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つねに今が最新型

若者と年寄りの争いは絶えない。若者は社会においてさまざまな面で年寄りに負けているが、若さゆえの魅力とか、新しいものに関する知識とかではもちろん勝っているから、その点で年寄りに対抗しようと考える。

年寄りは自分が一番欲しい若さを日々失っていて、それを持っている若者に嫉妬しているが、そんなふうに言えば負けを認めることになるから、まず言わない。その代わりに、10代の若者に対しては自分の10代の頃の記憶をもとに、20代に対しては20代の頃のそれをもとに、当時の中でも最もパフォーマンスが良かった瞬間の自分と、現在を生きる若者全般の抽象的なイメージとを比べて、いかに自分の方が優れていたかを語る。

年寄りであれ、若者であれ、つねに現在がそれまでの人生で最新型の自分であるから、過去のどんな時点の自分よりも今の自分の方が絶対的に「正しく」生きているのだと思いこんでいる。以前は馬鹿だったが、今はそうではないのだと。そう思うことを繰り返しながら日々を連ねている。

この点においては、若者よりも年寄りのほうがたちが悪い。人間として生きた時間はいつでも年寄りの方が長く、上記のような思い込みがより強くなるからだ。

昨日の自分よりも今日の自分の方がマシだと考えることは悪いことではなく、時に生きることを助けるが、それは自分の中でのみ成り立つ論理であり、他者を含む社会全体の中でも「年寄りである自分の方が若者である誰かよりも優れている」ことにはまったくならないから、「今が最新型である」という思いがそのような勘違いにつながると、多くの人がつらい思いをする。

匿名・実名問題の立て直し

周期的に、匿名か実名か、みたいな問題が現れては消えていく。

今この時点ではとくにそういった話は出ていないと思うが(あるいはもう、周期的というより常時・恒常的に、微震のように現れ続けているのかもしれないが)、以前からこれについて、ぼんやり思っていたもののまだきちんと書いたことがなかった気がしたので(もしかしたら書いたかもしれないが)、ちょっと時間ができた今のうちに書いておきたい。

一般的に、匿名による文言、投稿、表現などには価値がないというか、無責任な立場からの発言であるがゆえに、実名でリスクを負ったそれよりも下のものとして扱ってよいかのような共通認識があるように思われ、それ自体は全体像としては同意なのだけど、細かい部分ではいろいろと例外も出てくる。

たとえば、内部告発みたいなこととか、少し前だと保育園に落ちた話とか、あるいは単に王様の耳はロバの耳的なウサ晴らしのためだとしても、その目的が他人を攻撃することにはないケース(結果的には誰かに損害を負わせることがあるとしても、一義的には別の目的があるということ)もあるわけで。

逆に、実名や職場を公表しながらも普通にヘイトを繰り返す人もいるわけで、これを上記のような「必然性のある匿名(空間)」よりも価値があるとはとても言えない。

またそれとは別に、いや匿名でも、一意に特定できる立場というのもあって、これはほとんど実名と同等の価値を持つのだという言い方もあり、これはブログやTwitterの有名アカウントで、普段何をしているのかはわからないけど専門的な背景を前提に一定の信頼を得ている人とか。これはペンネームで活動している(実名を公表していない)作家や団体なども含まれるだろうか。

さてそのうえで、上記のような腑分けや問題点を含めて、いやまあ、でも結局こう考えればシンプルじゃないの、という分け方があるように前々から思っていて、それは「収入を失う可能性に結びつく情報を公表しているかどうか」ということ。

たとえば上に挙げた、ペンネームで活動する人であれば、その人の実名や年齢、性別や出身地などがわからなくても、ネット上でおかしな発言をして信頼を失えば、仕事・収入の道は断たれてしまう。そういうリスクを背負って(逆に言えば、仕事や収入を増やしうる可能性も踏まえて)そういう人はネットで発信しているわけで、だからそういう人はそれなりの「責任」を持って立っていると評価して良いと思う。

一方で、仮に実名や住所その他の個人情報をすべて公開しているような人でも、おかしな発言、攻撃的な発言等によってとくに失うものがないような立場にある人は、「実名だから」といって「責任」を負って発言しているとは言えない。

あるいはそのバリエーションとして、ヘイト発言をするほど仕事や立場を確固たるものにし、少なくともそれによって職を追われるとか、収入を断たれるような状況にはないような人も、その発言にさしたる重みはないと言える。

言い換えると、どの程度自分の命と引き換えに発言しているのかということ。

大抵の場合、「変なことを言ってもべつに失うものはない・収入も命も断たれない」という半ば無敵な人と「匿名」の人は重なるから、その意味で匿名による発言の信頼性を低く見積もることは可能だが、それだけでは時々上述のような「例外」に遭遇することもあるから、その場合にはその「どれだけ自分の収入・生命と引き換えに発信しているのか」を見れば、その人に対する態度も定めやすくなるように思っている。

時代を「変える」のではなく「早送り」する

少し前に書いた、最近読んでいる本としては朝鮮関連のものをいくつか紹介したけれど、

note103.hatenablog.com

その流れで、韓国発の以下の本を読んで、

とくに最後の本には感銘を受け、その流れで差別やフェミニズム関係の言説なり本なりに興味を惹かれているところ。

その後、下記も買って読んだり。

前者は女性が平等を求めて権利を獲得していく歴史を絵本形式でまとめたもの。

後者はそれをラジオで紹介していた、という流れで知った荻上チキさんのエッセイ。

後者のエッセイは一日で読み終わるぐらいスラスラ読める上手い文章。硬派なテーマが多い人だと思っていたけど、その素顔というのか、普段着な様子を真摯に記していく感じで、とても良かった。

絵本の方はある意味逆というか、サラッと見終わるかと思いきやものすごい重厚というか、文章量はけっして多くないんだけど、情報の質がいちいちグッと重くて、なかなか簡単には終わらない、終われない。最後まで行ったときにはちょっと疲労を感じるぐらい。でも、大変おもしろかった。

ちなみに、絵本の帯には伊藤詩織さんの推薦文付き。編集者・出版社の気合を感じる。もちろん、伊藤さんや訳者さんも含めて関係者全体のそれでもあるが。

ああ、まったく、どうしてこんなにもありえないような差別や抑圧が、いつまでもあり続けるのか。うんざりするような気分にもなる。

しかしその絵本で紹介されているような、昔の状況に比べたらだいぶマシだとも言えるは言える。と同時に、さらにしかし、そのようなマシな世界になってきたのはやはりそういった、白い目で見られながらも戦ってきた人たちがいたからで、ほっといてもそうなった、ということではないとビシビシ感じる。

ぼくのような、後から生まれてきたり、外側の安全なところでボーッとしている人間からすれば、「ほっといても世界は良くなる」というふうに見えもするし、その観点に限定すればたしかにそうとも言えるけど、ほっといても自動的に世界が良くなってきたように見えるのは、それぞれの現場で実際に手作業で世界の善を前進・加速させてきた人たちがいたからで、もしもその人たちがいなかったら、前進のスピードはずっと遅く、いや場合によっては逆行して、ぼくがいま享受しているような自由を、まだ体験できてはいなかったかもしれない。

はたから見て、世界はほっといてもそのうちどんどん良くなっていくのだとして、でもそのいわば進捗が、この2019年の段階でどこまで進んでいるのか、どのぐらい快適で自由で平等な社会になっているのかという現象・事実の状態については、その改善のために行動する人たち一人ひとりの存在が密接に結びつき、影響していて、世界がどれだけ速く進化するのか、それとも遅い進化に留まるのか、ということについては誰もが予測できず、不確実なものとして抱え続けるしかない。

もしもかつて世界を良くするために行動した人たちが、現実のそれよりも少なかったら、ぼくが享受する自由はまだ19世紀のそれだったかもしれないし、そうなっていてもまったく文句は言えない。実際にはそうではなく、少なくとも今あるような自由を経験できているのは、そういう過去のすごい人たちがいたからで、ぼくはだから、そういう人たちは世界を変えたというより、時代を早回ししてくれたのだと感じている。

結局のところ、人間一人ひとりが味わえる人生の時間は限られていて、その間にどこまで行けるのか、どこまでを体験できるのか。ゆくゆくはもっと良くなるとしても、その実現が自分の死後では困るというか、もったいない。「ほっといても良くなる」のはおおむね事実かもしれないが、より身近でより直接的な問題は、それが「どのぐらいのスピードで」良くなっていくのかということだろう。

自然な流れに任せるのではなく、自分のアクションを通して少しでも速く時代を先に進めることができるなら、そうしなければいけないと思っているところ。

生とは可能性のこと、死とは返事をしなくなること

あるとき、ある人が死んで、そのことを残された人がどうやって実感するのかといったら、それはその死んだ人が、もう「返事をしない」ということによってではないかとふと思った。


生きている間であれば、仮に何年もの間こちらから呼びかけず、またその結果として長く声を聞かなかったとしても、とくに何かを感じたりはしないものだが、それから先どのように、どれだけ呼びかけても、叩いても、揺り起こしても、二度とその人がこちらに向けて目を開かない、声を出さない、気づきもしない、新しい反応をしないのだと、知ったときにおそらく、何物によっても埋められない欠落、喪失を全身で感じることになるのではないかとふと思った。


返事とは、だから生きていることそのもので、返事とは、だから生き物の可能性を映し出すもので、実際の音声や文字などの信号として受け取っていなくても、その可能性が残ってさえいればまだ聞こえているものであって、しかしその可能性が途切れた瞬間から、それまでに長い間、ずっと耳鳴りのように響いていたその人の音が、突然やんでしまい、それが人の死ということなのではないかと、あるときふと思った。

選挙雑感

参議院選挙が終わった。実感としては、思ったより望ましい結果が出たじゃないか、という感じ。

  • れいわの障害者の候補者さんが当選したこと。
  • 自民・公明・維新で3分の2に届かなかったこと。
  • 立憲が議席を増やしたこと。
  • 山田太郎氏が当選したこと。

ぼく自身は選挙区は立憲の候補者、比例は山田氏に投票した。どちらも当選し、これも良かった。

山田氏に入れるのはもちろん躊躇した。今の与党に憲法改正など無理であり、無理であることを自覚していないという点でそれをさせてはいけないと思うから。現在の草案は惨憺たるもので、これはスペインのキリストのフレスコ画を描き直して(?)しまった人を想起させる。

Botched Restoration of Ecce Homo Fresco Shocks Spain - The New York Times

自分は直せると思っているのが怖い。とてつもなく怖い。そのような党に、山田氏を通して票を入れることになるのだから、それは躊躇する*1

しかし結果として、少なくともすぐには実現しないことになった。少なくとも、今すぐには。それがよかったことである。

投票率の低さが話題になった。これはいつも言われることだが、今回はいつにもまして言われているようだ。

しかしこの件、このブログでは前にも書いた気がするが、憂いてもあまり意味がなく、どちらかというと有害な効果しかもたらさない気がしている。

今回投票に行っていない人は、べつに日本語がわからないのでも、選挙なり政治なりというものを知らないわけでもない。知ってはいるけど、行ってない。そこにはある種の積極性がある。理由というほどの理由ではないかもしれないが、それでも一人の人間が自分で決めてそうしていることだ。

それに対して、上から目線で、リスペクトのかけらもない態度で、「お前らも行け」なんて言って、言われた側が「あ、わかりました、そうします」なんて思うだろうか? 思うわけがない。

言ってみれば、「北風と太陽」における「北風」みたいな態度である。逆効果。

そもそも、投票率が低いほど与党に有利だということを前提にすれば、「選挙に行け」と言ってる人は大半が野党支持だと思われ、その本心は「お前も野党に投票しろ」ということだろう。

しかし、よくよく考えてみれば、ここには「投票率が上がれば野党の得票率が上がる」という本末転倒な前提がある。実際の現象は、「投票率が上がったから野党の得票率が上がった」ではなく、「野党に投票する人が増えたから結果的に投票率も上がった」ということだろう。

であるなら、本来そこで言われるべきことは「お前も野党に入れろ」であり、「選挙に行け」ではないはずだ。なぜ素直にそう言わないのか、と思う。ぼくが以前から「選挙に行け」という言い方に違和感を感じるのにはそういった理由がある。

加えて言うなら、「選挙に行け(行こう)」という言い方には別の違和感もあって、そこでは「選挙に行け」というより「選挙に来い」というニュアンスの方が強い。「俺がいるこの場所に、お前も来い、そしてお前も野党に入れろ」と言っているように聞こえる。

つまり、自分は何も変わることなく、他人だけを変えようとしている。自分は絶対に正しく、間違っているのはその他人だと思って疑わない。そして、投票していない人を人間ではなく、自分が支持する政党への「票」としか見ていない。そういう雰囲気を感じている。

NHKが云々という党から当選者が出たという。恐ろしい。しかし、現実だ。あんな党に誰が入れるんだろうとか、棄権するやつがいるからその分その党の得票率が上がったのだとか、そういう意見をいくつか見て、そのとおりだと思ったが、とはいえ、投票する人の一部の気持ちを想像できなくもない。

たとえば、自分の1票になんてなんの価値もない、なんの影響力もない、と思った人が、その党に入れたらどうなるか。当選確実、あるいはそれを争うような有名な候補者に投じる1票なんて、ほとんどゼロに等しいと感じられるかもしれないが、どう考えてもそんなに票が集まるわけがないような政党に入れたら、自分の1票の重みを少しは感じられるかもしれない、なんて思うかもしれない。

あるいは、Twitterで流れてきた政見放送の動画を見て、おもしれーやつがいる、ウケる、これに入れよう、そしてその事をあとでネタにしよう、なんて思った人もいたかもしれない。またあるいは、そのギャグのような取り組みを見て、自分もそのデタラメぶりに加担したいと思った人もいたかもしれない。もしそんな人がいたなら、それはTwitterでその動画をアップした人だけでなく、RTした人、いいねした人もまたその当選に加担したことになるだろう。

気がついたら、無意識のうちにその党に入れていた、なんて人はいない。意識的に、自覚的にそれに入れたのであって、それが結果につながっている。その党に入れた人も、今回投票しなかった人も、すべて一人一人の人間で、それぞれの理由をもって投票したり、棄権したりした。

だから必要なのは、そういう人たちを見下したり攻撃したりすることではなく、まともな政党や候補者に投票したらどんなに良いことがあるのか、という具体的で直感的な、ありありとした希望を示すことだろう。他人の自由な意思を軽んじることが社会を良くすることにつながるとはまったく思えない。

加えて言えば、ぼくは投票率が高ければよいとも必ずしも思わない。選挙よりもっと大事な自分の用事がある、という人は、それだけ大事にしているものがあったり、とりあえず現状ママでも構わない、と思ったりしているわけで、もしもこの国に住む大多数が「今すぐ社会を変えなきゃ」と思うほど切迫した非常事態ならばそれなりの投票率になるだろうが、そうではない(と少なくとも半数以上は感じている)わけだから。

ぼく自身は、現在の日本を「切迫していない」とは思っていないし、どんどん恐ろしい方向に向かっている、まったく油断できない、安定していない状態だと思っているし、だからかなり考えた末の投票をした。でも、それをべつに偉いことだとは思わないし、これもまたぼくという一人の自由意思に基づく行動に過ぎないと思っている。そのような過不足のない尊重を、当たり前にできる社会であってほしい。

*1:一方で、確かに山田氏は野党にいては意味がない。自民党であればこそ最大の力を発揮できる。つまりそのようにして、本人も支援者もそれなりのリスクを取っている。