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塚田先生の訃報

  • 朝、連絡があって塚田先生が亡くなったと聞いた。
  • 最初の印象は、ああ、scholaでやり切っておいてよかった、ということだった。寂しさや、痛みを感じるが、後悔はない。校了後に坂本さんのコンサートでお会いしたとき、ご家族にぼくを紹介して、この人は本当に優秀なんだ、と言ってくれた。ああ、伝わっていた、やるべきことをやるべきレベルまでやっていたことを、先生はわかってくれていた、と思った。
  • そのschola(アフリカの伝統音楽)では多くの関係者がいたけれど、坂本さんを除いて、いつも一番早くメールを返してくれるのは塚田先生だった。そしてその内容はいつも厳しく、透き通っていた。鋭い指摘に何度もたじろいだが、言葉に攻撃性はなく、共にこれを作り上げようという気持ちに満ちていたから、ぼくはそのレスを恐れながら、でも楽しみにしていた。scholaは良いものになったと思う。
  • CDのマスタリングはなかなか困難で、なぜなら音源には先生がDATで録ったフィールドワーク録音が多かったから、その中のコレというポイントを切り出すためには、とてもしつこく、どこまでも手間をかける必要があり、そのためのクリエイティブな環境を用意することがまず大変だった。通常は1日で済むその作業を、何日かかけて行った。commmonsのスタッフも粘り強く付き合ってくれた。できるまでやめない、という感じ。ありがたかった。塚田先生と物を作るには、それが必要だった。
  • 先生自身も「これを収録できるとは思わなかった」と言っていた音源を収録することができた。scholaはそれを発売するavex以外の、国内外のレコード会社とライセンス契約を結びながら様々な曲を収録させてもらっているのだけど、この問題の曲(というか録音)は、候補曲をリストアップした先生ですらもうどこで買ったか覚えていないようなカセットテープに入っていたもので、どこの誰が権利を持っているのか、そもそもその権利元がまだ存続しているのかもわからなかった。しかしavexにはとても優秀な許諾担当さんがいて、彼女とぼくとcommmonsスタッフの3人は、小さな、でも密に結びついた、ブランキー・ジェット・シティジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンのようなチームを組んで、普通だったら途中で諦めてしまいそうなその権利元を探し続けて、突き止めて、交渉し、やがてOKをもらった*1。その過程を知らない人から見れば、魔法のような結果ではあったが、ぼくらはただ目の前の1本道を歩き続けていただけで、時間切れになるギリギリまでやめることをしなかっただけだった。それが収録できることを先生に報告して、驚いてもらえたことは、今思えばその取り組みに対する何よりも大きな報酬だった。
  • 制作が終盤に差しかかった頃、坂本さんから、塚田先生への感謝を何らかのかたちでブックレットに残しておきたい、と相談を受けた。塚田先生がいなかったら、この巻はけっしてできなかったから、と。
  • 巻頭にエピグラフのようにその旨を記すとか、奥付に何かしらの記載をするなどの方法も考えたが、最終的には巻末の謝辞のトップにお名前を記すかたちに落ち着いた。
  • 通常、scholaの謝辞には楽曲や資料の提供で協力してくれた会社や個人の名前を記載していて、選者や執筆者のような制作側の名前は入れない。あくまで外部の関係者がその対象だ。加えて、ページの上方には会社名を並べて、その下に個人名を記していく書式を採っているから、トップに個人名を入れることも普通はない。でも、この巻に限ってはそれらのルールを逸脱して、謝辞の最初に「塚田健一」と入れた。ものすごく地味な、言われなければ誰にもわからないような一手だが、様々な気持ちを込めてそのようにした。
  • このようなことをしたのは、10年にわたってぼくが関わった17冊のscholaで、このときだけだ。
  • ものすごいスピード感と、透徹した感性と、未来の人のような革新性と、優しさと、ユーモアのある方だった。文章は緻密で、端正で、柔らかく、独特のフックがあり、読みやすかった。お会いしたときのことを思い出すと、笑っているところしか思い出せない。

【vol.11】Traditional Music in Africa(アフリカの伝統音楽) | commmons: schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

*1:最後に入っているジョン・ブレアリィ氏の録音によるドンゴ独奏。

韓国語にはたぶん向いている

  • なかなか怒涛。忙しい。
  • 1週間ぐらい前にけっこう面白いことを考えていたけど、書かないうちに頭から消えてしまった。もったいない。
  • それはもう戻ってこないから、今は今の考えていることを書こう。
  • 先週はひたすらVimConfのLT(登壇)の準備をしていた。11/3にそれは終わり、大きな山を越えたという感じ。
  • いやほんとに大変だったが、自分にとって大きな実りになった。大変だから面白い、と言っていたのは岸野雄一さんだった。それについて、ぼくは本に書き残したのではなかったか。『大谷能生フランス革命』。
  • 同書の制作時に一度だけ、チェルフィッチュの稽古場でお目にかかった山縣太一さんという役者さんが主宰するオフィスマウンテンの舞台をなんとか見られるように、毎日調整をしていたが、ようやくそれが済んでチケットも購入できた。楽しみ。
  • VimConfが終わり、翌週11/10にはハングル検定がある。これの5級と4級を同日に受験する予定。
  • 前回は勉強を初めて1ヶ月経ったかどうか、というぐらいで最下級の5級を受けたが、基準点60点に対して50点で落ちてしまった。といっても、ろくに勉強していない段階でそこまで行ったので本人的にはそれなりに満足だったが。
  • 今回は、おそらく5級は大丈夫だろうが、4級はまず難しそう。とはいえ、一発逆転的に成果を残したい気も。そのために、仕事の合間に猛勉強中。それで、この日記ももうしばらく再開を延期しようかと思っていたけど、やはり日常の記録が消えてしまうのはもったいないから、少しでも、と思って書いている。
  • とにかくVimConfの余波が大きく、なかなか韓国語モードに戻れなかったが、それを半ば無理矢理にでも戻すために、考えてみればこの勉強に至るきっかけのひとつとも考えられる、イ・ランさんの音楽を聴くようになり、あれ、これってめちゃくちゃ韓国語の勉強になるのでは・・と思って、最初はSpotifyで聴いているだけだったが、CDを2枚買った。

ヨンヨンスン

ヨンヨンスン

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神様ごっこ(増補新装版) [SDCD-039]

神様ごっこ(増補新装版) [SDCD-039]

  • アーティスト:イ・ラン
  • スウィート・ドリームス・プレス
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  • 韓国語については、どうも「向いている」という気がよくする。単語を聞いたときに、それに対応する日本語よりも早く、それに対応する「感じ」の方が早く頭の近くに浮かんでくる。「感じ」というのは「イメージ」とも言えるが、しかし「映像」ではない。
  • 感覚、と言ってもいい。あたたかさとか、重さとか、そういうのと同じ「感じ」が頭や体のまわりに浮かんでくる。それが「その意味は、日本語だとこれだ」とぼくに言ってくる。というか自然にやわらかく迫ってくる。ぼくは韓国語の海というか、川というか、そういう少なくない水の中を泳いでいるような感覚を味わっている。
  • 韓国語を学ぶようになったきっかけは3つぐらいはすぐに浮かぶ。その一つは上記のとおり、イ・ランさんのライブを今年の1/11に、岸野雄一さんの新春恒例ライブで見たことで、またそのときにDJをしていたパク・ダハムさんを含めて、その後の打ち上げで少しおしゃべりをした、その時間がたぶん大きな影響をぼくに与えている。
  • 二人は日本語がうまく、かなりの部分日本語が通じ、すごいと思った。ぼくは韓国語がわからず、この言葉をわかりたいと、たぶん意識にのぼるよりも下のうっすらしたところで、思ったのではなかったか。
  • もうひとつのきっかけは昨年の10月に山口市で行われたYCAMのイベントで、SFPCというニューヨークの先進的な学校から招かれたチェ・テユンさんにお会いしたことで、彼はたしか韓国系アメリカ人だったと思うが、その時からだから、韓国のアーティストというあり方に抗いがたい魅力を感じていたのではなかったか。
  • しかしハングル検定、こんなことを書いているうちにあと2日しかなくなってしまった。そのうち1日(金曜)はその大半を仕事をして過ごしてしまうから、まったくどう考えても時間がないが。
  • まずはともかく、鉛筆や消しゴム、受験票などをきちんと用意した上で、会場に時間通りに着く、ということを最優先することにするか・・。しかしまだその鉛筆も、消しゴムも用意はしておらず、受験票をどこに置いたかもあまりよく覚えていない。受験票は2枚あるので、2枚とも見つけなければいけない。

日記の話、ヨドバシ.comで買い物、Twitterのアカウント削除

日記

  • 昔の人はSNSもブログもなかったのに、よく日記を書いている。その後に本になる前提とかならともかく、そうではないケースのほうが多かっただろう。なぜなのか。
  • ぼくがブログを書くときには、それを他人が読むことを前提としているが、昔の人はそうではなく、自分だけが読み返したりすることを前提に書いていたということだろう。
  • たしかに、というか、自分しか読まない前提であれば、公開できないようなことも書けるわけで、そうであるならまた、それなりにメリットもあるのかもしれないが。
  • 公開できないというか、公開することに躊躇するような内容というものはあるはずで(単純に個人情報に関わることとか)、たしかに考えてみると、そういった思念をきちんと記録しておきたい、と思うことは少なくない。
  • 公開して良い話と公開したくない話を両方書き残すのは随分大変そうなので、一番いいのは公開しない話をベースにして、その中で公開できるものだけ出す、という感じなのかもしれないが。(やるとは言ってない)

Amazonからヨドバシへ

  • 先日書いたこの件に関連して、
  • その後、またネットでの買い物の必要が生じたので、今回はヨドバシ.comを使った。
  • 幸い、欲しい物はすべて揃った。飲食物、日用品など。
  • それを日時指定で送ってもらうことができる。しかも、配送業者を選べる!
  • 郵便またはヤマト便を選ぶことができ、選んだ場合には350円追加。しかし、350円追加するだけの価値は十分ある。
  • ちなみに、指定しなければ郵便になるケースが大半(というか自分の場合は100%)のようなので、わざわざ350円指定の候補に郵便が入っているのはどうなのか。
  • Amazonのサポートには以前のやり取りの流れで、上記のブログ記事も渡しておいた。すると、コンビニ受け取りを使えばADPは来ない、との助言をもらった。
  • 言いたいことはわかるが、重い物だったらコンビニから運ぶ手間が大変だし、注文内容に応じてそれを振り分けるのもストレスなので、しばらく使うことはないだろう。それをするぐらいなら「可能なかぎりヨドバシに」と決めてしまったほうがラク

日記2

  • 日記の話に戻ると、以前に読んだ野田秀樹さんの本の中で、野田さんが毎日書いていた稽古日記みたいのが一部掲載されていて、面白かった。基本的には自分のために書いてある、サービスとしてではない文章だったが、それでもたしか90年代以降だったから、出版などを通して他人の目に触れることは意識していただろう。
  • 現代において、他人の目に触れさせることを前提とするか、しないかは、その創作物に対して少なからぬ影響を与えるように思える。人目に触れないことを前提に書かれたものは、少なくとも自分自身に対してはより良い影響を与えるようにも思える。(それをするとは言ってない)

東浩紀さん

  • 昨夜、東浩紀さんがTwitterのアカウントを消した、という話を見た。わざわざ調べに行ってはいないけど、今日になってふとTwitter検索してみたらみんなそう言っているのでそうなのだろう。
  • アカウント削除があまりにも大きな変化であるとしても、Twitterから離れる、という判断自体には共感する。東さんの時間をより有意義なものとして使ってほしい、と思う。哲学、文筆、ご自身の生活などにぜひ大切な時間を使ってほしい。
  • たしか少し前の日記にも書いたが、SNSへの否定的なコメントの書きやすさ、その可視化されやすさは異常だ。現代日本嫌韓の言説が多くなっているその異常さとも様相が重なる。新聞労連はこうしたメディアのあり方にNOを発信したようで、頼もしく感じるが、SNSサービス主体は果たしてどうだろうか。責任はユーザにのみあると考えているのだろうか。
  • その後、ゲンロンカフェの公式アカウント経由で本人からのアナウンスがあり、少しホッとした。さすがの内容だった。誠実であり、諦めもあり、でも変わらず戦っている。

大雨出社、『九月、東京の路上で』

  • 大雨。記録的な。普段なら自宅作業にするところだけど、会社でどうしても参加しておきたい打ち合わせがあったので強引に出社。
  • 行きの電車からすでにダイヤの乱れ。ドアが開くたびに雨が吹き込んでくる。しかも時間調整のために途中の駅で5分ぐらい停車していて、その間にもどんどん吹き込んでくる。気を利かせて一部閉めてくれてもいいのに・・。
  • 途中でものすごいタバコ臭い人が隣りに座り、しばらく我慢していたがかなりのレベルだったので仕方なく移動。知り合いだったらこんなふうに感じることはないのだけど。見知らぬ人とは、つまり人ではない概念になりやすいのかも。
  • 幸い、会社最寄り駅についた頃には雨はだいぶ落ち着いていた。通り道にあるエスニック料理屋さんでガパオライスのテイクアウト。650円(税込)。テイクアウトだからか、値段は10月以降も変わらない。助かる。会社で食事。
  • 参加しておきたかったMTGは無事終了。
  • カスタマーサポート終了後、会社の席替えをしばらく。サポートチームのさらなる効率化等を目指して。なかなか面白い。人力でレゴを作ってるみたい。レゴ作ったことないけど。
  • しばらく編集系の作業に集中。ヘルプ記事の校正など。
  • 自分のiPhoneと会社のスマートスピーカーBluetoothでつなげる試みが成功し、iPhoneをいじれば会社のBGMを流したり調整したりDJしたりできるようになった。快適!
  • 帰途はこのところ読み続けている以下。傑作。

  • 本来なら大きな出版社が出すべき内容。しかし、大きな出版社にはできないだろう。
  • 著者の加藤直樹さん。ものすごい勇気。言ってみれば、関東大震災時の朝鮮の人に自らなりに行くようなもの。とても自分にはできない・・。
  • もちろん、そこにあるのは勇気だけではなく、文章のセンスや実行力、やめない力なども。尊敬する。
  • 千葉方面の電車は台風のときよりも異常事態になっているように思えた。雨の影響、被害が大きいみたい。一体どうなってるんだ。2つの台風と1つの大雨。それらが重なったせいでもあるのだろうか。

身を守るための匿名

体感的に、今後は暴力をともなう差別が今までよりも増えてきそうだという予感がある。

それは今後増加する一方だという意味ではなく、長期的には均衡したり、減少したりもするかもしれないが、しかしこれからしばらくの間はまだ、たとえば今韓国に対して表れている差別的な態度が、少しずつ広がっていくのではないかという感覚があり、その際には今あるような精神的な追い詰め方にとどまらず、実際の肉体的・物理的な暴力が表れてくるのではないかという感覚がある。

*それはたとえば振り込め詐欺が、電話や本人のATM操作等による遠隔操作を通して金銭を奪っていたかつての方法から、まず電話で自宅に財産を持っていることを確かめた後、犯罪者自らが直接家に押し入って物理的な暴力とともに奪い取る方法に移っていったことと頭の中で重なっている。

これまで、そのような差別は、少なくとも表向きには、社会的に許されないものとして認識が共有されていて、だからこそそのような発言をするためには匿名である必要があったが、今後はむしろ、正しいことを言ったがためにそのような暴力を受ける恐れがあり、その際に実名であることは危険性を高めることにつながるから、「正しいことを言う人こそが匿名性を必要とする」という状況が増えてくるのではないか、と予感している。

たとえば香港のデモでは、参加者は皆黒いマスクをして匿名性を保っている。彼らが身元を特定されてはいけない理由は、良識から外れた自らの行為を周りに知られないようにするためではなく、国家から暴力を受けないようにするためだろう。

ぼくは以前、意味のある議論をするためには匿名性は邪魔で、実名である必要はないものの、その人は「交換不能な存在であり、なおかつ生計を立てる手段を把握されている人」でなければ時間を割いてやり取りすることはできない、と思っていた。

しかしそれは、議論の対象が命をかけてまで行うようなレベルの事ではないからそう言えたのであって、身に迫る危険を回避するという観点から考えれば、暴力をふるわない側にこそ、匿名性による安全圏が必要になるのではないか、と思い始めている。