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どういうわけだか+ナオコーラ

1) どういうわけだか、近頃ネット閲覧/ページ作成が面白くて仕方ない。
 面白いページ/サイトにもやけに出くわすし、自分で作っているあれこれについても、「ああすれば良い」「こうすれば凄いことになる」といったアイディアが浮かんでは漂う。
 実際に形となっているわけでは余りないけれど、その持て余し感も含めてちょっと驚いている今日この頃です。

2) たとえばネットで文章を書くということは、僕にとっては手紙を書くような作業で、その際には読者さまという存在が思いっきり想定されている。勿論自分に向けても書いているのだけれど、多くは具体的な友人やまだ見ぬ気の合う人々、あるいは少なくとも自分ではない誰か、に向かってコリコリと書き付けている。
 そのわりに粗い文章でアップする事を半ば前提として許容してしまっているのは、そういった語りかけの対象を甘く見ているというよりは、僕のこだわる一字一句が僕以外の人にはさほど重要でないと断定しているからで、そういった事を気にしてその日の内には一行も公開出来ませんでした。といった事態を招くよりはと”粗文上等”の幟を立てて日々を綴っています。

3) そんな風にして実はこのエントリーでは、いつも僕がとくに興味深く精読してしまう風通しのよいサイトをご紹介していこうかと思って実際に途中まで書いてみたりもしたのだけど、でもそれは何だか大切なものをバラまいてしまうような、勿体ないような気持になってきてしまったので、またの機会にします。
 ねえ、でもそれってちょっと、けちなんじゃないか。と、思わないこともないのだけれど、でもそれにしたって2)の文章の推敲の話とおんなじで、僕が思うほど他の人にとっては惜しいことでもないだろうと決め付けて、また、この思わせぶりは単なるケチというよりは、もっときちんと紹介しないと一番大事なものが伝わらないような気がするという、少し切実かつ我ながら誠実な気持のあらわれでもあるように思うので、やっぱりまたにします。

4) このところのこのサイトでは、読書ネタが多くなってるな、とは自分でも思うのだけど、でも実際にはそんな風に本ばかり読んでいるわけではなくて、むしろ本は寝る前のほぼ唯一の息抜きというか、別天地としての読書というか何というか、オアシス、給水ポイントのようなものとして取って置いているので、それで余計にそこが心に残ってネタになったりしているのかもしれない。
 という流れで、昨日読んでいたのは山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』でした。
人のセックスを笑うな
5) この作品をはじめて読んだのは『文藝』の俵万智特集を立ち読みした時で、それではまるで立ち読みで読み切ったような言い方だけどそうではなくて、この作品の数行を何ページかに渡ってパラパラと拾って読んでから、珍しく迷わず買って、それから帰って来て一気に読んだ。
 などと書くと今度はその立ち読みした時にまるで偶然の出逢いをしたかのようだけどそうではなくて、僕がよくチェックする高橋源一郎さんの日記で、文藝賞発表より前の頃から「今回はこんなペンネームのこんなタイトルの作品にあっさり決まった。」といったことが書かれていたので、早くその『文藝』が発売されないかと待っていたくらいだった。
 そうしてようやくの邂逅を果して案の定のヤられたを味わってしばらくすると、単行本の刊行と同時にやっぱりというかさすがにというか大分話題になったので、ふうむ。俺は前から知っていたぜ、すごいと思っていたぜ、と行き場のない優越感を転がしていたのだけれど、昨日読み返したら当時よりさらに面白かったので驚いた。
 ちなみにこの作品担当の編集さんは河出書房新社のSさんと言って、『憂鬱と官能を教えた学校』の担当さんでもあって、多分僕の先生が書いた『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』にも幾度となく登場する人と同一人物だと思う。
 ナオコーラさんの話に戻ると、この作品はまるで、神話のようだと思った。それが昨日の一番の結論だったのでこれ以上書くのは蛇足なのだけど、僕の文章に蛇足とそうでないものとの違いなんて元よりさほどないのでもう少し続けます。

6) 『文藝』に初出した当時に読んだ印象としてあったのは、風景がものすごく好きな感じだな、といったことで、冬の描写なんかたまんないぜ!とかも思ったものだったけど、今読むとその”たまんなさ”というのは、寒そうに見えて全然こちらは寒くならない、というヴァーチャル感を掠って生じているものかもしれないな、などとも思う。というか、実はそうした感触はもはや一番の感想ではなくその遥か後方のBGMになり変わって、既存の、今流布する多くの、そして僕の知る多くの小説といったものに比べて余りにも詩に近い。
 ここで言う「詩」というのは、一行一行が作品として屹立しうる性質を持った文章といった程度の意味で、そういう面では広告のキャッチコピーなんかに近いのだけど、その詩性がこの作品をすごく日常から遊離した印象を強くしている。日常の描写がこんなに多いのにも拘らず。
 ここで行われている限られた人々の営みは寓話のようで、教訓こそ与えないけれど、僕らの行いを実験的に、やさしく暖かく涼やかにまた皮肉も忘れず、ただなぞっては提示しているようだ。
 語り手でもある主人公は読んでいる僕にこの或る物語をただ「こんな話がかつてあったよ」と伝える存在で、そこに演舞性は激しく薄い。

7) 作者は女性でまだ若いけれど、主役の語り手は男性で作者よりさらに10近く若い。むしろ文藝賞を同時受賞した白岩玄の方によほど近い。
 つまり、読み手の頭で流れる語りの音声はその男性でありつつ、書いているのはその女性で、そんなことは小説にあっては決して珍しい事ではないわけだけど、珍しいとかそうじゃないとかいう問題とは関係なくそのことがやっぱり凄く大事だと思う。ナオコーラが語るそのお話は、語る時点からしてお話は始まっていて、それは語り手が過去を回想しながら誰かに(これが誰に、であるかということが凄く面白いところだと思うのだけど)語る姿と激しくリンクする。

8) 主人公の語り手は、あたかも日記を書いて自分に物語を聞かせるように事態を回想するのだけれど、それが日記のようだと僕が思うのは、内容が余りにもあけすけで且つ詩的だからだ。よく知った、分身のような友人に聞かせているとも考えられるけど、そしてその具体性(そういった語りかけが、日記にせよ話かけにせよ現実に起こりうるのかといった可能性)が重要ではないのだとしても、それでもこれが誰に向かって、主人公によって語られた/書かれた物語なのかと考えることは僕にとってすごく面白い。

10) というのはつまり、もし僕がこの主人公だったら、という地点まで感情移入ができるということを意味している。感情移入なんて、小説を読む上では古典的なスタイルのひとつじゃないか、とも思うけれど、それをここまで愉しいと感じさせる作品はそうそうない。
 また、もし友人に語りかけるものとしてこの話があったのだとすれば、是非このように語りかけられてみたい、とも思う。
 いずれにせよ、そうした想像を働かせることに、快楽がついてくる。

11) というここまでの文章でもわかる通り、恥ずかしながら僕はこの世界にしばらく入ったままだ。昨年読んだ小説の中でもかなり好きだった、舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』という、タイトルは岡崎京子かその引用元のR・D・レインかはわからないその作品の冒頭にあった、”祈り”のアトモスフィアがここにはあって、どうやらそれにすっかり引き込まれている。

 もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやって欲しい。

 タイトルの元となるフレーズはここにあると思うけど、その挿入される場所なども含めて、まったくこれ以上ないという気がして、つまりはとても良い作品だと思う。

12) というのはしかしながら勿論、すべて僕の読んだ感想なのでわざわざお薦めなんていうことは言わないし、言えない。何の保証も出来ないのです。

野ブタ。をプロデュース13) ところで、同じ『文藝』に受賞作として掲載され、また先頃の芥川賞では最後まで受賞を争ったという白岩玄著『野ブタ。をプロデュース』に関しては、初めて読んだ時からちょっと痛くて、その痛さを逃げずに書いたという点において高い評価が集まったという事でもあると思うのだけど、そして芥川賞で最後まで残ったと聞いた時には「?」が飛んだものだったけれど、昨日戯れに最初の3ページほどを読んだら凄く面白かった。センスもバランスも多分性格も、とても良い感じだなと思った。量もすごいし。
 そして、図らずも件の賞を最後に争った2作のどちらにも登場した二人の女の子は、この事をどう思っているだろう、ともちょっと思いました。