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1) このところは何だか食べ過ぎる日々で、わかっているのに全然空腹ではないのに、ついモノを口に入れて咀嚼してしまうのでした。とはいえ、常にフラットに同じような食生活ばかり続けるのもある意味不自然なので、あとこういうのって波のようなものなので、飽きるまで付き合ってまた自然に以前の状態になればいいとも思う今日この頃です。とりあえず理想としては満腹じゃない心地よさを追求したいところなので、今日はまずモノを口に入れる前に庭の雑草(先日ほぼ壊滅させたはずが文字通り驚異の生命力でまた出てきてる)を引っこ抜いてみます。ってこれってもしかしてダイエッツ・・・。
2) それにつけても「大食」に関しては「飽きるまで付き合って」って風にホントに飽きてくれればよいのだけれど、実際こうした習慣は循環の体を持っているので、そして今あるこれは所謂”悪循環”なので、身を任せているとズンズンはまっていくという危惧もあり、なのでその”サークル”をうまいこと逆へ反転させるジャンクション乃至小石のようなものをどこかに設置してしまわないといけない、というかそれだけやればあとは勝手に流れるので今日からそうしよう。と思ってまた雑草を抜いたりゴハンの代わりに水を飲んだりしてみています。
3) ちなみに「雑草抜き」の良いところは、ダイエッツになる、ということだけではなく(というか別にならない)、頭の中で”ひとり言”を言うようになるということで、それは普段体験できるどんなひとり言よりも多くの思念が大きな声で語られる(というか聞こえてくる)ものなので不思議なくらいに面白くって、あちこちに繁在する緑の生命(雑草)たちを眺めては「すごいなーこいつら」とかいうまんまな感想は勿論のこと、自分が普段やっていることに関する評やこれからどうしたいのかこれから僕はどこへ行くのか等ちょっと踏み込んだことまでひとり言は発言力を高めて行くので、じつは雑草を抜くのはそれを聞くのが楽しみだからやっている。という部分もあったりして、自分は普段何を考えているのか、ということがTVを観るようにただ流れてくるのはなかなかもって楽しいです。
4) というそれはつまり、雑草抜きがひとつの自己像を反映するメディアになっているということなのですが、かといってそれは決して特別奇怪なことでは(たぶん)なくて、絵を描いたりものを作ったりしている人ならば誰しも集中している時ほどそんな状態にあるのかもしれないです。と言いつつも、雑草抜きの場合には「このような結果を指向する」という目標が創作行為に比べてあまりにも単純なので、それで余計に自己像を反映するモニターがよりクリアーであるという面はあるかもしれなくて、というのも、やっぱり作曲をしたり文章を書いたりする際には目の前に「完成へ向かっているそれ」の姿に注意を払わなければならない影響で、”モニター”に多くのノイズが入ってきてしまうはずなので、そう考えてみるとこの”ひとり言を聞く”という体験は雑草抜きぐらい機械的な作業の方が望ましい環境ではあるのかもしれないです結局。なんてことを、雑草を抜きながら庭で考えてたりします。
5) 画像は、そんな最近よく聴いてるジョアン・ジルベルトの『三月の水』です。