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生とは可能性のこと、死とは返事をしなくなること

あるとき、ある人が死んで、そのことを残された人がどうやって実感するのかといったら、それはその死んだ人が、もう「返事をしない」ということによってではないかとふと思った。


生きている間であれば、仮に何年もの間こちらから呼びかけず、またその結果として長く声を聞かなかったとしても、とくに何かを感じたりはしないものだが、それから先どのように、どれだけ呼びかけても、叩いても、揺り起こしても、二度とその人がこちらに向けて目を開かない、声を出さない、気づきもしない、新しい反応をしないのだと、知ったときにおそらく、何物によっても埋められない欠落、喪失を全身で感じることになるのではないかとふと思った。


返事とは、だから生きていることそのもので、返事とは、だから生き物の可能性を映し出すもので、実際の音声や文字などの信号として受け取っていなくても、その可能性が残ってさえいればまだ聞こえているものであって、しかしその可能性が途切れた瞬間から、それまでに長い間、ずっと耳鳴りのように響いていたその人の音が、突然やんでしまい、それが人の死ということなのではないかと、あるときふと思った。

選挙雑感

参議院選挙が終わった。実感としては、思ったより望ましい結果が出たじゃないか、という感じ。

  • れいわの障害者の候補者さんが当選したこと。
  • 自民・公明・維新で3分の2に届かなかったこと。
  • 立憲が議席を増やしたこと。
  • 山田太郎氏が当選したこと。

ぼく自身は選挙区は立憲の候補者、比例は山田氏に投票した。どちらも当選し、これも良かった。

山田氏に入れるのはもちろん躊躇した。今の与党に憲法改正など無理であり、無理であることを自覚していないという点でそれをさせてはいけないと思うから。現在の草案は惨憺たるもので、これはスペインのキリストのフレスコ画を描き直して(?)しまった人を想起させる。

Botched Restoration of Ecce Homo Fresco Shocks Spain - The New York Times

自分は直せると思っているのが怖い。とてつもなく怖い。そのような党に、山田氏を通して票を入れることになるのだから、それは躊躇する*1

しかし結果として、少なくともすぐには実現しないことになった。少なくとも、今すぐには。それがよかったことである。

投票率の低さが話題になった。これはいつも言われることだが、今回はいつにもまして言われているようだ。

しかしこの件、このブログでは前にも書いた気がするが、憂いてもあまり意味がなく、どちらかというと有害な効果しかもたらさない気がしている。

今回投票に行っていない人は、べつに日本語がわからないのでも、選挙なり政治なりというものを知らないわけでもない。知ってはいるけど、行ってない。そこにはある種の積極性がある。理由というほどの理由ではないかもしれないが、それでも一人の人間が自分で決めてそうしていることだ。

それに対して、上から目線で、リスペクトのかけらもない態度で、「お前らも行け」なんて言って、言われた側が「あ、わかりました、そうします」なんて思うだろうか? 思うわけがない。

言ってみれば、「北風と太陽」における「北風」みたいな態度である。逆効果。

そもそも、投票率が低いほど与党に有利だということを前提にすれば、「選挙に行け」と言ってる人は大半が野党支持だと思われ、その本心は「お前も野党に投票しろ」ということだろう。

しかし、よくよく考えてみれば、ここには「投票率が上がれば野党の得票率が上がる」という本末転倒な前提がある。実際の現象は、「投票率が上がったから野党の得票率が上がった」ではなく、「野党に投票する人が増えたから結果的に投票率も上がった」ということだろう。

であるなら、本来そこで言われるべきことは「お前も野党に入れろ」であり、「選挙に行け」ではないはずだ。なぜ素直にそう言わないのか、と思う。ぼくが以前から「選挙に行け」という言い方に違和感を感じるのにはそういった理由がある。

加えて言うなら、「選挙に行け(行こう)」という言い方には別の違和感もあって、そこでは「選挙に行け」というより「選挙に来い」というニュアンスの方が強い。「俺がいるこの場所に、お前も来い、そしてお前も野党に入れろ」と言っているように聞こえる。

つまり、自分は何も変わることなく、他人だけを変えようとしている。自分は絶対に正しく、間違っているのはその他人だと思って疑わない。そして、投票していない人を人間ではなく、自分が支持する政党への「票」としか見ていない。そういう雰囲気を感じている。

NHKが云々という党から当選者が出たという。恐ろしい。しかし、現実だ。あんな党に誰が入れるんだろうとか、棄権するやつがいるからその分その党の得票率が上がったのだとか、そういう意見をいくつか見て、そのとおりだと思ったが、とはいえ、投票する人の一部の気持ちを想像できなくもない。

たとえば、自分の1票になんてなんの価値もない、なんの影響力もない、と思った人が、その党に入れたらどうなるか。当選確実、あるいはそれを争うような有名な候補者に投じる1票なんて、ほとんどゼロに等しいと感じられるかもしれないが、どう考えてもそんなに票が集まるわけがないような政党に入れたら、自分の1票の重みを少しは感じられるかもしれない、なんて思うかもしれない。

あるいは、Twitterで流れてきた政見放送の動画を見て、おもしれーやつがいる、ウケる、これに入れよう、そしてその事をあとでネタにしよう、なんて思った人もいたかもしれない。またあるいは、そのギャグのような取り組みを見て、自分もそのデタラメぶりに加担したいと思った人もいたかもしれない。もしそんな人がいたなら、それはTwitterでその動画をアップした人だけでなく、RTした人、いいねした人もまたその当選に加担したことになるだろう。

気がついたら、無意識のうちにその党に入れていた、なんて人はいない。意識的に、自覚的にそれに入れたのであって、それが結果につながっている。その党に入れた人も、今回投票しなかった人も、すべて一人一人の人間で、それぞれの理由をもって投票したり、棄権したりした。

だから必要なのは、そういう人たちを見下したり攻撃したりすることではなく、まともな政党や候補者に投票したらどんなに良いことがあるのか、という具体的で直感的な、ありありとした希望を示すことだろう。他人の自由な意思を軽んじることが社会を良くすることにつながるとはまったく思えない。

加えて言えば、ぼくは投票率が高ければよいとも必ずしも思わない。選挙よりもっと大事な自分の用事がある、という人は、それだけ大事にしているものがあったり、とりあえず現状ママでも構わない、と思ったりしているわけで、もしもこの国に住む大多数が「今すぐ社会を変えなきゃ」と思うほど切迫した非常事態ならばそれなりの投票率になるだろうが、そうではない(と少なくとも半数以上は感じている)わけだから。

ぼく自身は、現在の日本を「切迫していない」とは思っていないし、どんどん恐ろしい方向に向かっている、まったく油断できない、安定していない状態だと思っているし、だからかなり考えた末の投票をした。でも、それをべつに偉いことだとは思わないし、これもまたぼくという一人の自由意思に基づく行動に過ぎないと思っている。そのような過不足のない尊重を、当たり前にできる社会であってほしい。

*1:一方で、確かに山田氏は野党にいては意味がない。自民党であればこそ最大の力を発揮できる。つまりそのようにして、本人も支援者もそれなりのリスクを取っている。

最近読んだ朝鮮関連の本

簡単な読書記録として。

4月後半ぐらいから急にハングル(朝鮮で使われている文字)に興味を持って趣味で勉強を始めたということは前にも書いたけど、そういう言葉を喋っている人たちがどんな背景をもって生きているのか、どういう歴史を学んで生きてきたのか、そういうことを知りながら発声したり、文章を読んだりした方がいろいろ面白いのではないかと思って、とくにはというかまずはというか、韓国の現代史をざっと概観できる本はないか・・と思って最初に手に取ったのはこちら。

新・韓国現代史 (岩波新書)

新・韓国現代史 (岩波新書)

書名からしてそのまま。という感じだけど買って通勤電車で少しずつ読み重ね。Kindleだと旧版の方は出ているんだけど、新版の方は紙版のみ?しか見あたらなかったのでひたすら紙の新書で読んでいた。

基本的に知らないことばかりというか、中高生のときにはひとしきり俯瞰したはずだったけど、まあまったく忘れているので&知らされていなかったことも多く、すべてが新しい情報という感じ。

でもまずは一旦目を通しておくという姿勢で最後まで。多少は下地ができたかなと。

後半に行くに従って、少しは自分がリアルタイムに見聞きした情報なども入ってきて受け取り方は変わってきたかも。

在日朝鮮人 歴史と現在 (岩波新書)

在日朝鮮人 歴史と現在 (岩波新書)

次に読んだのはこちら↑。同じ岩波の赤い新書で、2人の著者のうち1人は前述の本と同著者なのでちょっと記憶が混ざりがちだけど、こちらは1冊目よりずっと読むのに時間がかかった。

とくに前半、水野さんによる担当部分は、その内容の性質のせいもあると思うけどひたすら事実を詳述していく感じで、読みながら「なぜ自分は貴重な余暇を使ってこれを読んでいるんだろう・・」と我に返ってしまうほど時間がかかった。

べつに楽しみというかエンターテイメントを味わうつもりでははじめから無いものの、とはいえそんな風に思ってしまうほど、なんというかたぶんツライ感じというか。日本人、なにしてくれてんの、どうしてそんなひどいことをできるの、の連続。そしてこの感覚は結局のところ、その後も朝鮮関連の本や記述を読むたびに感じることになるのだけれど。

後半、文さんのパートに入ってからは、たぶん扱うネタに文化的な(というか文学者などの)要素が加わってきて、少しだけ息苦しさが薄れる感じにもなり、さらに終盤に近づくにつれて前記の本と同様、現代の多少なり知っている情報ともリンクして読みやすい感じになりながら読み終わり。

とはいえ、いやあ、ひどいですね本当に・・日本。とはいえ同時に、日本は戦争において自国民に対しても非人間的なことをいくらでもやっているわけで、日本が・日本人がひどいというよりある種のポジションについたその人たちが駄目だったということな気もするけれど。

在日朝鮮人ってどんなひと? (中学生の質問箱)

在日朝鮮人ってどんなひと? (中学生の質問箱)

もう少しかるいタッチでこの辺のことを補足的に触れたいなあ、と思って見つけた(というかたしかKindleでサジェストされた)のがこちら。

いかにも中高生向け。な感じのシリーズなので、気軽に読み始めたけどめちゃヘビー。初めの方こそゆるやかに始まるけど、途中からいや普通に普通の読者層向けでしょみたいな感じでまったく手を抜かないというか、いや中高生向けだからといって手を抜いていいという意味ではないけど、少なくともそういう読者向けだから書き方を変える、みたいなことはなくて、どちらかというと若年者向けだからこそ全部を全力で書き尽くすぞ、という感じか。

読んでいるときのつらさ、「なにしてくれてんの、日本」な感じは上記2冊にまったく劣らないもので、むしろよりはっきりと感じたかなあ。とはいえ一方で、単に日本を責めるという感じでもなく、まあ常識的に考えて駄目だよねこれは、という書き方で。そしてだからこそつらいというか。

全編を通して、透徹した哲学者・思想家がそうするように、いろんな視点から考え抜きながら書いている文章という印象だった。だからといってスイスイ読み進められるのかといったら、やはり前述の「つらさ」があるので、繰り返しになるがせっかくの貴重な余暇(ほかのどんな自分が好きなことに使ってもいい時間)を使ってまでこれを読むというのはそれなりの抵抗があり、誰に頼まれているわけでもないのだから途中で放り出してもよかったのだけど、ただひたすら関心・興味があったので最後まで読んだ。

言い換えると、分量はけっして大量というほどでもないこの本を、最後まで読み切るのは自分にはなかなか大変で、それを達成したのは興味があったから。なかったら最後までは行ってない。やめたところで誰に迷惑をかけるわけでもないし、他にやりたいことも山ほどあるわけだし。でも関心があったから最後まで読んだし、逆に言うとそれさえあれば最後までいけるし、なければどれだけ時間があっても、あるいはどれだけ薄い本でも最後までは読まないんだな、と思ったりした。

少し前に、以前に哲学系の本をいくつか読んだ時期のことを書いたけど、本当に深くしつこく考えを積み重ね続けると、もうココより前には戻らない、というところに行かざるを得ない感覚がある。徐(ソ)さんの文章にはそういう自ら何度も思考を叩いて鍛えた強さが感じられて、哲学者の言葉を聞いているような感覚を時々抱いた。

ちなみに、著者は「国」と「自分」をイコールで結びつける考え方は危険だと何度か書いている。日本が責められれば日本人である自分が責められたと感じる人がいて、それは若い人にも多く見られると。そう考えると、自分が日本人だからといってここまでつらい、つらい、とつらがる必要もないかもしれないのかもしれないけど、とはいえ自分の祖先たちの行為によって他人が受けたつらさを知り、我がことのようにつらがる事自体には、やはりより快適で楽しみに満ちた社会を作るための過程として、役立つ部分があるように思える。

これらの読書を受けて、次に読む本をすでにいくつか買ってあるけど、読んだら&また気が向いたらメモするかもしれない。

誘われても狭い部屋に入らない

A「キミはりんごが好きなんだね」
私「いえ、とくに好きではありません。どちらかと言えばみかんの方が好きです」
A「みかんが好きだからって、りんごが嫌いとは限らないだろう」
私「嫌いとは言ってません。好きというほどではないということです」
A「ほらやっぱり。嫌いじゃないなら、好きなんだろう」
私「そうじゃなくて・・(もういいや)」
A「ふむ、反論しないということは、キミはりんごが好きなんだな」
私「・・」
A「ワタシのTwitterにはたくさんのフォロワーがいるから、拡散しておこう。おーい、みんな!この人はりんごが好きだそうだ!」
私「ちょっと、やめてください、そんなにたくさんの人に誤解されたら困ります」
A「ふん、違うなら、違うと証明してみろ。ワタシを説得してみろ」
私「(説得って・・どうすれば・・)」

さて、このような状況に遭遇したら、どうしたらよいだろうか。

答えはシンプルで、自分の公式見解をただ公開すればいい。上の例なら、自分のTwitterアカウントで「りんごは嫌いというほどではないが、べつに好きではない」と明言しておけばいい。

上記のAさんは、自分の部屋から出ない人だ。そして、その部屋は狭い。中には、2〜3人しか入れない。入っても、狭すぎて身動きが取れず、すぐにヒジがぶつかるぐらい、相手の顔もまともに見れないぐらいに狭い。

一方のあなたは、もっと広い場所にいる。周りにはたくさんの人がいるが、あちこちに散らばっていて、皆が皆、どんなふうに振る舞おうがべつにガシガシぶつかったりはしない。

狭い部屋では事実がすぐに固定化される。生じる現象のバリエーションは少なく、あらゆる出来事に整合性がある。

一方で、広い世界で共通の傾向を見出すことは難しい。誰かにとっての真実が、他の誰かにとっては明らかな誤りかもしれない。様々な矛盾が同時に存在しているのが広い世界だ。

様々な矛盾を前提として受け入れている世界において、矛盾はとくに「悪」ではないし、誰かのレールから他の誰かが外れることは日常であり、異常なことではない。

しかし狭い世界において、ひとつの傾向を外れることはすなわち「悪」になってしまう。元のレールに戻そう、異物は排除しよう、という考えにすぐとらわれてしまう。

狭い世界にいる人は、すぐに断言をする。正しいものは少なく、固定であるからだ。正しいものはすぐ手に取れる場所に常にあり、何がそれでないかは考えるまでもなく、反射的にわかる。

広い世界にいると、何が正しいのかすぐにはわからない。尊敬している人が、自分が嫌いな何かに夢中になっていることもある。ただそういう事実がそこにある、と知っているだけでも世界は広がる。

狭い世界にいる人は、そこから動かない。「俺のそばまで来い、この部屋に入ってこい」と言う。「お前の言うことはよく聞こえないから、もっと近くに来い」と。もしかすると、その人はそこが部屋の中であることにすら気づいていないかもしれない。すべてが整然と固定化された小さな部屋にいることも、その外に嵐のような混沌があることも知らないかもしれない。

だから、その部屋に入ってはいけない。入れば、その中の限定的な規律に従わざるをえなくなる。

その部屋の「王」はその人で、それ以外の人は家来か奴隷だ。何を言っても王にとっては取るに足らない意見でしかない。「またカラスが鳴いてるな」ぐらいにしか思わない。王にとって奴隷は人間ですらない。だから、その部屋に入ってはいけない。

このようなときには、広い世界に留まり、自分の言葉を理解できる相手に向けて、丁寧に意見を述べればいい。「私はりんごが嫌いというほどではないけれど、べつに好きなわけでもない」と。

傷ついたことに気づいたら

心が傷ついたとき、自分が傷ついたことに気づくのは、その原因になったことが起きた瞬間ではなく、それからしばらく経ってから、その影響が表れはじめてからではないか、とふと思った。

誰かにひどいことを言われて、その瞬間というのは、それを「受け止める」というアクションをすることに精一杯で、「何を言われたか」をまだ吟味できていない。たとえるならば、何か熱いものを突然投げつけられて、「熱い!」とは思うものの、何が熱いのかはわかっていないという感じ。

やがて時間が経って、その熱さ自体よりも、自分が何を投げつけられたのかを知るにつれ、なぜ自分がこんなことをされなければならないのか、と思ったときには、もうそれを問える当の相手は目の前にいない。心はその熱いものを受け止めたときに傷ついていたとも言えるが、実際には、傷ついていたことに気づいたときこそが、本当の意味で傷ついた瞬間であるようにも思えてくる。

ああ、傷ついた!許せない!ぜったいに許さない!ああ!私は傷ついた!・・と、泣いて叫ぶことにも意味はあるだろうし、それはそれでやってもいいかもしれないが、その末に相手を同様に傷つけることができれば、それで本当に溜飲が下がるのかといったら、貴重な自分の人生を、そういう人と交じり合うことに使ってもいいのかどうか、わからないといえばそれもわからない。

最近時々思うことだけど、というか以前にもここに書いたような気がしなくもないが、目の前に野球のボールが飛んできて、おでこにぶつかるその瞬間のボールの大きさは、たぶん月よりも太陽よりも大きい。目の前にあるものは何よりも大きく見える。

しかし、ふと自分を数メートルとか数十メートル上空から俯瞰して、自分とボールとを見比べたら、ボールはあまりにも小さく、ただ自分の顔にすごく近づいて存在しているだけなのだとわかるだろう。

目の前にあるものは大きく見える。しかし本当の大きさは離れてみなければわからない。

心が傷ついたことに気づいたら、ぐっと身をそらせて、遠く上空に飛び上がり、自分を広く俯瞰して、それは本当に傷つくに値することなのか、それの本当の大きさはどのぐらいなのか、果たして気にとめるべき、耳を傾けるべきことなのか、考えてみるというのはありなのかもしれない。

Twitterなどを見ていると、若く才能あふれる人が、それまでに投げつけられたことがないような心ない言葉を受けて、もう活動をやめようかというぐらい傷ついているのを見ることがあるが、安全な場所から、誰でもよい誰かに向けて投げ散らかされた小さなゴミが、そのような才能の輝きを消してしまうほどの意義を持つのかといえば、まったく見合わない。このようなことを思うのは、ぼくがその人自身ではない他人で、初めから俯瞰的にその状況を見ることができているからで、逆に言えばそのような立場に自ら立つこと、自覚を持って、客観的になることが、役に立つのではないかと思っている。