのだが、しかしそれでも尚、僕がこんな風にぐだぐだ文字を連ねている理由は、島本さんの「クロコダイルの午睡」というこの作品が、僕にとって、かつて菊地さんと大谷さんが東大講義の最初の回(2004年4月17日のことでした)で仰っていた「非分析誘発性」を有しているからで、僕はこれを一回読み終えてドヨーーンとしながら、この気持を果たしてたんなる「期待はずれ」として切り捨ててもよいものだろうか、とひっかかったのだ。よいはずがない。こんなにひっかかるのだから。僕は思った、ではさてどうして、こんなにダメなんだろう?・・・もしかするとこの作品は、僕にとってダメである、というよりも、なにか根源的な過ちを犯しているか、そうでなければ間違った方向へ突き進む途上で落とされたSOS的なパン屑としてあるのではないだろうか?・・・僕はこの人が今後どうなっていくかということを考えたくてこんなことを書いているのではなくて、この問題(具体的にどうというよりここで書いてる全部)が広く小説全般、創作全般、っていうか俺の今後に、関わる問題なんじゃないか?と、思っている。

 ちょっと切り口(というか)を変えると、さっきから僕はこの作品、ひいては島本さんを、「優等生」だとか「欠点が(一見)ない」とか言っているのだが、同時にそれらをずっと大いなる欠点の一部としてしか言っていなくて、なかなか美点を挙げているようには聞こえないだろうし、実際自分でも、ああやっぱり欠点を挙げちゃってるだけだなーとか思っているのだがそれもそのはずで、「よく出来ている」というのはやっぱり誉め言葉になっていない。小説というものにはあからさまなイビツさ、のようなものが凡庸を超えて発揮されていないと読んでいてどんどん気持が小さくなっちゃうところがある、というか、教科書(悪い意味での)を読んでいるような印象にしかならない。端正で、洗練された、なんて小説の誉め言葉もあるからそれを目指したって良いのだが、端正で洗練された小説が魅力的なのは、それが企業のプレスリリース・シートや家電の説明書のような苛立ちを誘発する類の潔癖性に依るものではなく、もはやこれは洗練云々に関わらず面白い小説に共通して言えることなのだが、読んでる自分の気持というか頭の中というか、認識とか考え方とかそういうのをワァーーってどっかに運び流してしまう力を持っているから、なのだ。そこにはなんというか、謎というか、文章のアラを生かす方向に使う周到さであったり、そうでなければ無頓着さのようなもの(素養と言っても野性と言ってもいい)であったりがあって、島本さんのこの作品の場合には奇しくも、主人公の彼女のような「一瞬、普段のレールから外れてみたけど、すぐに恥ずかしくなって(怖くなって)隠しちゃいました」的な、いわば保守性、隠蔽体質が感じられて、それがたぶん、最終的なドヨーーンという後味の悪さを僕に運んで来たのかなという気がしている。
 またその保守性、隠蔽性というのは結果的に実読者を彼女の世界から追い出すような働きをしているようでもあって、僕はこの小説を読みながら「自分には向けられてないんだな」と感じていたのだが、同時にこれ、俺に限らず誰にも向けられていないっていう気もするんだけど、って思って、なぜなら「絶対これ、俺は対象読者じゃないな」っていう小説はこれ以外のところにちゃんとあって、たとえば、まあ何でもいいのだが、西村京太郎とか?(敬称略)であっても、そういうのは僕に向けられていないのだが、僕以外のはっきりした対象読者が結構はっきり見えるから少なくともそれを不快には感じないのだ。つまり僕が不快に感じたり馬鹿にされているように思ったりしたのは、僕も含めて誰も彼女の眼中、というか対象読者にいないような印象を持ったからだろうっていうことをいま思った。じゃあ、誰に向けられているのかっていったら、それは彼女の「先生」にあたる人というか、編集者だったり彼女を誉めてくれるような人であるような気もするが、この辺の話は本人に聞かなきゃ閉じられないから進まない。

 というところで再び少しだけ話を戻して「批評とは」。なんだかいま一回、あーそうか、俺はこの作品に通底する隠蔽体質っていうか保守的な部分みたいなものや、あるいは始めから相手にされてないって感じに反応していやな気持になったんだー、といった感じで納得してしまったのだが、でも「わかった」からといって「終わった」わけではまるでなくて、僕は自分の前に居座っている黒い怖い犬(犬?)のようなものというか、存在?のようなものにいま、ただ名前を付けたってだけに過ぎなくて、実際には何にも解決していない。それはまだいまでもバリバリそこにあって、さらに言えば、仮にこのあと解決策が見つかったり退治(というか)したとしてもそういう問題自体がなくなるわけじゃ全然ないのだが、ひとまず落ちついた気もしながら言ってみると、さっきもちょっと言ったけど僕は島本さん自身に対してというより、この小説のさらに具体的ないくつかの件に関して、作者を納得させられるようにものを言うってつもりでこれを書いていて、同時に島本さん以外の人に対してもこの件に特化してならある程度汎用できると思いますよこの考え方はってつもりで書いているのだが、批評ってつまり印象とか感想とか意見とかではなくって、そういう、関係を前提とした活動なんだろうって気が最近していて、それをちらっと言っておこうと思って書いた。