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評価はつねに努力を下回る

以前から考えていたことで、しかしまだ文章にしたことがなかったな、と思ったのでメモしておきます。

この考えを持つようになった理由はいくつかありますが、その中でもとくに印象深いのは、美大受験の予備校に通っていたときの出来事でした。

その頃、ぼくはまだ高校3年生で、いわゆる「現役」というやつですが、ぼくはその年の春休みにその予備校に入ったばかりで、多くが高校2年以前から通っていた同級生の中では、後発組というか、出遅れたような感じがありました。

しかし元々絵を描くことに得意意識があったせいか、徐々に受験用の油絵の描き方にも慣れていき、6月を過ぎたあたりからは講評時に時々良いコメントをもらえるようになり、浪人生も同じコースに参加する夏期講習では、毎回数点だけ選ばれる優秀作に初めて選ばれたりもして、逆に同学年の生徒にはまだそこまで評価されている人が少なかったこともあり、その頃には(自分で言いますが)「あいつ、後から来たのになんか一気にトップグループに入ったな」みたいな雰囲気が生まれつつありました。

そしてその雰囲気がピークに達したのは、たしか夏期講習が終わってしばらくした頃、9月か10月だと思いますが、全学年コンクールみたいなものがあって、これは浪人生から高校2年生以下の非受験生までを含めた全員参加のコンクールで、この時に描いた絵が1位になりました。

今思えば、参加者はせいぜい50人ぐらいだったのかなとも思いますが、とはいえ、浪人生の中には普段はあまり出てこないような多浪生もいましたし、なにしろ大半はぼくよりも前からその予備校に通っていた人たちだったので、皆のいる前で結果が発表されたときの、体中の毛穴が逆立つような感覚はやはり特殊なものでした。

ぼくはその講評が行われた広いアトリエの、後方の真ん中ぐらい、全体を見渡せるような場所にぽつんと座っていましたが、講師が「今回の1番は、コレです」とぼくの作品を長い指し棒で指したとき、アトリエ中の人たちが、驚いたような顔でこちらを見るのがわかりました。
(実際には数人だったかもしれないですが、自分ではそう感じたということ)

上記のとおり、それはやはり稀な経験で、今でも時折その場面が頭によみがえることがあるぐらいですが、ただ同時に、そのときに頭の中にあったのは、その自分の絵を見ながら「あの箇所、やっぱりもうちょっと描けたな・・」という、作品の不備に対する無念な気持ちでした。

というのも、そのコンクールというのはたしか「1日描き」という方式で、朝から夕方までの6時間で1枚描かなければならなかったのですが、6時間の制限時間が終わって提出したときに、「ああ、まったく時間が足りなかった、途中で終わってしまった、失敗した!」と思っていたのでした。

また同時に、そのように評価されたり、皆に驚かれたりすることはもちろん嬉しく、痛快でもあった一方、頭の中には、「まあ、それだけのことはしたし・・」という、「評価されて当然」とか、「べつに驚くようなことではない」みたいな感覚もありました。

それは「1位になると思ってた」という意味ではなく(それまでの経緯や条件、確率などを考慮すればそんな風に思うわけがないので)、「評価されても不思議ではない程度には頑張った」ということであり、もっと言えば「その評価以上に頑張ったし・・」みたいな感覚でもありました。

言い換えると、そのときに自分で思っていたのは、「1位を取っても足りないぐらいの努力をした」ということで、これは何というか、自分で自分に教えられるわけですが、何かに取り組んだり、作ったりする上では大切なことではないかと思えます。

さて、この話にはまだ続きがあって、それから数ヶ月した頃、また同じようなコンクールがあり、そのときにぼくの頭にあったのは、上記の1位になったときの痛快な感覚で、あれを得るためにはどんな絵を描けばいいのか? ということでした。

そして提出する際、「悪くない、また行けるかも」と思っていましたが、実際には箸にも棒にもかからない、惨憺たる低評価を受けました。

もちろん当人としては、その時もそこまで直接的に、結果だけを露骨に求めていたわけではないと思いますが、今になって他人ごとのように眺めてみると、やはりその作品は、以前に1位を取ったときの二番煎じのような描き方で、しかもそれを何倍にも希釈したような弱い絵でもありました。

その低評価を受けたときの感想として、「ああ、評価されることを目的に描くと、評価されないんだな・・」と、うっすら感じたような記憶もありますが、実際にはその後もぼくの成績はなかなか不安定で、結果的には2浪を経て、ようやくムサビに引っかかったという次第でした。

上記の諸々の出来事から得られる教訓があるとすれば、それは「他人からの評価はつねに自分の努力に見合わない(下回る)」ということであり、またそのような「他人からの評価」を求めて何かを作ったなら、その時には「本来ならできたはずの努力ができない(力を発揮しきれない)」ということではないかと思います。

それまでに誰も見たことのないような、圧倒的な取り組みというものは、そもそも大半の他人には理解できないものだと考えた方が適切なのかもしれません。

誰かにわかるものを作ろうとすると、誰かにわかるようなものしか作れず、それは誰にとっても退屈なものになるのかもしれません。

基準とか、制限とか、「大体このぐらい」といった目安などのない、雲ひとつない空に向けてどこまでも一直線に突き抜けていくような、そういう取り組みこそが、それを何割か下回った「高い評価」に値するのかなと考えています。

写真家の言葉、プロフィール画像の変遷

写真家の言葉

  • 細かいことでいろいろと忙しい。大きな仕事ではないが切れ目なくタスクが続いていて息を抜けない。
  • 息を抜けない、と言いながら息抜きは意識的にしている。写真家の言葉を読む。
  • もう何年も前に買った2冊の本を休憩時間に読んでいる。以前だったらTwitterをあてどもなくスクロールし続けていたようなタイミングで、脱SNSを果たすためにも本に手を伸ばす。

  • 前者の「たまもの」はちょうど文庫化されたばかりのようだった。

  • ある種の写真を見ると、一気に身の回りの匂いや温度が塗り変わるような感じになる。音楽にもそういうところがあるが、稀だ。写真でも稀かもしれないけれど。
  • 「たまもの」をめくるたびに、そういう感覚に襲われる。あるいはそれは、この写真集を初めて眺めた頃の感じを思い出しているだけなのかもしれないが。
  • 金村さんの本にはとくに写真はないが、言葉がやはり詩的で、読んでいると「今」を忘れられる。「今」から離れられる表現になっているところが、この2冊に共通する点だ。
  • たしか以前に中島らもの本を読んでいたら(「頭の中が〜」だったか)、「詩は歴史に対して垂直に立つ」みたいなことを主人公が何度も言うのだけど(何度もではなかったかもしれないが)、そこで言う歴史とは人類が「今」に向かって歩んできた事実の連なりで、また自分個人が生まれてから「今」に至るまで歩んできた記憶であり、一方の詩はそれを切断するように、というかそれとは関係なく、というかそういう感じで存在している。そういうふうに、その中島らもの本を読みながら解釈していた。
  • お酒を飲んでも、タバコを吸っても、賭け事をやっても「今」から離れることはできるかもしれないが、そういうトリガーの一種としてこれらを読んでいる。
  • しかしそう考えると、今そういう状況なのだろうか自分、大丈夫だろうか、とも思ってしまうが。

プロフィール・アイコン

  • 少し前に家族に撮ってもらった写真がいい感じだったので、各種のWebサービスでアイコンに使っている写真をそれに順次変えている。
    • はてなは一昨日ぐらいに変えた。
  • これを機に、他人にはなんのメリットもないがこれまでのプロフィール写真をまとめてみた。

gyazo.com

  • 写真上の年数はあくまで目安。そのぐらいの頃から使っていた、あるいはそのぐらいの頃に撮った写真、という程度の意味。
  • アイコンの写真、顔を出すなら最近のものであるほど意味があると思っている。古いものだと、実際に他人と会ったときに驚かれるというか、少なくともそれで良い印象を持たれるということはないだろう、と。
    • だからといって「古い写真のままだと悪い印象をもたれる」と言いたいわけではなく、ただ最近のものに比べて利点がないということ。
  • プロフィールに自分の顔を出す利点については、@Nさんのブログで書かれていたのだけど、今検索したらもう見れないようだった。残念。
  • いずれにしても、そのように「アイコンに顔写真を使うなら最近のものほど良い」とは思いながらも、そもそも写真を撮られる機会がそうそうないので、結局古いものをずっと使わざるをえない状況が続いていた。
  • 上の写真のうち、2009年としているものは、2008年に出版された『大谷能生フランス革命』という本の刊行記念イベントみたいなものが渋谷で開かれて、そのときに友人の@yamatoさんに撮ってもらった写真からトリミングしたはず。
  • 同イベントについては今なおアップリンクのサイトで見ることができる。アップリンク、こういうところで底力を感じる。*1
  • その右隣の2014年としているものもイベントに出たときのもの。2013年のお盆に池袋ジュンク堂でやった以下のイベント。

www.youtube.com

  • この頃もずーっとプロフィール写真変えたいと思っていたのだけど、あまりにもナイのでこの動画からキャプチャしたのだった。
  • つまり何らかのイベントにでも出ないとアイコンが変わらない。
  • ということで、じつは今回も3月に登壇したYAPC::Okinawaで写真を撮ってもらっていたので、そちらが出てきたら変えようかと思っていたのだけど、その前に身内からいいものが出てきたのでそれにした。
  • とはいえ顔写真アイコン、あまりコロコロ変わっても、アイコンとしての利便性が落ちるとは思っている。基本的には他人に視認してもらうために使っているわけで、ひと目で「あ、あの人だ」とか思ってもらうことが目的なので、他人の頭の中で「存在」と「アイコン画像」が紐づく前に変わってしまうと目的を果たせない。
  • その意味では、これまでたまたま数年単位で変えてきたわけだけど、そのぐらいでちょうどいいのかもしれない。

*1:10年前のニュース記事を当時と変わらぬ(あるいはそれ以上の)見やすさ、アクセスのしやすさのまま見れるサイト、他にどれだけあるだろうか。

これまでとこれからのしばらく

  • 直近のschola宣伝記事を除くと、昨年末に書いたところから近況を書けていなかったのでざっくりと。
  • やはりブログ、複数人に対して同時にひとつの情報を流せるのが良いところ。

ここ最近のこと

  • 昨年末、「忙しくなってきたのでまたTwitter制限する」みたいなことを書いて終わっていたと思うけど、有言実行で年末年始もむっちゃ仕事して、schola17巻は予定どおりに入稿・校了できた。
    • 実際には予定より数日早く終わりそうだったのだけど、そのギリギリ直前でひとつミスに気づいて修正したらほぼ予定通り(期日の1日前だったか)になってしまった。
  • 一番大変だったのは大きなヤマが3〜4つぐらい、各会社さんの仕事始めとほぼ同時にドドドっとやってくるところだったんだけど、なかでも最初のヤマは一番緊張するところで、だからそれが何とか綺麗に終わった1/12頃から少し気がラクになって、Twitterを少しずつ再開した記憶がある。
  • 全体が無事に校了してからは2月半ばぐらいまでTwitterは薄く解禁しつつ、2/25の日商簿記検定2級のために1月終盤ぐらいからその勉強を再開して(2016年2月の検定が最後だったので、ちょうど2年のブランク)、たしか2月半ばぐらいからまたTwitter断ち。
  • 残念ながら検定はまたダメで、2015年、2016年の受験から数えたら3回落ちてしまった。
  • まあ、今回は当初の予定では様子見というか、6月に向けての練習ぐらいの予定だったんだけど、2月に入ったぐらいから急に気合が入ってきて、「そんな悠長なこと言ってる場合じゃない、うからなきゃ」とか思い始めていたのでやっぱり駄目だったのはキツかった。
  • ただし同時に、試験1週間前の模試が30点だったのに対して(その時点でまた何度めかの諦めを感じたけど)、本番では62点まで引き上げたので自信にはなった。
  • 次は合格ではなく満点を狙って臨みたい。
  • その簿記検定が終わってすぐに、YAPC::Okinawaでの登壇があった。
  • ブログにも少し記録をつけた。
  • 後者の方ではスクリーンキャストで発表内容を増補再現したりした。
  • エンジニア中心のカンファレンスで非エンジニアが40分めいっぱい喋るの、そうそうナイことだろう。
  • 「クオリティ低くても許してあげよう、素人なんだから」みたいに期待レベルを下げてもらわなくても楽しめる内容にしたいと思って、それなりに奮闘した。
  • 評判は、それなりに良かったと思う。聞いてくれた人が、前向き・肯定的に聞いてくれたおかげだとも思う。一人で出せる結果ではなかった。
  • そのYAPCについては、まだ書いてないネタがあるので次に時間できたら続きを書きたいが、その時間がやってこない。
    • 沖縄への出発前日、彼女にプレビュー公演したら鋭い指摘の数々をくらい、瀕死になりながらスライドを修正したという話もある。
    • 他にもいろいろなドラマがあった。地味で滋味なそれだけど。覚えているうちに残しておきたいのだけど。

これからしばらくのこと

  • 6月の簿記検定を受けると言った後にナンだけど、じつは4/15に行われる応用情報技術者試験もすでに申し込んである。
  • よってこれも受けに行くのだけど、過去問を少し見回って試してみた結果、ちょっと勝負にならなそう。
  • せっかく受験料を払ったのに欠席するのはもったいないので、行くのは行くんだけど、たぶん合格点近くまで行くにはだいぶ時間と集中力を使うことになるので、それだったらそのリソース、とりあえず簿記の方に使っておこう、と思っているところ。
    • 最初は「4/15までは応用に集中して、それが終わってから6/10の簿記に向けて勉強しても間に合うっしょ」ぐらいに思っていたけど、それってベストケースシナリオであって、趣味や遊びならそれでもいいわけだけど(つまり落ちてもいいなら)、確実にとっておきたいものがあるならそれに絞った方が確率は上がるよな〜・・と考え直した。
  • とはいえ、応用も午前午後150分ずつあるので、まったくわからないままだとツラそうだし、余力があれば、というか簿記の気分転換ぐらいに多少は準備しておきたいところだけど。
    • 一応、現時点での目標は「午前合格、午後は答案を埋める」という感じ。
  • その勉強もあるけれど、こまごまとした作業が並行していてなんだかやたらと忙しい。実体の感じられない忙しさ。でもどれも大切な作業。
  • そういえば、去年まで厄年だったらしい。去年の末ぐらいに家族から教えられて気がついた。
  • 厄年、結局前厄から後厄まで、見事に何もなかった。正直、ちょっと不安になっていたけど、そのちょっとの不安も不要だった。
  • 厄年とか厄除けとか、現代でもそこかしこで見られる強迫産業(人を不安におとしいれて金を巻き上げる商法)の先駆けでは、と思える。
  • マルチ商法とか詐欺とか、新たに生まれたそれは問題として取り上げられやすいけど、厄除けを売りにしている神社やお寺が糾弾されることは少ないだろう。不思議だ。
  • 昨年の後半頃から、Twitterを自粛するための代替物として、新書などの軽い趣きの本をよく読んでいる。
  • すると、けっこうな割合で「これ面白いな〜」と感心してしまう。
  • 何を読んでも面白く感じる、ということではなく、書店などでその本をピックアップする時点で成功しているのだと思うけど、そのつど、「これブログで紹介したいな」と思ったまま後回しにしてしまう。
  • 今年はそういうのをサラッとでも時々紹介できたらなと思っている。

commmons: schola vol.17「ロマン派音楽」本日発売

でました。

www.commmons.com

Amazonのリンクも貼っておきます。

commmons: schola vol.17 Ryuichi Sakamoto Selections: Romantic Music(2枚組)

commmons: schola vol.17 Ryuichi Sakamoto Selections: Romantic Music(2枚組)

前回の第16巻がおととし、2016年の年末でしたから、ついに(というか)1年以上の間が空いてしまいました。

そして気がつくと・・ってこれは本当に昨年末ぐらいにようやく気づきましたが、今年でscholaは10年目ですね。

第1巻は2008年の9月に発売されたと思いますが、本格的な制作は同年2月ぐらいからぼちぼち始まった気がするので(全部おぼろげな記憶だけで言ってますが)、制作開始から考えたらすでに10年を越えています。

関係各位はもとより、本シリーズにお付き合いくださっている読者・リスナーの方に心からの感謝とリスペクトを捧げます。

その10年目を記念する(わけでもないですが)今回の17巻では、ついに(というか)「ロマン派」を取り上げています。

ああ、ロマン派ね。・・ってなんだっけ? 😅

という感じですが(私だけですか)、そんな私でも選曲された曲を聴きながら感嘆したり、座談会での岡田さんの話に爆笑しながら編集したりするうちに、ロマン派なるほど、いいじゃん! と思うようになりました。

なにしろ今回は、ショパンとかシューベルトとかブラームスとか、あとはワーグナーとかマーラーとか、とにかくクラシック界のビッグネームが満載です。

満載すぎて、シリーズ初の2枚組!!

まあ、毎回とにかく1枚のCDに入れるための選曲がめっちゃ大変で、その大変さ対策で2枚になったようなものでしたが、それでも全然余裕はなかったですね・・。

とはいえ、2枚組になったおかげで長尺曲の収録も実現できました。
マーラーリヒャルト・シュトラウスチャイコフスキーワーグナーなどなど。

もし今回もCD1枚だったら、その辺りの曲については話だけ&推薦盤として紹介、などとして、CD自体には同様のエッセンスをもった短めの曲が入っていたかもしれないですね。
(というかそれしか方法がなさそう)
(それはそれで興味深い内容だったかもしれないですが)

しかしつくづく感心しますが、この時代の人たちは曲が長いですね〜・・。
リスナー的には、今どき1曲10分超の作品なんてそうそう聴けないですから(Godspeed You! Black Emperorぐらいか)、これらの曲に完全に付き合うだけでも新たな世界が見えてきそうです。

ということで(いきなりまとめ)、坂本さんが「ロマン派音楽」を選んで語る。というこの稀な機会にあって、とりあえず個人的には「もうこれ以上できません・・」と言えるぐらいまでは頑張りました。
ぜひお楽しみください。

www.commmons.com

手元にある見本ですが、今回は2枚組ということもあってむっちゃ分厚い。

前回の16巻の上に乗せてみました。

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かつてないガッシリ感です。

NOT TODO LIST

年内に終える予定だった業務が若干ながら&残念ながら年明けに持ち越しとなった。

今年(これを書いているのはまだ2017年なので2017年)の作業はこれまでになくスケジュール管理に労力を注いだせいか、今までに比べればおそらく最も順調な進行を実現したが、それでも理想どおりの100点とまではいかなかった。やはりどこかに甘えというか、おごりがあったのだろう。

積み残したタスクは年末年始に行う予定。幸いというか、一人でできる作業は少なくなく、というか一人でできる作業だけを持ち越しフォルダに入れておいたから必然的にそうなる。

年末年始は、だから休みという感じでは全然ない。会社などに勤めていたらまた少し違うのかもしれないが、ぼくの場合はオンとオフがあるのではなくて「赤いオン」か「青いオン」か、みたいなもので、「オン」の種類が違うだけという感じがする。

楽器奏者やスポーツ選手は年末年始にも練習を休まないだろうし、研究者は研究をしていない時間にも研究のことを考えているだろう。
それと同様に、こちらも作業を続けざるをえない。

考えてみると、協業各社が休みに入る12/29から、正月休みのひとまず最終日である1/4まで、ちょうど1週間しかない。
実際には、その後に3連休があるようだけど、とりあえず上記の積み残しタスクは1/5に提出予定なので、その宿題に投入できる期間はやはり1週間ということになる。
(さらに実際には、これを書いている時点ですでにそのうち2日以上が消化済みなわけだが)

その限られた期間に充分な成果を生み出すためには、何か大事なものを諦めなければならないだろう。

以前から、「やらないことリスト(NOT TODO LIST)」というものの意義や必要性を謳う話を目にしてきたが、ぼくにはその意味がよくわからなかった。

「やらないことリスト」というのは、ようは「やらなくてもいいこと」のリストなのだろうから、そんなもの、わざわざリスト化しなくたって、重要なことだけをどんどんやっていけばそれ以外のことは自然に優先度が落ちていくのではないか? と思っていた。

しかし最近になってようやく気づいたのだけど、「やらないことリスト」を提唱している人々が言いたいのは、たぶんそういうことではなかった。
「やらないことリスト」とは、「すごくやりたいけど、やらない(ことによって、より優先的なタスクを終わらせるための)リスト」だったのだ。

ということで、ぼくはその「やらないことリスト」の筆頭にTwitterを入れることにした。

しばらくは投稿も閲覧も、可能なかぎりやめておくことにしたい。

できればFacebookもアクセスせずにおくべきだろうが、そちらは公私に関わる連絡がいろいろ行き交うのでゼロにはできなそうだ。

Twitterはめちゃくちゃ面白いのだけど、やっていると時間がどんどん吸われていくから、時間捻出というただ一点において、やはり休まざるをえないだろう。

といっても、じつはTwitterに関しては、すでに今年(つまり2017年)の半ばから地道に離脱を試みていた。

その一番の理由は、10月に再受験をした基本情報技術者試験、そして夏頃から本格化した「commmons: schola」の最新巻の制作という、絶対に成功させなければならない二つの大きなタスクが重なってしまったことだった。

それで、とりあえず7月の半ば頃からだったか、Twitterへの投稿数をぐっと減らし、8月からは閲覧時間もかなり減らしたのだった。

その後、幸いにして(というべきだろう)基本情報の方には合格して、少し安堵したこともあり、Twitterの閲覧は徐々に解禁し、ただし投稿の方は1日につき多くても3本程度までに留めるようにしていた。

上述の、「今年の作業はこれまでになくスケジュール管理に労力を注いだ」という取り組みの中には、だからその「Twitter断ち」も含まれている。

ちなみに、Twitterの投稿数を減らすのは比較的簡単であったものの、閲覧時間を減らすというのはなかなか容易ではなかった。

投稿を減らすのが簡単というのは、普段から「こんなこと言ったら不快になる人もいるかもしれないな〜」と思ってやめておくとか、あるいは数年前からアルコールを口にしてから寝るまでの間には投稿しないとか、そういう自粛みたいなことを習慣的にやっていたからだと思っている。

逆に閲覧を減らすのが難しいというのは、上記のとおりぼくにとってはTwitterで流れてくるタイムラインというものがあまりにも面白いからで、それは子供が電車の窓から流れていく外の景色をずーーっと見てしまう、あの根源的な面白さに近いかもしれないが、とにかくその次々に起こる「いま初めて発生した現象」から目を離せなくなってしまう。

とはいえ、それをやっていると本当に無限に時間を奪われてしまうから、上記の試験勉強期間などはとくに禁止していたのだけど、時々(というか頻繁に)起こる禁断症状的な、ちょっと落ち着かない、「いま世間の他人はリアルタイムで何を考え、何を発言しているのか」ということが気になって仕方なくなってしまう感覚には閉口した。

で、これを収めるためにどうしていたのかというと、本を読んでいた。

本と言ってもKindleなどの電子書籍を含むそれであり、ジャンルは海外文学からSF、ミステリー、新書やハウツー本など様々に試したが、最終的には結局ハウツー系の新書やエッセイのような軽い内容に落ち着いた。

読書の目的は深い感動を得るとか、新しい知識を増やすとかいうことではなく、とりあえずTwitterその他のSNSから離れておく、そこにアクセスする道を遮断するということだったから、いくら軽い内容でも良かったのだが、それでも最初は「ん〜、読書はメンドイな」とか感じてしまい、なかなか集中できなかった。

Twitterと読書とを比べると、結局一番大きな違いは、前者の方が読みはじめてから「快楽」を受け取るまでの時間が後者に比べてずっと短いということだろう。

Twitterを見ていると、そのつど一瞬で何かフワ〜っとした「報酬」のようなものを受け取れてしまう。
しかし、そうやって一度に得られるその量はきわめて少ないから、かゆみを掻いてかえってかゆみが増してしまうように、一度触れはじめるとなかなかやめられなくなってしまう。

読書はそれに比べると(あくまで相対的にだが)、そうした「報酬」を受け取るまでにかかる時間が長いから、最初はじれったいというか、もどかしいというか、ストレスを感じるのだけど、それに慣れてくると、Twitterに比べてけっこうな量の「面白さ」が返ってくるので、だんだん「これでもいいか」という感じになってくる。

そんなふうにして、この7〜10月頃は徐々に体を慣らしながら、Twitterから(というかSNS全般から)離れるようにしていたのだった。

前置きが長くなったが(前置きのつもりだった)、そのような方法をもって、またこの年末年始(といってもあと4〜5日だが)もそこから離れなければならないな・・と自分に言い聞かせるためにこれを書いている。

その数日間の修行というか、合宿のような期間が終わり、おそらくはそのまま1月の間もしばらく制限を続けて、ほとぼりが冷めた頃にまたゆるやかに解禁できればと思っているが、それがいつになるかはまだわからない。

なお、Twitter宛のメンション(リプライ)は1日1回ぐらいメールで届くように設定してあるので、Twitter経由で何か連絡したい人はこれまでどおりTwitter経由で大丈夫です(たぶん)。