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0726日記

 僕は薬草をいっぱいに浮かべた浴槽につかっている。薬草からは茶色や黄緑の成分が溶けだして、すでにぬるくなった湯はもう底が見えないほどだ。薬草風呂は心地良くて、僕はいつまでもそれにつかっていたいと思う。実際、そうすることを許されてもいる。それでいつまでも僕は、薬草を浮かべたその風呂につかっている。

 時間の流れかたが随分おそい。まだ2時半か。これからペン大だが、電車は動くだろうか。帰りには止まっているだろうか。それでもいい。そのほうが良い。むしろここにはいたくない。どうせかけられる音楽は限られている。僕が彼に聞かせなかった音楽は、ここには殆ど残っていない。彼はウィーザーを、中村一義を、ピーズを、マシュー・スウィートを僕と聴いた。聴いてすぐに、マシュー・スウィートのベストを買っていた(笑)。いま僕はもうそれを聴くことができない。これ以上痛いのはもういやだからだ。だから薬草に浸かっているのだ。はやく傷口に薄皮が貼り付いて、はやくそれはボンヤリとした痣のように変わり、はやく僕はすべて忘れてしまったらいい。ウィーザーもピーズももういらない。はじめからなかったらいい。彼だけは残ったらいい。彼と僕も残ったらいい。彼とビールを飲んで(発泡酒ではなく)、彼と煙草を吸い(僕はハイライトで、彼はピース・ライトだ)、素晴らしい音楽に身を委ねるのだ。そうだな、まずは『OKコンピューター』の1曲目をかけよう。あれ好きだったよな。でも、それにしたって、僕が教えてやったんだ。

 僕には友達がいなくって、それは君も同じだった。僕らは冴えない大学1年で、僕はビールが、君は煙草が好きだった(吸い始めたばかりだった)。金がなかったので、「割安だ」とアルコール度7%の発泡酒を飲んだが、それは相当まずかった。僕らはいつも音楽と文学の話をした。どこへも行きつかない、その場限りの内容だ。決して楽しいばかりじゃない。疲れることも多かった。それはどこへもいかない時間だ。だからまだここにある。

 朝から(いや、昨日の夜から)雨がひどい。家がきれいに洗われて、やがて雨水の風呂に浮かびそうなほどだ。僕の気持はまだ風呂の中だ。ぷかぷか浮かんで、ときどき顔を沈めて、また浮かび上がる。君の顔を思い浮かべて、その都度傷口がぱかっと開く。痛みがひくのをただ、夢を見て気を紛らしながら待っている。死ぬまで憶えていることは、死ぬまで痛いことだろうか。

 このようなときに、僕らは文学を読む。同じような目にあった人々の声を聞く。教訓はいらない。何も教えて欲しくない。ただただ、これがどんなにつらいことなのかを認めて欲しいだけだ。本の中の彼らがどのような思いでそのつらい日々を過ごしているのか、乗り切らなくてもいい、ただその瞬間をどうやって過ごしているのか、それを知りたくてページを繰る。そうしてわかるのは、結局のところ僕らに出来ることが、ただ痛がっていることだけなのだということだ。思うのだが、このようなときに役に立つことは、この痛みを理解してくれる誰かが、今の僕を何よりも大切に扱ってくれることだけなのではないだろうか。
 強くなくていい。頑張らなくていい。今の君はかわいそうで、好きなだけ眠ればいいと、そう言ってもらえたら助かる。何も教えて欲しくないし、わかって欲しくもない。(わかったようなことを言って、何かを教えたがる人がいるのはどうしてだろう。そのようなことを僕が求めているとでも思うのだろうか。僕の求めにかかわらないというなら、それは暴力と同じだと思うのだが、そうは思わないのだろうか・・・)

 雨が幾分弱まった。予報では今日より明日の方が大変だと聞いたけど、そうでもないのかな。




 おしまいの断片 / レイモンド・カーヴァー  (訳・村上春樹



 たとえそれでも、君はやっぱり思うのかな、

 この人生における望みは果たしたと?

 果たしたとも。

 それで、君はいったい何を望んだのだろう?

 それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって

 愛されるものと感じること。




 LATE FRAGMENT by Raymond Carver


 And did you get what

 you wanted from this life, even so ?

 I did.

 And what did you want ?

 To call myself beloved, to feel myself

 beloved on the earth.