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まあとにかく、ちょっとそこに座って、これを読んでくれ、石川ファン。
http://d.hatena.ne.jp/surround/20060201

ということで、2月2日のエントリーにトラックバックして頂いたこの記事では、かつて「KAWADE夢ムック『小林秀雄―はじめての/来るべき読者のために』(2003年8月)」に掲載されたという、石川忠司氏による「小林秀雄の「エンタテイメント」的な本質」をメイン・モチーフに、橋本治保坂和志を撫でながら、非常に魅力的な石川論が展開されている。
というか、石川さんを論じたテクストというものじたいが少ない中で、こうやって恥かしげも惜しげもなく真っ向から深海に突っ込んでいく姿勢が新鮮だったり魅力的だったりに見えないはずがない。

と同時に言ってしまえば、この記事は文章ばっかりでマンガの好きな日本人にはちょっと読みづらいかもしれない。僕だってマンガ好きだし。でも、読みづらくって構わないのだ。思うのだけど、読みながら「本当かな?これ言ってるこの人、本当にこんなこと思ってるのかな?信じていいのかな?信じちゃうよ?いいの?信じちゃいますよ、僕?」というスリリングな不安と一体になった吸収体験だけが、唯一豊かな創造的学び体験に繋がるんじゃないだろうか。だって、「なんだそれ、本当か?」と思うことも出来ないほど簡明既知なことを教えられて、それのどこが面白いだろう。

僕は別に、このテクストがつまらないから読みづらいと言っているわけではない。全然そうじゃない。むしろそのような意味で言えば、これは非常に作者のソフトで乾いたキャラクターが顕れた親切な文章でもある。そんなに長くないし。
ただ、わかりやすくはない、ということだ。そして、わかりやすくある必要もない。届く人には届く。そしてある種の人には、「疑問」を植え付ける。

そんな文章の註釈に僕のidが登場して、

note103 さんのところで、この石川さんの情報ページを昨年末に紹介してもらって、それからまたちゃんと取り組もうという気になって、ページを作り直していったり、テキストを集め直したりしているのだ。

なんて言って頂いた日には、まったく書いた甲斐があったというもので、というか「甲斐」という言葉を発明した人は人類で初めて今の僕のような気持になった人なんじゃないかって気がするほどだ。

最後にこのテクストの作成者:junさん向けにメモしておくと、僕は石川さんが1992年に講談社から出た『WOMBAT』というカルチャー誌に寄稿していた評論3本をたまたま最近読んでいて、それはどうやら扱われている内容によれば(ゴーゴリカフカ、村山槐多)『現代思想パンク仕様』に収録されているようなのだけど、その雑誌には一緒に橋本治さんの文芸論(扱われている内容:源氏物語、講談、歌舞伎)が載っていることも書き留めておきたい。92年。ニルヴァーナが王様になってスチャダラやフリッパーズが青天井の渋谷にキラキラした夢を描き、趣味の良い不良が不安定な余裕をかましてのさばっていた時代だ。何を見てもドキドキした。映画も音楽も約束された最高の場所にひた走っているのだと思ってた。その後やってくるみっともない「生き延び」人生の”満たされなさ”((c)内田樹)のほんの欠片だって、想像もしなかった。・・・あのうっとりは何だったんだろう?なんだか、「ぜーんぶ夢!」((c)小島信夫保坂和志著『小説修行』P24L3)だったように扱われているような気がするのは、僕だけだろうか。或いは本当にぜーんぶ、夢だったのだろうか?