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直近2ヶ月間の様子 〜 事前チェックの話

  • 6月に入った頃から一気にTwitterでの投稿が増えた。いわゆる解禁というか、それまでの一番の懸案というか、プレッシャーの源だった、山口への出張取材が5月末でひとまず終わり、その原稿化作業もある程度目処が立ってきたから、というのが直接的な理由だろう。
  • 具体的には、6/3の段階で原稿がほぼ「人に見せられる」ぐらいまでは行ったみたい。編集部に送ったのが翌日。で、Twitterは6/2までしばらくゼロ行進だったのが6/3に1ツイート、翌日以降は毎日、徐々に増えていったのでわかりやすい。ホッとしたのだろう。
  • しかしここでホッとしすぎて、本来なら1週間後(6/10)に迫った簿記2級の検定のために一気に切り替えてフルスピードで勉強しなければいけなかったところ、どうもあまり身が入らず、いや時間的にはそこそこやったのだけど(1日6〜7時間)、もうひと押し、というところで気が散ってしまうというか。自分でもそれはわかっていたのだけど、もう「休む」方が習慣化してしまっていた。
  • ということで(というべきだろう)、簿記の方は6点足らず不合格。しょうもない、見直しさえやっていれば拾えたミスがそれだけでも8点分あったので、ああ、それさえ取れていればと何度も思ったけれど、基本的にはベースの力が低かったせいでそこまでギリギリの戦いをしていたわけで、言い訳のしようもない。勉強不足でした。
  • その後は山口取材記事の仕上げ作業。すでに編集部には渡し済みで、あとはインタビュイー(被取材者)であるところのYCAM(ワイカム)渡邉さんと、編集部によるチェックをもらって修正、というのがメイン。Twitterでも時々話題にしたけど、今回の編集部とのやり取りではGitHubを軸にデータや意見のやり取りをできたので大変助かった。渡邉さんも記事をご覧頂ければわかるとおりギークな人なので(→記事)、リポジトリ上でサクサクとプルリクしてくれたりして夢のよう、というか未来のよう。これが2018年の編集でしょう。
  • そういえばこのところはTwitterで「事前チェック有りや無しや」みたいな話題がホットのよう。
  • 曰く、「記者が被取材者に記事の公開前チェックをさせるのは編集権を渡すに等しい。ジャーナリストとしての責任を果たすためにも、そういう要求は毅然として断るべき」とかなんとか。これに対して、「いや記者さんは専門家じゃないからその人に取材をしたわけで、事実関係の間違いとかあるかもしれないし、そもそも言ってないことを言ったことにされて困るのは被取材者なんだから、チェックさせなさいよ」とかなんとか。
  • 個人的には、以前に以下の記事でも書いたけど、「ようは前提がズレてるだけでしょ」でファイナルアンサーではある。

note103.hatenablog.com

  • チェックさせたくない、と言う記者さんの頭にあるのは、自分(自社)の制作物であるその記事を、外部の人間の指示で変えてしまったら記事の存在意義が変わってしまう、自分の責任のもとに公開できなくなってしまう、みたいなことだろう。それはそれでわかる。ある意味ではその通り。記者さんは被取材者が見ていないところも含めて原稿を書いているだろうし、自分はインタビュイーのスポークスマンとかメッセンジャーではないのだ、ましてやお金を受け取って広告を作ってるわけではないのだと、取材で聞いた話というのは、あくまで記事の全体を構成する要素のひとつに過ぎないのであって、修正を指示するなら自分と同じ全体を知っている(把握している)人からのものでなければ受け入れようがない。とか、そんな論理は確かに成立すると思う。
  • 一方で、「直させなさいよ」という意見もまた妥当。結局のところ、記事を読む人は記者やメディアの意見として読む以上に、インタビューであればインタビューされた話者の意見だと思ってそれを読むのが自然であるから、にもかかわらずその喋っている人が「そんなことは言ってない」と思うなら、それは読者に誤った情報が伝わっていることになる。
  • だから、前提がズレていると言える。記者の方は自分(自社)の責任のもとその制作物を公開しているつもりだけど、インタビュイーや読者はそうしたメディアを飛び越して、その制作物がインタビュイーによるものだと思ってる。その別々の前提のもとで、やれ「チェックさせない」とか「チェックさせろ」とかやってるわけで、それがズレたままでは不毛なばかりか罵り合いにより気分的にも害がある。
  • 個人的には、単純な話、取材依頼の段階で事前チェックの有無についてすり合わせておけばいいだけでは・・とは思う。ただし、インタビュイー(被取材者)の方は普段そんな経験はしない、いわば素人であることも多いだろうから、その素人にそういった前提的な手続きを求めるのは無理がある。本来であれば、プロであるところの記者(メディア)側が言っておくべきことだろう。
  • しかしまあ、現実的には、わざわざ「ウチの方針として、あなたに事前のチェックはさせませんから」などと依頼時に言えるメディアがあるとはあまり思えないので、被取材者の方で自衛として聞いていくしかないのかな、とも思うけど。
  • 一方、というかちなみに、というか上記の山口取材の記事(@GeekOut)では、そこにも書いたとおり被取材者の渡邉さんには公開前にめちゃくちゃチェックしてもらったし、それを受けての修正もめちゃくちゃ入れた。(というかGitHubのプルリクエストなので一旦マージしてから微調整した)
  • 渡邉さんからの修正はそこそこ多くて、といってもおそらくご本人はこちらの原文を最大限尊重してくれたと思うけど、それでも渡邉さんは普段の仕事が文章をすごく書くもので、またライターとして寄稿したり、美術家としても文章を書いたりする人で、なおかつ何しろ今回の記事では全編渡邉さんが喋っているわけだから、多分直そうと思えばいくらでも直せたと思うのだけど、だからそのうちのほんの一部だとしても、通常の被取材者チェックなどに比べたらけっこう多い方だったのではないか。
  • で、ぼくはそれに対してどうしたかと言うと、上にも書いたがそのほとんどをすべて一旦受け入れて、その上で表現として調整したいと思ったところはこちらに任せてもらった。
  • では、それだけ多くの修正を反映してぼくの編集権(というか)が奪われたり薄まったりしたのかと言ったら、まったくそんなことはない。なぜなら、その程度の修正で壊れるようなものを作っていないから。(ドヤァ)
  • 実際には、上記のとおり渡邉さんも文章を書ける(=文章の背景を含めた全体を読める)人なので、そもそも初めからおかしな要求をしてこないということもあるのだけど。だからこそというか、渡邉さん的にも全体に影響しそうな修正案については、自分で直してしまう前に一旦ぼくに相談してくれたりしたのだけど、それに対してもぼくの方では「あ〜、なるほど。じゃあ一旦その方向で直してみましょうか」みたいに反映してから必要に応じて調整しながら仕上げていった。
  • 話を戻すと、最初に他人に見せられる程度の(チェック可能な)原稿を作った段階で、核心になる部分はもうできている。大抵の場合、その時点から後に他人が修正できる箇所というのは、たとえてみれば人間が着る服とかアクセサリーとかの部分であって、服の中身の人間が変わるほどの根本的な修正というのはほとんど出ない(できない)。
  • 仮に、そういった本質的な(服の中身の人間の性格が変わるような)修正を依頼された場合には、その意図をきちんとヒアリングした上で、こちらの方針とズレるようなら話し合って適切な内容に落とし込めばいい。もしその際、どうしても方針に相容れない部分があった場合には、すべて白紙に戻ることも想定しながらガチで意見を戦わせる必要もあるかもしれないが、大抵の場合はそこまでいかずに合意できるだろうし、むしろ終盤になってからそれだけ意見の開きがあったらそれ以前のどこかの段階で飛ばすべきではない工程を飛ばしているのかもしれない。つまり、もはや事前チェックがどうという話ではない。
  • 人は見た目が9割とか、神は細部に宿るみたいな話は文章でも言えて、だから上で言う「服やアクセサリー」の部分も文章の本質に関わる大事な要素ではあるのだけど、実際にはそれも全体を把握していればどうにでもなるもので、たとえば被取材者が「絶対にこの指輪とネックレスは付けてほしい。その靴は気に入らないからこっちに変えてほしい」みたいな要求をしてきたら(ぜんぶ上記の流れの喩えですが)、それを全部反映させた上で、それらの付け方や履かせ方を調整することで全体の方針を保てばいいし、まずはそれを試みた上で、「いやどうしても無理だな」となったらあらためて話し合えばいい。
  • 「被取材者(インタビュイー)→記者」の関係は、「使用者(強者)→労働者(弱者)」の関係ではなく、どちらかと言えばその逆だから、「インタビュイーの言いなりに原稿を直したりしないよ」と言いたくなる記者の気持ちは理解できる。しかし、実際にはメディア側(記者)の方が立場が強いという状況があること、つまり、最終的にどういう内容で公開するかを決定するのはメディア側である、という不動のアンバランスさがあることを考えれば、メディア側が被取材者の意向に最大限寄り添うのは当然のことだと思う。
  • 論理的にはそうとしかならず、誰が考えたって結局はその結論に行き着くはずだと思うけど、現実的にはそんなチェック工程を挟んでくれないメディアも少なくないかもしれない。しかしおそらく、その場合にはその理由は単純に「スケジュールの問題」なのだと思える。どちらが偉いとか、責任がどうとか、編集権とか、公平性とかの問題ではなく。
  • 記事の作成過程で一番大変なのは「とりあえず人が読めるぐらいまで作る」ということで、より良いものにするためには、そこからいろんな人に読んでもらう工程が必要になるわけだけど、その前の段階、つまり「とりあえず人に読ませられるところまでキタ!」という段階をゴールに設定してしまうと、そのスケジュール上、メディアの外部にいる人がチェックすることは難しくなる。おそらく、被取材者に公開前のチェックをさせないメディアはそういうスケジュールを組んでいる。
  • それに、上にも書いたが記事の作者は取材によって得た情報をあくまで素材のひとつとして見ているのであって、しかし原稿はそれ以外の様々な要素と組み合わさって出来ている。ある意味、それは絶妙なバランスで積み上げられたジェンガの塔みたいなもので、できることならそれ以上誰にも触ってほしくない、と書き手が思うのは自然なことだ。
  • その場合、そもそも原稿に対して外部から(ここではインタビュイーから)意見を聞く工程があるというだけでも書き手にとって大きなストレスやプレッシャーになることは想像に難くない。さらに、そうしたチェックが公開目前の時期に重なってしまった場合のストレスと言ったら大変なものだろう。逆に言えば、そのような機会自体取り払ってしまえば、書き手はそうしたストレスからひとまずは解放される。
  • スケジュールにチェック工程を含めるというのは、だからそれだけ負担のかかることで、第一には充分な(長めの)スケジュールを組む必要があるし、第二には上記のような公開目前まで続くストレスに耐える覚悟が必要になる。そしてそのような状況に対して、「いや、そんな余裕ないんですよ。」というのが結局のところ「事前チェックはさせない」という方針の一番の理由になっているのではないかと思う。
  • 話を数段階戻すと、「事前チェックさせない」と言う側の頭には、「こっちは広告作ってるんじゃないんだから、インタビュイーの言いなりに原稿を直したりしないよ」という思いがあるだろう。「言いたいことがあったら、自分のメディアでやりなさいよ」と。しかしそうであるなら、そういう力関係、双方の立場のあり方について、取材を依頼する段階で明示しておく必要があると思う。多くの場合、取材というのはメディアの側から申し込むものであって、インタビュイーはそれに慣れていないのだから、話を聞くだけ聞いて、主語をインタビュイーに設定して、誤った情報が流れてしまっては誰も得をしない。
  • ただ実際には、くり返しになるが、現時点でそれをしていないメディアが今後自主的にそういう事前説明をするようになるかといったら、あまりそういう想像はできない。だから現実的には、取材を受ける側が「公開前にチェックできますか?」と聞くことが、そういった地味な悲劇を回避するための一番確実な方法なのだとは思う。
  • 作家の森博嗣さんは、もう10年以上も前に刊行された日記シリーズでちょくちょくそのことを書いている。曰く、新聞社から取材の依頼があったが、断った。なぜなら、事前にチェックさせないから。みたいな*1。これが何度も出てくる。例外的にその条件を飲んで取材を果たしたのはたしか産経新聞の特集記事みたいなやつで、その時の取材はとてもちゃんとしていた、みたいに書いていた。(例外的だったのでよく覚えている)
  • 話をまた戻すと、上記のYCAMの記事のように、メディアによってはちゃんと事前にインタビュイーのチェックを受けているし、ほとんどまったくリジェクトなしで反映することもある。まあ、ぼくの場合はとりわけ反映した方なのではないかと思わなくもないけど・・ただ少なくとも、その記事ではそれをやった。だから、そういうメディアもあるよ、ということ。
  • 以前に少し関わった、「schola TV」も当然のことながら、放送前には坂本さんによる事前チェックの期間がきちんと取られていた。
  • つまり、TVにしたってそういうのもあるよ、ということ。番組による。
  • 言うまでもないけれど(と言いつつ言う必要がありそうだと思うから書くのだけど)、なんでもかんでも100%事前チェックをさせるべきという話ではない。状況による。しかしいずれにしても、読者がその記事を読んで(あるいは番組を見て)、被取材者が言っているかのように受け取れる内容が、実際に被取材者の言いたかった内容とズレている可能性の生じる状況だったら、被取材者および読者のために事前チェックの工程を設けるのは当然のことで、それができないのだとしたら、その理由は思想とか方針とかによるものではなく、スケジュールや書き手の体力といったリソースの問題だと考えるべきだろう、ということ。
  • 直近の話をもう少し続けるつもりだったけど、長くなったのでここまで。

*1:実際にはその他に「顔出しNG」という原則もあって、それに抵触して断ってるのも多い。

YCAM(山口情報芸術センター)の渡邉朋也さんにインタビューをしました

めずらしくschola以外の仕事をしました。以下のインタビュー記事の執筆(取材・構成)です。

https://geek-out.jp/column/entry/2018/06/21/110000geek-out.jp

ふり返り

普段は編集の仕事をしているので、様々なテーマを専門とする執筆家の方(ライターさん)に原稿を依頼する側ですが、今回は逆に原稿を依頼されて、いろいろと新鮮な経験をしました。

実際の作業内容としては、何時間か対象者の話を聞いた後に、それを読者に向けた1本の読み物にする、という意味でほとんどこれまでやってきたこと(とくにはscholaの座談会など)と同じようなものでもありましたが、新鮮だったのは編集さんとのやり取りなどですね。

普段の編集の仕事では、ベースとなる文章はライターさんに書いてもらって、ぼくの方ではそれを商品に仕上げていくような役割を担っていますが、自分がライターになる場合はその「元になる文章」を自分で書かなければいけないわけで(当たり前ですが)、これはなかなかのプレッシャーでした。

とはいえ、上にも書きましたが、インタビューの場合には「対象者から聞く話」というのがその「元になる文章」の役割を担う面もあります。

編集者の仕事が、執筆家による原稿を「加工」する仕事なのだとすれば、インタビュー記事を作るのもまた、対象者による話を原稿に「加工」する作業なのだと言うことはできるかなと。

そう考えてみると、いわゆる書き原稿(イチから文章を書いていく仕事)にしても、定められたテーマを「加工」する仕事なのだと言えなくもないかもしれないですが。

さて、そうは言っても、インタビューということはこちらからいろいろ聞いていく必要があるわけで、この辺の準備というか、どういう質問をしていくのか? といった辺りの作業はあまり経験がないので少し悩みました。

ちなみに、ぼくが以前にインタビューをした仕事といえば、commmonsからリリースされたフレットワークという古楽アンサンブルのCDをディレクションしたときに、ブックレットに載せるための坂本龍一さんのインタビューをしたことがあって、もしかするとそれぐらいだったかもしれません。

そしてその仕事もほとんど10年ぐらい前のことで、通常はあまりやらないことなので、質問を考えたり、原稿全体のテーマや流れを考えたりするというのは、どれもイチから手探りで立ち上げていく感じで、なんというか、粘土をこねながらあーでもない、こーでもないと物作りをするような感覚でもありました。

とはいえ、さらにしかし、そういった粘土工芸のような手探り的な物の作り方というのも、考えてみれば毎回テーマがガラリと変わるscholaの編集でいつもやっていることか・・と今書きながら思いましたが。

渡邉さんについて

・・などと、あまり詳しく制作過程について書いているといつまでも終わらないので、今回取材した渡邉さん&YCAMについて。

今回インタビューした渡邉朋也さんは、YCAM(ワイカム)という、山口県山口市にあるアートセンター(美術館みたいなもの)のスタッフであり、またコンピューターなどを使った現代美術の美術家です。

実際には、そんな説明ではちょっと伝わらないぐらい多才な方ですが、今回のためにぼくが作って渡邉さんに適宜直してもらったプロフィール文があるので、以下に転載しておきます。

渡邉朋也(わたなべ・ともや)
山口情報芸術センターYCAMアーキビスト、Webディレクター。多摩美術大学美術学部情報デザイン学科でメディア・アートの制作について学ぶ。卒業後は伊東豊雄建築設計事務所による同大学図書館のリニューアルに携わり、館内のオープンスペースなどの運営に従事。2010年、YCAMのスタッフに着任し、事業の記録物の制作、公式サイトの運営、広報のプロジェクト管理、委嘱作品の保存・修復などYCAMの事業全般に携わる。
個人としては在学中から美術活動を開始し、ベルリンで行われた『transmediale 2014』、仲條正義服部一成中村勇吾らと参加した『光るグラフィック展』(2014)、三菱地所アルティアム企画『みえないものとの対話』(2015)、アンスティチュ・フランセ企画『プレディクティブ・アートbot』(2017)など多数の企画展、個展で作品を発表。その他、書籍やWebメディアへの執筆、ITリテラシーの向上に関する講演など、多方面で活躍。タレントとして「オロナインH軟膏」のWeb CMシリーズ『さわる知リ100』(2015-2016)にも出演した。

前半がYCAM関連、後半がアート系の活動ですね。

最後に出てくるオロナインのCMシリーズというのはたとえば以下で、これはめっちゃ面白いのでぜひどうぞ。シリーズ全体オススメです。
http://shiri100.jp/page/079shiri100.jp

それから、文章もよく書かれていて、この連載も面白かったです。
http://fukuchinochi.com/pre/create/diy/201703_page1389.htmlfukuchinochi.com

公式サイトも紹介しておきます。
http://watanabetomoya.com/

渡邉さんは多摩美の情報デザイン学科卒とのことですが、ぼくもムサビ(の油絵学科)だったので、ベースにある思想というか、姿勢のようなものがちょっと近いかなという感じもあり、お話は非常に楽しく進めることができました。

写真を担当してくださったのは山口で活動されている谷康弘さんで、こちらも非常にノリが近くて仕事をしやすかったです。

当日は昼過ぎから館外の撮影をスタートして、その後に館内を渡邉さんに案内してもらいながら(贅沢!)いろいろお話を聞いて、最後に静かな部屋で大きなモニターを見ながらまたあれやこれやと喋っているうちに夜になってしまい、あとで録音データを見たら6時間48分回っていました。7時間!

時々、谷さんも交えて雑談タイムを挟んだり、休憩を入れたりしたせいもあるかもしれませんが、とはいえscholaの座談会でさえ長くて4時間半ぐらいだったと思うので、1回の仕事のための素材としては最長かもしれません。

これをどうやって原稿にまとめていったのか、といったことについては、また別途まとめたいと思っています。

YCAMについて

YCAMについての説明も、先の記事から引用してしまいましょう。

その頭文字を取って「YCAM(ワイカム/Yamaguchi Center for Arts and Media)」と呼ばれるこのアートセンターでは、2003年の開館以来、コンピュータやインターネットなどのメディア・テクノロジーを中心に、アート作品の制作・展示や演劇、舞踏、音楽ライブ、古今東西の話題作を厳選した映画上映、そして地域市民と共に作るワークショップなど、さまざまな文化事業が展開されています。
これまでにYCAMで制作を行ったアーティストは、坂本龍一、カールステン・ニコライ、池田亮司、三上晴子、真鍋大度など。また狂言師野村萬斎、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の岡田利規、コンテンポラリー・ダンサーの安藤洋子らも同地で独自の公演を行い、音楽分野ではU-zhaan鎮座DOPENESS環ROYによる実験的なライブや、人工知能のDJと人間のDJが曲をかけ合う「AIDJ vs HumanDJ」など、野心的なプロジェクトが次々と実現しています。

ということで、逆にワケわからなくなりそうですが、基本的には「芸術系のことをいろいろやってる」という感じでしょうか。

実際には、最近だとバイオテクノロジーに関わる研究&ワークショップをしたり、町のみんなと運動会をやったり、地域おこしのプロジェクトをしたりもしているので、ひと言で「芸術系」と言ってもいろいろこぼれ落ちてしまうものがあるのですが。

むしろどちらかと言うと、そういう体や人間同士のコミュニケーションを通じた活動の方が大事なのかな・・と書きながら悩み始めていますが。
とはいえ、「情報」や「文化」といったキーワードは共通してるかな・・

はい。で、そういったことを含めて、そのYCAMで渡邉さんが普段どんなことをしているのか? ということをいろいろお聞きしています。

今回の媒体は『GeekOut』という、ITエンジニア向けの転職支援サイトが運営するメディアなので、切り口としてはIT系、とくにはプログラミングやソフトウェアの活用に関わる視点が多いですが、綺麗な写真も交えつつそこそこコンパクトにまとまっていると思いますので、ご興味ありましたらぜひどうぞ。

https://geek-out.jp/column/entry/2018/06/21/110000geek-out.jp

2018年6月の音楽

前回の同シリーズは11月だった。

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そのときの収穫はなんと言ってもHOMESHAKEとSALES。これらは今でも愛聴しているのだけど、その後も面白い音楽にはたくさん出会っていて、とくにここ数日は「なんだこれ〜」というのに立て続けに遭遇したので忘れないうちに記録しておく。

The Internet

今回の目玉はこれ。

www.npr.org

The Internetという、これも前回のSALES同様、すげー名前つけるな! という感じなんだけど、とにかく曲もパフォーマンスもカッコよすぎ。

上のNPRのミニライブ、1日で5回ぐらい繰り返し見てしまった。いや〜・・まあ、とくに新味というか、新たな試みがなされているとかではないんだけど、でもだからどうした、というぐらい良すぎるので・・。

じつのところ、このバンド(というかユニット?)の曲は少し前からSpotifyでは聴いていて、そのときもTwitterで言及した程度には印象に残っていたのだけど、

なんかSpotifyで聴けるアルバムだと、やけにエコーがかかりまくって上のライブみたいな生き生きした感じが全然伝わってこなかったな・・という。同じ曲でも印象が全然違うというか、こっちのがいい。まったく想定外のカッコよさにほんと痺れた。

Noname

2つめに紹介するのは、上記のTwitterでも同時に言及しているNoname。こちらはとにかくアルバムが素晴らしい。

甘いバックトラック、音色にこの上なくマッチした歌、ラップ、声。たいへん素敵なアルバムで何周も聴いた。

Superorganism

あとは最近聴いた(というか見た)ものでブッ飛んだものといったらこれ。

www.youtube.com

めっちゃカッコイイ・・なにこれ。

一瞬で目が覚めるようなポップでトンガッた感じ。でもなんか・・懐かしい。と思ったら、これモーグ使ってるからか。なんだか90年代のバッファロー・ドーターとかチボ・マット的な、グランドロイヤル界隈を思い出すなあ、と思っていた。

ボーカルのOronoは日本人のようなのだけど、この人がまたむっちゃカッコイイ。(そればっかり)

ちなみに、彼らのアルバムをiPhoneSpotifyアプリで聴いていたら、普段ならアルバムジャケット(静止画)が出ているはずのところで動画が流れていて、めっちゃ驚いた。そんなことしてるミュージシャン、初めてだったので。

open.spotify.com

今後はビデオクリップもYouTubeとかまで見に行かなくても、サブスクリプションサービスの中で曲と一緒に見れるようになっていくのかなあ、と期待を持った。
(今のところ他のアーティストやアルバムではそういうのをしてるものを見たことはないけれど)

Cuco

まだある。次はこれ。

www.youtube.com

Cuco(クコ)という、チカーノ系ミュージシャン。この動画はバンド形態だけど、ソロ歌手みたい。

Spotifyで流れてきたこの曲で知った。すごいイイ。

open.spotify.com

日本ではまだあまり紹介されてないっぽいけど、検索するとインタビュー記事など時々出てくる。もう少し追いかけてみたい。

Rex Orange County

他にもいろいろあるんだけど、一旦次で最後。

www.youtube.com

めっちゃいい曲。時々むしょうに聴き返したくなる。

ちなみに、最初に挙げたThe Internetの動画だけはFacebookのニュースフィードで流れてきて知ったもので(そのミニライブは2015年のものだったみたい)、あとはSpotifyで芋づる式にリコメンドされたもの。

音楽サブスクリプションサービス、とかく料金体系や音楽ビジネスに関わる側面から語られがちだけど(それはそれで自然なことだけど)、ユーザー的に大きな影響があるのは、「このサービスがなければ知ることができなかったような音楽にどんどん出会える」ということじゃないか、と思える。

20世紀、ぼくが10代〜20代だったときには、そういう情報ってラジオや雑誌や音楽に詳しい友達からしか受け取れなかったし、そういう媒介者との縁が薄れてからは(たぶん30代に入ってから)、そういう情報が欲しければ自分から求めていくしかなく、しかしそんな時間も意欲もないものだから、結果的に「今を生きる人たちが作ったり演奏したりしている音楽」からはだいぶ遠ざかっていたなあ、と思う。

とはいえ、これも結果的にはたまたま、その新しい音楽から縁遠くなっていた時期にずっとscholaを作っていたことで、過去の様々な時代に様々な地域で様々な人によって作られた様々な音楽を知ることができたわけだけど、それはまた別の話。

上記以外にも「うひゃー、こんなの知らなかった。めっちゃいいやん」的な曲はいろいろあるんだけど、それはまた次の機会のあるときに。それまで淘汰されず残っていたものを紹介できればします。

水の話

「信頼」についてはこのブログをはじめあちこちで書いてきました。
ここで言う「信頼」は「信用」でもいいです。同じ意味で言っています。

よく「信頼を得るには長い時間が必要だが、失うのは一瞬だ」みたいなことを言うけれど、それは違うんじゃないか? というのがその(いつも言っている)内容です。

簡単に説明すれば、「一瞬で失うようなものは信頼とは言えず、思い込みと言うべきだろう」ということです。

これは相手が人ではない物だったら、わかりやすいと思います。

いつも使っているテレビのリモコンが効かなくなったら、「電池が切れたかな」と思うのが普通で、「今まで使えると思っていたけど初めから壊れていたのかもしれない」なんて思う人はいないでしょう。

しかし相手がリモコンではない人間になると、「今まで良い人だと思っていたのに、じつは信用できないやつだった!」みたいになりがちで、そのズレた現象自体魅力的ではありますが、いずれにしても客観的にとらえれば、それは「今まで良い人だと思っていた」というのが単に淡い根拠にもとづく思い込みだったということだろう、という話です。

つまり、ぼくにとっての「信頼」とはそのリモコンに対する感情や態度のようなもので、それは相手との関係が続いていく中で、自然に、結果的に、自分の意図とは関係なく生成されていくものです。

言い換えれば、他人に対する信頼というものは、自分が主体的にコントロールできるようなものではなく、否応なしに、積み上がったり、すり減ったりしていくものなんだろうと思っています。

つい最近、それは自分自身に対しても言えることなのではないか、とふと思い、もし「自信」というものが、「自分に対する信頼」と定義できるのだとしたら、「自信」もまた、自分で「自信を持とう」なんてわざわざ考えるまでもなく(というか考えてもそれとはまったく関係なく)、自分自身との1秒1秒の付き合いの積み重ねの中で勝手に醸成されていくものであって、言い換えれば、自信を持つとしても、失うとしても、結局は自分自身による事実としての日々の行為が決めることなのだろうと思いました。

以前にこのようなことをどこかに書いたのは、あるとき人から「私を信じてください」みたいなことを言われたときだったと記憶しています。

ぼくはその人のことを、信用しても、していなくもなかったと思いますが、それでもその「信じてください」という言い方、考え方には、わずかながらも確実に、ある種の反発を覚えました。
くだけて言えば、カチンと来たみたいな感じです。

くり返しになってしまいますが、ぼくは「信じる」というのは能動的に、意識的に行うことだとは思っていません。
それは否応なしに、つまり「テレビのリモコンというのはボタンを押せば当然テレビを遠隔操作できるものだ」と思うのと同様に、受け入れざるを得ない事実として、自覚するまでもなく受け入れているものなのだと思っています。

「ぼくはこのリモコンがテレビを遠隔操作できると信じよう」なんてわざわざ思っているわけではありません。

それに対して、「信じてください」とは、「これまでの私の過去の行為はすべて一旦ちゃらにして、今後はぜんぶ大丈夫だと思ってください」と言っているようなもので、まったく意味の違うことです。

それは実際には、「私に賭けてください」と言っているようなもので、だからもしそう言われたなら、実際に賭けるかどうかは別として、その人の言っていることを素直に、場合によっては誠実さすら感じながら、聞けたかもしれないと思います。

ぼくはこういった考え方を合理的で論理的であるように思っていますが、今の世の中ではあまりこういう「信じる」という言葉の使い方はしなさそうというか、むしろ「信じてください」「よしわかった」みたいなやり取りが古来変わらず行われているように思えます。

いずれは少なからぬ人がぼくのように考えるようになるのではないかと想像していますが(なぜならその方がいろいろ不利益が生じづらいと思えるので)、少しでも時計を早められたらと思って、何度めかのことではありますが書いておきました。

上記はまだ今回の話の前置きでした。

人が他人のことを「あいつは信頼できる」「できない」という風に判断したり、言ったりすることはよくありますが、どうもその辺の判断がちょっと極端なのではないか? と思うことがあって、それについて書いておこうと思ったのでした。

人が他人のことを「あいつは信頼できる」と言うのは、ぼくの印象では「100%信頼できる」の言い換えであることが少なくないように思えます。
また逆に、「あいつは信用できない」と言うのは「100%ダメだ」の言い換えになっているのではないか、と感じることが多いです。

しかし実際には、100%完璧な人間なんていませんし、100%ダメな人間というのもなかなかいないのではないかと思います。

これについて考えているときに、思い浮かべたのは水でした。

ビーカーに入っている水を思い浮かべてください。けっこう大きめのビーカーです。

そこには水が8割ほど入っています。透明な、水以外の何物でもない水です。ミネラルウォーターでもいいです。

そこに1滴、赤い水を垂らします。たとえばそうですね、トマトジュースでもいいです。スポイトで1滴だけ垂らします。

垂らしてすぐに撹拌すれば、そしてそれを入れたところを見られなければ、誰もそこにトマトジュースが入ったとはわからないでしょう。

しかし垂らしたところを見た人にとっては、その1滴は不可逆的な事実として映ります。

その人にとって、目の前の水はもう「100%の水」ではなく、「数%のトマトジュースが加わった水」であり、それが「100%の水」に戻ることは二度とありません。

上で書いた、「信頼」の基準がちょっと極端なのでは? というのは、その「数%のトマトジュース」が入っただけで「水として認めない」みたいな態度を指しています。

具体的に言えば、それまで普通に暮らしてきた人が、あるときちょっと信用を失うような行為をした、と。
そしてそれを見た人々が、その人の全人格・全人生が間違っているかのような、劣ったものであるかのような非難をする、みたいな状況です。

ぼくは必ずしも、そうした非難をする人たちのことを理解できないわけではありません。
むしろ、その気持ちはとてもよくわかります。

しかし、それをやってしまうと、非難される側はもちろんのこと、する側としてもちょっと生きづらいというか、他人との関係を持ちづらくなるように思えます。
周りからも、面倒くさい(あるいは「ちょっと怖い」)人だと思われてしまうかもしれません。

そして実際のところ、「純度100%の水」のような人というのは、どこにもいないか、恐ろしく限られた確率でしか存在しないのではないかと思います。

言い換えると、社会生活を送る上で出会う大半の人は、「数%のトマトジュース」どころか、見たこともないようなものがどろどろに混ざった液体で、あるのはそれがどのぐらい透きとおっているのかとか、どのぐらい飲めるのかという「度合い」の違いだけで、だから他人の信頼性について考えるとしたら、「100%信頼できるかどうか」ではなく、「あの人は30%ぐらい信頼できる」とか、「70%ぐらい信頼できる」とか、そういう割合で見ていくべきなんじゃないかと思います。

裏を返すと、ぼく自身もけっこう、自分で言いますが律儀というか、それが度を越してちょっと強迫的というか、他人との約束は100%守らなければ、と思いながら行動するようなタイプで、もちろんそれは尊い態度だと思うものの、そればかり重視しているとやっぱりデメリットもそれなりに生じてくるので、多少雑になっても、たとえば信頼度60%ぐらいでも、場合によっては20%ぐらいでも、大局的に見てさほど大きな影響が出ないならそれでもいいのではないかな、と思ったのでのちのちの自分のためにも書き留めておきました。

評価はつねに努力を下回る

以前から考えていたことで、しかしまだ文章にしたことがなかったな、と思ったのでメモしておきます。

この考えを持つようになった理由はいくつかありますが、その中でもとくに印象深いのは、美大受験の予備校に通っていたときの出来事でした。

その頃、ぼくはまだ高校3年生で、いわゆる「現役」というやつですが、ぼくはその年の春休みにその予備校に入ったばかりで、多くが高校2年以前から通っていた同級生の中では、後発組というか、出遅れたような感じがありました。

しかし元々絵を描くことに得意意識があったせいか、徐々に受験用の油絵の描き方にも慣れていき、6月を過ぎたあたりからは講評時に時々良いコメントをもらえるようになり、浪人生も同じコースに参加する夏期講習では、毎回数点だけ選ばれる優秀作に初めて選ばれたりもして、逆に同学年の生徒にはまだそこまで評価されている人が少なかったこともあり、その頃には(自分で言いますが)「あいつ、後から来たのになんか一気にトップグループに入ったな」みたいな雰囲気が生まれつつありました。

そしてその雰囲気がピークに達したのは、たしか夏期講習が終わってしばらくした頃、9月か10月だと思いますが、全学年コンクールみたいなものがあって、これは浪人生から高校2年生以下の非受験生までを含めた全員参加のコンクールで、この時に描いた絵が1位になりました。

今思えば、参加者はせいぜい50人ぐらいだったのかなとも思いますが、とはいえ、浪人生の中には普段はあまり出てこないような多浪生もいましたし、なにしろ大半はぼくよりも前からその予備校に通っていた人たちだったので、皆のいる前で結果が発表されたときの、体中の毛穴が逆立つような感覚はやはり特殊なものでした。

ぼくはその講評が行われた広いアトリエの、後方の真ん中ぐらい、全体を見渡せるような場所にぽつんと座っていましたが、講師が「今回の1番は、コレです」とぼくの作品を長い指し棒で指したとき、アトリエ中の人たちが、驚いたような顔でこちらを見るのがわかりました。
(実際には数人だったかもしれないですが、自分ではそう感じたということ)

上記のとおり、それはやはり稀な経験で、今でも時折その場面が頭によみがえることがあるぐらいですが、ただ同時に、そのときに頭の中にあったのは、その自分の絵を見ながら「あの箇所、やっぱりもうちょっと描けたな・・」という、作品の不備に対する無念な気持ちでした。

というのも、そのコンクールというのはたしか「1日描き」という方式で、朝から夕方までの6時間で1枚描かなければならなかったのですが、6時間の制限時間が終わって提出したときに、「ああ、まったく時間が足りなかった、途中で終わってしまった、失敗した!」と思っていたのでした。

また同時に、そのように評価されたり、皆に驚かれたりすることはもちろん嬉しく、痛快でもあった一方、頭の中には、「まあ、それだけのことはしたし・・」という、「評価されて当然」とか、「べつに驚くようなことではない」みたいな感覚もありました。

それは「1位になると思ってた」という意味ではなく(それまでの経緯や条件、確率などを考慮すればそんな風に思うわけがないので)、「評価されても不思議ではない程度には頑張った」ということであり、もっと言えば「その評価以上に頑張ったし・・」みたいな感覚でもありました。

言い換えると、そのときに自分で思っていたのは、「1位を取っても足りないぐらいの努力をした」ということで、これは何というか、自分で自分に教えられるわけですが、何かに取り組んだり、作ったりする上では大切なことではないかと思えます。

さて、この話にはまだ続きがあって、それから数ヶ月した頃、また同じようなコンクールがあり、そのときにぼくの頭にあったのは、上記の1位になったときの痛快な感覚で、あれを得るためにはどんな絵を描けばいいのか? ということでした。

そして提出する際、「悪くない、また行けるかも」と思っていましたが、実際には箸にも棒にもかからない、惨憺たる低評価を受けました。

もちろん当人としては、その時もそこまで直接的に、結果だけを露骨に求めていたわけではないと思いますが、今になって他人ごとのように眺めてみると、やはりその作品は、以前に1位を取ったときの二番煎じのような描き方で、しかもそれを何倍にも希釈したような弱い絵でもありました。

その低評価を受けたときの感想として、「ああ、評価されることを目的に描くと、評価されないんだな・・」と、うっすら感じたような記憶もありますが、実際にはその後もぼくの成績はなかなか不安定で、結果的には2浪を経て、ようやくムサビに引っかかったという次第でした。

上記の諸々の出来事から得られる教訓があるとすれば、それは「他人からの評価はつねに自分の努力に見合わない(下回る)」ということであり、またそのような「他人からの評価」を求めて何かを作ったなら、その時には「本来ならできたはずの努力ができない(力を発揮しきれない)」ということではないかと思います。

それまでに誰も見たことのないような、圧倒的な取り組みというものは、そもそも大半の他人には理解できないものだと考えた方が適切なのかもしれません。

誰かにわかるものを作ろうとすると、誰かにわかるようなものしか作れず、それは誰にとっても退屈なものになるのかもしれません。

基準とか、制限とか、「大体このぐらい」といった目安などのない、雲ひとつない空に向けてどこまでも一直線に突き抜けていくような、そういう取り組みこそが、それを何割か下回った「高い評価」に値するのかなと考えています。