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考えないという病

ISってなんであんなことするんだろうね、と家族で話題になり、なぜだろう? と考えた。

こちらの記事によると、
元人質が語る「ISが空爆より怖がるもの」(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース

同グループの構成員はどこにでもいる普通の人たちのようにも感じられる。

少し前にNHKだったか、ISに関する特集で、モロッコ出身でイスラム教の父と、ベルギー人の母から生まれた青年がISに入ってしまい、その直前まで母は懸命に息子のIS入りを引き止めたが、説得することも止めることもできなかったという。

……と、思い出しながら書くのも大変だなと思ったら、ちゃんと紙上再現されていた。NHKニュースウォッチ9、すごい! やるね。
www9.nhk.or.jp

一部引用。

息子がISに加わった ジェラルディンさん
「息子はこう話してました、『なぜどの国もシリアのために動かないのか理解できない。もし誰も動かないなら、僕たち若いイスラム教徒が行動し助けなければ』と。」

アニスさんは、必死の説得にもかかわらずシリアに渡り、ISの戦闘員になりました。
ベルギーにいた時は、移民の息子だという理由から就職できなかったといいます。
(※太字強調は原文ママ

ここに出てくる息子の写真。ISに入れてむっちゃ楽しそう。自分の場所を見つけた、自由になれた、と言わんばかりの……。

同記事の続きで、小説家のル・クレジオや地元の演劇の監督(演出家?)へのインタビューが入っていて、TVで見たときは「へえ、ル・クレジオが喋ってるよ」とかそっちに感心していたのだけど、後から印象に残っていたのは後者の人が言っていたことで、曰く

若者は社会も宗教も理解できていません。
私たちはともに“無知”と闘わなくてはなりません。

という。

で、そのときは「なるほど、そうかもしれないな」と思ったのだけど、「無知」と言うと、知らないことが未熟な劣った状態で、知識を持てばそれでクリア(問題解消)みたいな印象もあり、でも実際はそういうことでもないのではないか……とも思ったり。

ここでISを少し離れると、上の記事ではフランスの極右政党のことも取り上げているのだけど、最近は米大統領選を控えて、日本でもドナルド・トランプの話題がよく出てくるようになってきた。

同氏の発言には差別的・排他的なものが多く、メディアではよく「過激な発言で知られる〜」みたいな冠を付けることが多いようだけど、それだけと言えばそれだけが売りのようにも思える存在であるところ、そのフランスの政党共々なかなか人気が途絶えない(ように見える)。

思うに、ここでもまた「無知との闘い」みたいなことが生じている。

同時に、上で演劇の人が言っている「無知」というのは、僕の実感に照らして少しアレンジすると「無共感」ということではないか、と思えてくる。

自分はこう思う。だからこうする。それによって相手がどうなるか? 知らない。どうでもいい。どれだけ痛がろうが命を失おうが、知らない。俺は正しい。俺たちは正しい。

そのような心境に陥ると、相手に何でもできるようになる。相手をモノとして扱い、相手の痛みを我がことのようには感じない。
そうでなければ(相手の痛みを無視しなければ)できないようなことをしている人たちがいる、ということ。

そうした行為は、自分の中で一度出た結論を何度も考え直したり、それまで想像したこともなかったことを想像してみるという行為の反対側にある。

考えない。想像しない。共感しない。そこにあるのは単純で条件反射的な反応だけだ。

一方、その「反応だけ」というのは個々人に固着した属性というものでもない気がする。僕にもやはり、そのような性質は多くあるだろうし、実際何に対しても「考え直し」や「初めての想像」ばかりしていたら頭がおかしくなりそうだ。

僕自身に関して言えば、ちょっと他人に共感(共鳴・共振)しすぎるところがあると感じる。そこまで相手の身にならなくていいよ、と言いたくなる。
後になってかつての自分に、「相手はそこまで気にしてないよ、君のことばかり考えてるわけじゃないよ」と声をかけたくなってくる。

僕はいろいろ細かいことが気になるタチで、心の中では見るもの聞くものにつねに罵倒や呪詛を吐いている。で、きっと他人も自分に対してそうしているだろう、という想像が働くから、時に過剰なほど他人の目を気にしたり、気をつかったりしてしまう。

これは不満を溜めこむ原因になるから、気をつかいすぎるのも考えものだ。共感や想像ができればいいというものではない。

結論的に、いつも思うのは、まずは他人がどうとか考える前に自分が一番やりたいことをやるべきだ。そしてその結果として出てきたものが、他人のためにもなれば尚良し。
つまり、まずは自分。次に他人。逆はない。

そうでなければ――自分を後回しにすれば――不満という負債を際限なく抱え込むことになる。それはいつか、暴発するかもしれない。

先のISに参加した(そして空爆で命を落とした)青年もまた、シリアにある何かに「共感」し、そこで生きる自分を「想像」したのだろう。
また上で引用した本人の主張を読めば、それは論理的ですらある。少なくとも自分の中では筋が通っている。

でも、考えるための材料があまりにも限られていて、偏った結論に至ってしまった。ル・クレジオが言う「教育」には、自分で考えるときに参照できる材料を増やす、ということも含まれているだろう。

ブログにつくコメントやブックマーク、Twitterなどで見かける発言の中には、単純で過激で偏ったものが時々ある。なぜもっと考えないのだ? というような。

同じ問題があると感じる。

必要な前提情報が少なすぎる。だから単純な答えしか出てこない。人々の意見が食い違うのは、前提としている情報の違いに拠る部分が大きいだろう。考え方や考える力の違いではなく、元にある前提情報が違うのだ。

「もっと参照できる知識を増やしたい」と思う人もいる。でも、そう思わない人もいる。
あるいは同じ人が、そのように思ったり、思わなかったりする。

視野を広げたい、もっといろいろな事実や考え方があることを知りたい、と思えない状況は、喩えてみるなら風邪をひいたような状態で、そんなことをしている余裕がない、ということじゃないか、と最近ふと思った。

風邪をひくように、何かのウィルスに感染してしまったように、「考えない」という病に罹(かか)ってしまっただけで、その人が駄目とか悪いということでもなく。
逆に言えば、今この瞬間に様々な観点から積極的にものを考えている人にしても、時と場合によってそれに罹ってしまい、いつ「考えなく」なってしまうかわからない。

病のせいだと思いたい。いつ罹るかはわからないが、いつかは治るかもしれないそれのせいである、と。