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突然殴りかかってくる人にどう対すればいいのか

人間の相性というものがあって、話せばわかるけど普段はあまり合わない人、話すまでもなくすごく深くわかり合える(ように感じられる)人、どうしても無理、いや絶対無理、みたいな人などがいる。

最後の「絶対無理」という人であっても、目が合えば挨拶ぐらいするとか、少なくとも意味もなく殴りかかってくるわけではない、とかであればまだマシで、その向こうには「意味もなく突然殴りかかってくる人」というのがいて、本人の中では筋の通った理由があるのかもしれないが、夜9時のニュースなどを見ていると連日のように報道される、「どうしてそんな酷いことができるんだ・・」みたいな人というのはそういう感じではないか、と時々考える。

実際には、たとえば深くわかり合える人をA、全くわかり合えない人をZとして、その間にはDやPのような多くのパラメーター(目盛り)があり、さらには以前Wだったはずの人がその後Bになったり、という風に時間軸や状況、条件などによって変わったりということもあるはずで、つまり人同士の相性というのは一様ではないとも言えるが、それでも一定の傾向というのはあるようで、「突然理由もなく殴りかかってくる人」のいくらかは、相手や状況が多少変わってもそのままではないか、と不安に思うこともある。

そして、そういう自分の感覚から遠く離れたZのような人に対しては、AやFのような比較的感覚が近い人に対するのとは別種の対応をしなければならないのかもしれない、とも考えつつある。何しろその人は突然殴りかかってくるのであって、こちらにはその理由がわからないのだから、警戒も応戦もする暇はなく、気がつけばただ怪我をしていたり、命を失っていたりすることにもなりかねない。

「いや、どんなZな人でも見方を変えればAでもあるのだ」という考え方をすることは論理的には可能かもしれないが、現実の様々な事象を見てもなおそのように言うことは難しい。大きく矛盾する。だから考え方を変えなければいけない。

先手必勝、目には目を、みたいなことを主張したいのではないし、何よりそんなの疲れるに決まっていてやりたいとも思わないが、少なくとも理解できないことを平気で(かどうかは知る由もないが)やってしまう人がいる、ということは認めざるをえない。

・・ということをパリのテロに関する報道を見ながら思った。それを無視も否定もしようがないレベルで知らしめたのがそのテロであり、それだけの衝撃があったことを各国の反応がまた伝えている。他の国でも同様かそれ以上の被害や犠牲があるというのに、ことさらパリだけを取り上げるのは不公平だ、みたいなTwitterの投稿を見たが、奇妙な見解だと感じた。誰も命の重さを比べてなどいない。知らなかったこと(あるいは知っているつもりだったが全く認識の足りなかったこと)を知った、それに対する反応をしていて、さらにそれを踏まえて今後できることをやっていこう、と動き出しているだけだろう。

またFacebookがSafety Checkという安否確認機能を公開し、多くの人に役立ったが、
Facebook災害時情報センター

なぜ今回のテロでそれを使用し、以前のテロや戦争被害に対して行わなかったのだ、という批判があったという。
Facebook、パリのテロ事件で適用した安否確認機能の批判を受け、他の災害にも適用すると明言 | TechCrunch Japan

これもまた奇妙な話だ。そのような機能が今回公開されたのは、それが今までに起きた同様の事件以上にFacebookの人々にショックを与えたから、つまりそれだけ身近な問題として捉えられたということであって、批判の対象になるようなことではない。なんというか、以前に書いたこれを思い出す。
空き缶を拾っていると怒られる、という話 — Medium

しかしながら、そのような「?」と思える奇妙な批判を行う人であっても、「突然わけもなく殴りかかってくる人」に比べたらずっと話が通じるに違いないとも思う。怖いのは、議論にもならない、いや争いにすらならない相手である。

しかし人は、いつどうやってそれになるのだろう? 生まれてからずっとそうだという人もいるかもしれないが、たとえば今回のテロの加害者全員がそうだとは考えづらい。ある時あることをきっかけに、Nから一気にZになってしまう人、Aから段階的にZへ向かう人、あるいはそのZと表現しうるグループの中にはまだ人間の感性を残した人が、いや様々な段階の人間的感性を残した人が、それぞれのあり方でいるのかもしれないが。

同じようなことが、同じような様々な国内外のグループや、個人に対しても言えるかもしれない。そしてそのような人々とどうやって、この同じ世界(時間・場所)を共有していったら良いのかと考える。とりあえずは、可能なかぎり逃げるしかないのかな、という気もするが。

振り上げた拳を下ろす練習

人と人との争いの原因のいくつかは、「前提としている情報(認識)が異なる」ことにある。誰かが誰かを攻撃的に責めるとき、責めた側の前提にしていることが、責められる側にもつねに共有されているかといえば、そうではない場合もある。というか大抵は共有されておらず、「え・・いや別にそういうつもりじゃありませんけど?」みたいなことが多いように感じられる。

これがいわゆる完全な言いがかりというか、勘違いであって、責めた側としても「あ、やべ、俺の勘違いだった」という状況において、すぐ謝れるかどうか、というのはなかなか難しい課題になる。

たとえば普段から、けっこう偉そうな感じで発言し、周囲との関係においてもとりあえず偉い人。みたいに扱われてしまっていると、いい感じで強めに責めたものの勘違いでした、といった場合に「すみませんでした」とはかなり言いづらくなる気がする。

周りにいる人たちが単に建前的・立場的にその人を偉い人のように扱っているだけならまだいいが、ある種の教祖的なというか、精神的支柱のように扱っている場合にはけっこう状況は複雑で、それら信者的な人たちからの目も気になってしまい、教祖的な人は余計に間違いを認めづらい、という感じになりそうだ。

これがいわゆる「振り上げた拳を下ろせない」状況で、言いがかりをつけられた側も不幸ではあるが、やはりそれ以上に不幸なのは、拳を振り上げたまま下ろせない側だろう。
誤りを認められないということは、誤りを修正した先へ行けなくなるということで、周りからの評価としても「誤ったままその先のいろいろなことをしている人」ということになるわけで、当人からすればけっこう痛い。

僕は現在携わっているプロジェクトで中心的な作業を担当しているから、指示を出したり最終的な判断に近いことをしたりする中で、ついつい偉そうな態度に出がちになり、しかし元来うかつなので、しょっちゅうそういう状況(偉そうに言ってはみたが間違っていた、とか)に陥ることになる。

しかし謝れないまま修正も成長もできない、という状況になるのは最もつらいことだから、それを避けるために普段から心がけているのは、なるべくカジュアルに、遠慮なく謝るということだ。
上記の例を踏まえて言えば、拳を振り上げては下ろし、振り上げては下ろし、ということをしょっちゅうしている。

担ぎあげられた御輿から下りられなくなるほど大変なことはない。ああ、間違えたな、と思ったら誰がどう見ようとすんなり謝り、またそのような癖をつけられるようにしたいと考えている。
普段から、自分の間違いを認めたり謝ったりということができていれば、心ならず泥沼の不毛な戦いを延々と続けるような状況からも逃げられるかもしれない。

とはいえ、カジュアルに謝るということは、思ってもいない謝罪をとりあえずしとく、とかいうことではまったくない。そこで行うべきことは、自分が自分に対して仕掛ける「そこで謝ったら低く見られるから、間違いを認めたりせず偉そうにしとけ」という目に見えない抑圧を振り切ることであって、相手を軽んじることではない。

またそれゆえに、一旦は間違いだと思って謝ったものの、やっぱりよくよく考えると間違いではなかったな、と思って謝罪を撤回する、ということもカジュアルにやる。