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 先週は月曜に東大菊地ゼミのテストがあって、火曜にペン大。そして金曜には音楽理論の先輩宅へ伺ってお勉強をする。というスタディスト週間でした。脳が充実による疲れを訴えるのがとてもいい感じで、これがいわゆる心地良い疲労というものなのか、筋肉痛の気持良さを脳でも実感してみた、といった具合です。
 とくに先輩宅での勉強は果てしなく有意義なもので、それは内容がというよりも、状況として今の自分に対してこれ以上ない燃料として働きそうだぞこれ、といった塩梅でのことです。
 じつは当日のための準備として「いま理解していることと、それを自分なりに推し進めたもの」の予復習に精進したつもりだったのですが、結果的として見ればそのほとんどすべてが「大前提」または「当たり前すぎて空気のような存在」的にかすんで見えてしまい、これは「空振り」というよりも何だろう、圧倒的に「足りない」。僕の持ち札が、圧倒的に不足している現状をまざまざと認識させられました。
 自分で言ってしまうのだけど、その準備にあてた力はそれなりのものだという自負があったので(それこそ、準備だけで脳が心地良く疲れたほど)、当日のお勉強中に終始感じた「足りてない、イケてない」という焦りにも似た現状認識は、僕の内に無意識に層を成した澱のようなもの、つまりは「驕り」や「慢心」を破壊するのに十分なもので、それも含めて本当にお勉強してきたという感じです。
 そのようにして旧体制が崩壊した今となって残ったのは「不屈感」とも言える昂揚で、”次回までにあれやってこれやって”といういろんなプラン&実行を帰宅直後から始めてみてますが、実際理想的な形での進み行きを求めるためには、どうやら恒常的な自律が不可欠と思われるのでした。