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cure jazz 菊地さんUAのアルバム発売されて数日、聴かれた方はどんなだったでしょうかね。僕がそれを(その全貌を)耳にできるのは一体いつのことだろう。
 そんな、とっとと買って聴いたらいいじゃないか(全貌を)、と言われてしまうかもしれないが、じつはかなり以前からそれってどうなのかと思っていて、もちろん僕は個人的にもしっかり菊地さんファンなので、新作が出たなら早く聴きたいのはそうなのだが、同時にかの私塾・ペン大の生徒として日頃その音楽に対する執拗な姿勢とエネルギーを間近に拝見しては浴びている次第なので、なんというか、そのうえアルバムや著書を全作品購入して、おかげで他の作家さんが生み出す作品にまで手とお金が回らない、という事態を受け入れる気には、どうしてもなれない。
 たとえば、ある日のペン大あるクラスにおいて、その生徒全員が菊地さんのアルバムを持っていたらちょっと気持悪いのではないか、ということを僕は思う。いや、十分に可能性のあることだし、第一全然悪くもないのだが、悪くもないのだが気持悪いって気がする。それってようするに、ある種の大学の先生が、自分の本を「教科書として」生徒全員に購入するよう強制する状況に近い。東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編菊地さんはと言えば、そういう状況に敏感というか意識的な方なので、しょっちゅう授業中にも「自分の本を参考書として生徒にすすめるってのはイヤなんだけど(笑)」と言いながら参考として自著「憂鬱」や「アイラー」の中から内容を引用したりするのだが、単純にやっぱり、生徒に対しては、先生の著作というのはフリーに閲覧できるものであるべきなんじゃないかってことを僕はずっと思ってる。
憂鬱と官能を教えた学校 しつこく言うと、生徒が自主的に先生の作品を購入するってことは、構わない、というか自然なことでもあるかもしれない。というのも、大抵の場合僕らは生徒になってから彼のファンになるよりも、彼のファンだったのが生徒にもなる、という状況に多くあるからだ。(これはペン大や美学校の話で、大学生は別。)僕は生徒であることとファンであることが矛盾するとは思わないし、さらに言えばすべての生徒がファンでもある、という状況があってもまったく構わないと思う。思うのだが、でも全員がそう、となると、やっぱりちょっと変ではあると思う。やっぱり中には、「先生としての彼は素晴らしいが、作家としての彼は私にとって一番とは言えない。」という人もあるだろうし、それはそれで、というかそう具体的に書き進めてみるとむしろそのほうが自然のようにさえ思えてくる。で、それは僕のことでもある。僕は先生としての菊地さんをすごいな、と思っていて、その授業を受けるためには他の何をもさしおいて投資する覚悟だし実際しているのだが、それは彼の作品のファンであることとは必ずしも直結しない。つまり、先にも言ったように、生徒であることとファンであることは矛盾しないのだが、その一方で同時に、生徒であることとファンでないこともまた、矛盾はしないのだ。また、その流れで言えば僕はある日のペン大あるクラスにおいて、その生徒全員が先生の作品をひとつも購入していない、という状況があってもまったく構わない(責められるいわれはない)だろうと思っている。
CHANSONS EXTRAITES DE DEGUSTATION A JAZZ で、それじゃあ何が言いたいのかっていうと、途中でも言ったけど、先生が作品ないし著作を出している状況にあって、生徒は誰もがそれをフリーに手に出来る(配布・貸し借り・閲覧・試聴などをして)ような環境が、もっと当たり前に広まってもいいんじゃないかってことを思うのだ。先生にしたってお客さん(お金を払って作品を購入してくれる人)の大半が自分の生徒っていうのは、まあイヤでもないだろうけど、でもそんなに望ましい事態とも言えないんじゃないかって気がするし、生徒とすれば尚のこと、その分に使わずに済んだお金と時間をもって、それ以外の独自の資料や実践へ手をのばすことができるだろう。
ウェイストランド―コトバとオンガクとポエジー (Vol.6(Spring)) ということはじつは後藤さんの編集教室においてもちょっとゆくゆく提言しようかとか考えていて、後藤さんのこれまでの著作を生徒間の希望者に回覧することはできないかな、とか、あるいは生徒有志でオールワンセット購入して、みんなで回し読むとかできたらいいだに、と思っている。
 要は、やっぱりお客さんと生徒がイコールで結ばれるような関係というのはちょっと変だということで、それは常にどちらかに開かれて(含まれて)いなければならない。発信者の目指すターゲットが自分の生徒だけ、ということになるのは不健康である。菊地さんも後藤さんもそんなことを目指してはいないのだが、でも、だったら(できたら)、生徒への自作無償提供というのを何らかの形で実現してもらえないだろうか、ということをここで小さな声で訴えるものである。
 なんてことを言うと、僕がただのケチなやつだと思われるかもしれないしケチであることはその通りなのだが、これで実際損をする人がどれだけいるのかと言うとほとんどいないんじゃないかって気がするし、これで菊地さんや後藤さんの収益が減るようだったら、それはこんな提案が繰り出される以前に彼らが危機的状況にあるってことを示しているのであり、しかしお二人に関してその心配は当面なさそうなので、建設的現実的かつ個人的なお願いとしてそういうことを深慮頂ける土壌が早く育たないだろうかと最近とくに思っている。