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 初カテゴリの美術です。この日記では、これまでにすでに画家の加藤泉さんを何度か採り上げていてそれでは飽き足らず(というか)そういうカテゴリさえ作っていたりするわけですが、面と向かって「美術」を扱ったことってあまりないので、今日は若干緊張気味です。というのは何の意味もない嘘というか戯言で、ではなぜそんな戯言をWeb公開してまで美術を言及したいのかと言えば、この本を数年ぶりに再読したからなのでした。→→『これならわかるアートの歴史―洞窟壁画から現代美術まで』。
 さて何を隠そう僕は云年前に美大を卒業した画家の(かつての)卵で、しかも専攻は油絵学科というまさに(かつての)卵さんだったわけですが、何を言いたいかというと、そういう人(僕のような、というか俺)は少なくとも「いやー美術はモンガイカンなので!」とは言わないということなのです。これは言い換えると「わたし絵は苦手なんですよー」とも絶対言わないということで、さらに突っ込んで言うと、そういうことを言う人を若干ですが馬鹿にしてしまったりする(かなしみを湛えた目をもって眺めてしまう)人です。その理由をこの先の文章で言う事が出来るかどうかはわかりませんが、今はとにかく件の本の紹介です。
 ひと言で言ってこの本は、「『アートの歴史』の翻訳」です。と言うと実はちょっとわかりづらいのでこれも言い換えると、えーとそうだな、この本は「『アートの歴史』を無理矢理一冊にまとめた本」です。”無理矢理まとめる”という行為がつまり”翻訳”にアサインできますね。
 さてこの”翻訳”は今考えたら”要約”という意味でもここでは使えるのでそんなアバウトな風合いで捉えても頂きたいのですが、要するに紀元前から始まったアートの歴史を人が読書に耐えうる時間内で説明するというのは至難の業なんですが、それをやってしまった本です。たとえば一冊の超面白い、或いはそう言われているからって成り行きで読もうと思っている本に対して付き合える時間は一体最長どのくらいでしょうか、えっとわかりませんが、いずれにせよそれは紀元前からコンニチまでの時間よりはずっと短いはずで、何を言いたいかというと、要約は歴史本にとって「必須。」というか「不可欠」であり「不可分」だということですね。さて、まあそれは超当然の話としても、ここからが超重要なのですが、その際に超大切になる要素とは一体なんでしょう。つまり、その超長いアートの歴史を読書に耐えうる時間内に収め、かつ読書して頂く為に必要なもの。
 それは文体だと俺は思います。そしてこの本にはそれがあります。(良い文体とは敢えて言いませんし、お薦めさえしませんが。)ということは実は、昨日薦めた高橋センセの書評中、池澤夏樹センセイのリライトした憲法前文に関する項で書かれたそのままなのですが、でもはっきり共感したのでそう書きます。つまり、このジョン・ファーマンさんの書いた『アートの歴史』は、ジョンさんの文体のおかげで要約・翻訳(日本語への、ではなく”読みもの”への)を実現せしめた良書だとオラは思います。
 とはいえ、これだけ噛み砕いた内容を持ってしても、読書というのは読者に対してある種の”体力”を求めるものなので、繰り返しますがべつにお薦めしたりはしないです。最近は『Art遊覧』さんをよくチェックしたりして何だかアートづいている私なのでふと棚の奥から引っ張り出してみた本がこんな面白くって、以前はどうして気付かなかったのかといえば、それはやっぱり体力が違うんだ。としみじみ思っているので本当に。「本当に」って今思い出したのは、しばらく前に尊敬する音楽関係の先輩が仰っていた「読書にも訓練が必要ですからね」というひと言で、楽器の練習やスポーツの練習があるように、読書にもそれなりの訓練が必要だという話を聞いておおおおおお!と思ったことがありましたがまさにそうなんだよなーとか最近は思ったりしています。
 そうだ、やっぱり忘れていましたが同見出し冒頭にあった「どうして美大出身者、というか俺は絵が苦手だなんて言わない。どころかそう言う人を若干ですが馬鹿にさえする(かなしみを湛えた目をもって眺める)のか」と言えば、それはあまりにもそう言う人が、絵を描くという上手下手には一切関知しないその面白さに対して自ら距離を置いてしまっていることに対して口惜しく感じるがゆえの愛憎なのですよねこれは本当に。絵を描く人は絵が上手いから描いてるわけではなくて、それが面白くて描いているうちになんとなく下手ではなくなったり、或いはこっちの方が多いかもしれませんが「上手いとか下手とかそんなことはどうでも良くなった」りしたがゆえの劣等感のなさを持っていて、同様にそれを持っている僕のような、というか俺は時折そういうことを感じたりするものなのでした。