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2017年11月の音楽

ここ数ヶ月、よく聴いた音楽を記録しておく。

まずはアウスゲイルのLeyndarmál。なんと読むのかはわからないが・・。

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最初に知ってからしばらく経つけど、時々むしょうに聴きたくなる。見事な曲。

それからChet Fakerの1998。

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ふざけた名前だけど曲はすごい。何度も聴いた。

なつかしい感じ。大学のとき、こういうのが好きだった。
途中から入ってくるBanksという女性ボーカルも良い感じ。

同じChet Fakerのこれもいい。ブラックストリートのNo diggity のカバー。

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それから何と言っても、Homeshake。
この夏から秋にかけて、一番の衝撃を受けた。

曲はどれもいいんだけど、最初にビデオクリップを見てひっくり返ったのがこれ。

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で、「へえ・・」と思ってそのままいろいろ見たらこれも良かった。

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これも大学生っぽい。よくよく考えると、ぼくの好きな音楽っていうのはだいたい大学のときの趣味で止まってる。

同じくHomeshakeのGive it to me。
とくに9〜10月頃はずっと彼らのアルバム及びその関連アーティストをひたすらSpotifyで聴いていた。

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それから、たしかその関連アーティストという流れで知ったと思うのだけど、現在一番リピートしてるアーティストと言ったらこれかも。SALES。

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Spotifyでこれが入ってるアルバムをずっと聴いてる。すごい。超すごい。何これ。

ライブセッションもある。けっこう長い。

youtu.be

上のChet Fakerでひとつ紹介し忘れていた。このビデオクリップも面白い。

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最後に、NAO という人のDYWMという曲。

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これもSpotifyで知ったのかな。引き込まれる。

いずれも個人的には「今」の音楽という感じ。単に演者が若いだけかもしれないけれど。
しかしまあ、それでいいのか、という気もする。新しい様式である必要はない。
新しい人が音楽を作ればそれは今の音楽になり、そのうちのいくつかが結果的に新しい音楽になる、というだけのことかもしれない。

Fresh Air

Fresh Air

  • アーティスト:Homeshake
  • Captured Tracks Rec.
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In the Shower

In the Shower

  • アーティスト:Homeshake
  • Omnian Music Group
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1998

1998

  • Future Classic
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FOR ALL WE KNOW

FOR ALL WE KNOW

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In the Silence

In the Silence

  • アーティスト:Asgeir
  • Hostess Entertainmen
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話はどうしてズレるのか

前回の記事には、思いのほか反響があった。

note103.hatenablog.com

ここで言う「反響」とは、主にはてなブックマーク数とはてなスター数のことである。

これまでの記事でも、はてブが多くついたことは何度かあったが、今回のそれがいつもと少し違ったのは、第一にブックマークコメントに否定的・批判的なものが多かったことで、第二にはてなスターが普段よりずっと多かったということだ。
ようは、賛否両論ということか。

中でも印象深かったのは、どうも否定的な意見には、話の論点というか、前提というか、元々こちらが言おうとしていることに対して、じつはあまり関心がなさそうというか、簡単に言えば「ズレている」と思えるものが少なくないことだった。

別の言い方をすると、そこで起きている現象というのは、一見同じ対象について話しているようで、実際には別の何かを念頭に置きながら話している、といった状況である。

別々のことについて話しているのであれば、別々の意見が出てくるのはもっともなことである。

たとえばはてなブックマークというのは、特定の誰かが書いた記事を追いかけながらコメントするというより、ネットサーフィンのようにあちこち見回る中で自分の関心に近いものをブックマークし、興が乗ればコメントもする、みたいに使う人が多いだろう。

この際、元の記事を書いている側からすれば、自分の記事の方がメインというか、起点として存在していて、それに付いたコメントは派生的な、記事に従属する(記事がなければそもそも存在しない)ものだと考えるのが自然だろうが、コメントする側としては、まず自分の考え方や、自分なりの意見の示し方(スタイル)といったものの方が起点としてあって、その自分が取り上げるブログ記事などは、案外従属的な、交換可能な存在なのかもしれない。

仮にその「自分なりの考え方」の方が起点にあったとしても、読んだ記事に応じて、そこにある他者の視点というものを想像できるのであれば何も問題はないのだが、元々の自分の考えというものが揺るぎない(不変の)ものとしてあった場合、初めに「この記事はこんな内容だろう」と予感した内容と、実際に読み始めたときの印象との間に多少のズレを感じても、とくに気にせず読み続け、そのまま読み終え、さらにはその先入観とともにコメントを付ける、といったこともあるかもしれない。

それは喩えてみるなら、バナナジュースを好きな人が、黄色く着色されたリンゴジュースを見て、「お、バナナジュースだ」と思って飲み干した後、「なんか思ってた味と違うな」とは思っても、それがバナナジュースであること自体は疑わないようなものである。

冒頭で述べた、ぼくが「ズレてるな」と思ったコメントというのは、その「当初の先入観に変更を加えないまま読み終える人」によって付されたものではないか、と考えている。

とは言っても、これはそういう読み方をする人が悪いという話ではない。
はてブでコメントするなんていう行為は、誰も仕事としてやっているわけではなく、ようは趣味というか、遊びというか、暇つぶしに過ぎないのだから、他人を傷つける目的さえなければ、それはそれで良いと思う。

ただ、その読み方だと、筆者の意図を読み取ったり、記事の目的を共有したりすることは難しいかもしれないな、ということ。
それをするためには、読み手が記事の内容によって変化するかもしれないという、読者の可変性が求められると思う。

さてしかし、話のズレる経緯がそういうものだったとしても、そこから生じる問題というのはもう少し複雑で、たとえばちょっと困るのは、「お互いにズレていることに気づかない」場合である。

じつは前回の記事でも、ブログの方にひとつコメントがあって、それは微妙に(しかし確実に)本題からズレた関心に基づいた内容だったのだけど、その内容自体は興味を誘うものだったから、もしそのときにぼくがボーッとしていたら、あたかも「最初からその話をしていたかのように」返答していたかもしれないな、と思っている。

そういうことはよくあって、後から「あの話、最初の話とズレてたじゃん。なんでその時に気づかなかったんだろう」と思ったりするが、なぜそういうことが起きるのかと考えると、上記の例で言ったら、ぼくからすれば当然、ぼくの頭の中にある内容が「本題」なのだけど、コメントする人からすれば、その人の頭の中にある内容こそが「本題」というか、よもや自分が対象をズレて捉えているなどとは思ってもいない、ということが根本的な要因になっていると思える。

どちらも自分が正しく「本題(議論の対象)」を捉えていると思っているから、そこには必然的に「思い込み」同士の会話が生じるわけだけど、思い込む力が強い人の言いぶりを見ていると、「まあ、そうなのかな」という感じでつい引っ張られてしまう。

「筆者の意図からズレているのに筆者すらそっちに引っ張られてしまう」という状況は、それだけを聞くとまったく理に適っていないように思えるが、よくよく考えてみると、これはこれで避けがたいことのようにも思えてくる。

なぜなら、ぼくらは普段の生活において、いつも「他人」が「本当のこと」を言っているという前提で過ごしているからで、もちろんニュースなどを見れば、常に誰かが誰かを欺いているし、そこまで極端ではなくても、服屋では似合わない服を「似合う」と言って売りつけたりする日常もあるかもしれないが、それでも通常の対人関係においては、「相手は本当のことを言っている」という前提にしておいたほうがスムーズに過ごせる社会を生きている。

だからおそらく、「この人は自分を騙しているわけではない」と考えるクセが多くの人には身についていて、そこに真剣な面持ちでいろいろ意見を言われると、実際にはちょっとズレていたとしても、それ以上に真実味というか、信憑性というか、現実味のようなものが存在感を増してきて、元々の「本題」を、後から来たその「ちょっとズレた本題」の方が覆って上書きしてしまう、という感じになるのではないかと想像する。

まあ、中には、本心からそう思い込んでいるわけではなく、交渉術というか、現実歪曲空間のようなもので、意図的に話をズレさせてしまう人もいるかもしれないけど、そういう人はやはり例外的で、通常、そのように話がズレていることに気づかないまま議論を進めてしまうのは、

どちらも自分が正しく対象(本題)を捉えていると思っているから

ということになるのではないだろうか。

さて、それとは別に、そもそも「話がズレている」とはどういう状況なのか? という問題(というか個人的な関心)があるので、それについても書いておく。

ぼく自身はこれまで、「話がズレている」という状況は、たとえば論理演算を示す以下のベン図*1のように、お互いの話している対象が上下左右にズレて、重なったり重ならなかったりしているイメージを思い描いていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Relation1011.svg

しかしながら、前回の記事へのブックマークを見ながら頭に思い浮かべたのは、そういった「対象自体がズレている」状況ではなく、「対象は同一だが、焦点(ピント)がズレている」という状況だった。

ここでまたひとつ、その違いを示す喩え話を考えてみると、たとえばAさんがテレビで二階堂ふみを見て、「この人、宮崎あおいに似てるね」と言ったのに対して、Bさんが「いや、耳の形が全然違う」と言うような状況が近いかもしれない。

このとき、AさんもBさんも確かに二階堂ふみ宮崎あおいを見比べているのだが、フォーカスの当たっている部分というか、焦点の合っている場所というか、ズームの倍率がぜんぜん違う。

Aさんは顔の表情とか、骨格とか、見た目の第一印象とかについて論じているのだけど、Bさんが見ているのはそこではなくて、自分が関心を持っているディテールに集中して意見を述べている。

このときに重要なのは、Bさんの方もべつに誤ったことを言っているわけではない、ということである。
Aさんと同様にその二人の見た目について話しているし、述べられている情報にも間違いはないが(たぶん)、「そもそも何の話をしたいのか?」という目的や、「似ている」とはどういう意味か? といった定義や前提が異なっている。

これはあるいは、定規で引かれた直線をどんどん拡大していくと、線が力の加減で微妙に細くなったり太くなったりしているような場合に、それを遠目に見た人は「直線だ」と主張し、顕微鏡で見た人は「曲線だ」と主張するような違いにも近いかもしれない。

そのどちらも間違ったことは言っていないし、主張の対象も一致しているが、「だいたいどのあたりに焦点を絞って、どのぐらいの正確性にもとづいて話すのか」という精度の基準が異なっている。

このような行き違いが、上述の「自分こそが本題を扱っている」という主観とともに生じた場合、そのスレ違いはなかなか解消しづらいものになるのではないか、という気がしている。

さて、ここまでの話を踏まえて、ではどうすれば、そういったズレを避けながら話し合えるのかと考えてみると、結局のところ、それは「目的を共有する」ということに尽きるだろう。

逆に言えば、目的が共有されてさえいれば、意見が一致する必要すらないとも言える。
あなたの目的を達成するには、その方法は適していませんよ、その知識は間違っていますよ、こっちの方を知るべきですよ、みたいなリアクションは、意見の内容は異なっていても、意図や前提はズレておらず、同じ目的を達成するための考え合いになっている。

はてブでもTwitterでも、限られた文字数で言い切られた話(意見、エピソード、喩え話など)に対して、ほとんど喧嘩と言ってもいいような言い合いが行われていたりするけれど、どう見ても目的が一致していない、と思えることが少なくない。

一種のエクササイズとして、自らの気分を昂揚させるためにあえてやっているならそれも良いかもしれないが(いや良くないか)、そうでないなら、そもそも自分はどういう目的でそれをしているのか、と意識してみることが役に立つかもしれない、という気がする。

無償で仕事をしてはいけないという論理

優秀な人間が安い賃金で働くと相場が下がって周りの人が困る、みたいなことは以前からよく言われる。

「高い技術には高い報酬を要求しましょう」という意味だと考えれば真っ当な話ではあるし、技術力は高いが無知でもある人が損をしないようにと与える助言としては有効かもしれないが、それによく似た別の話なのではないか、と思った事例があったのでメモしておく。

比較的最近公開された以下の記事に対して、

cybozushiki.cybozu.co.jp

以下のようなブックマークコメントがついて、

f:id:note103:20171031094334p:plain

インタビューを受けた西尾さん自身や徳丸さんから以下のような回答もあったのだけど。

お二人の反論(というか)というのは、どちらも「いや、もらってますから」という内容なので、結局ブックマークコメントにあった「無償で仕事するな」という主張にはむしろ同意であって、その上で「誤読ですよ」と言ってるわけだけど、このやり取り(というか)を見て思ったのは、「んー、まあ、でも無償でやる人がいてもそれはその人の自由では?」ということだった。

そもそも、元の記事ではそのタイトルにもあるように、「相応の見返りがあれば、それがお金でなくても構わない」みたいなことを言っているのだから、回答するのであれば「今回のケースではたまたまお金出てるけど、自分が納得すればやっぱりもらいませんよ」でいいのではないだろうか。

しかし実際には「いや、お金出てますので・・(誤読ですよ)」みたいな反応になっていて、それだと結果的に記事の主旨(お金が出なくても自分に利益があればやる)とは反対の方に向かってしまうのでは、とも感じる。

まあ今回の場合、仮に西尾さんが金銭報酬を受け取っていなかったとしても、それで困る「他の方」がいるとはちょっと想像できないし、その意味で当のブックマークコメントというのは記事の作り手側とずいぶん前提がずれているようにも思えるので、本来であれば反応のしようがない話であるようにも思えるのだけど。
(前提がずれたまま反応するから変な回答になってしまう、ということ)

その上でもう少し続けると、冒頭にも書いたとおり、「優秀な人が安い賃金(または無報酬)で働くと相場が下がって周りが困る」というのはよく聞く話で、それが「搾取されている優秀な若者」に対するアドバイスとかなら意味はあると思えるが、「お前がそんなだとコッチが迷惑するんだよ」ということになると、ちょっと話がおかしくなってくる。

「周りが困るからそんなことをするな」と言ったところで世の中それを聞いてくれる人ばかりではないし、その頼みを聞いてくれない人が悪意を持っていようといまいと誰もその流れを止められない、ということもあるわけで。

かつて馬車を作っていた人たちは自動車が発明されて「そんなもの作られたらウチの商売が成り立たなくなるからやめてくれ」と思ったかもしれないけど、そんな願いが聞き届けられることはなかったし、ガラケーで商売していた人たちはdocomoまでもがiPhoneを売りはじめるとは思っていなかっただろうし、つまり「やめろ」と言ってやめてくれる人ばかりではなく、誰もが自分のことを一番に優先して生きている以上、それは自分にとっても相手にとっても息苦しい、出口のない要求という気もする。

どこかの誰かが、他のすべての人が困るとわかりきっているにもかかわらず自分の利益を最優先して「無償で良い仕事」をしはじめたとき、「悪いのは市場を荒らしたアイツであって自分ではない」と思いたくなるのは自然だし、そう言ってみるのも自由だが、それを聞いて誰かが助けてくれるとも限らない。

「君は本当はもっと多くの報酬をもらえるのに〈やりがい搾取〉されているよ」という忠告と、「俺が困るからお前はお前のやりたいようにやるな」という要求との間には、わかりづらいが確かな違いがあるのではないだろうか。

理想のチーム

特定の組織に所属するわけでもなく、フリーランスとして仕事をしていても、画家や小説家とも違うから、最初から最後まで自分一人でモノを作り上げるということはない。

仕事の現場には版元だったり、クライアントだったりという他者がいて、しかも多くの場合、その相手は複数人いるから、それは結局「チーム」ということになる。

様々なプロジェクトやチームに関わる中で、時々不思議に思うのは、一つひとつの作業はめちゃくちゃ早いのにチーム全体の生産性にはあまり貢献できてないような人がいたり、一人ひとりはさほど大したことをしているようには見えないのに終わってみればすごくスムーズに良いものができていたりすることで、このような違いの根本はどこにあるのかと考えると、それは結局メンバー全員が「言われなくても自分で考えてやる」かどうかという点にかかっているように思われる。

「この作業、お願いします」と渡すと、「ハイヨ!」とばかりに一瞬で仕上げて返してくれる、上記の前者のような人がいて、そんなときは「すげー!」と素朴に感激するわけだけど、その後にまたこちらから作業を振るまでピタッと音沙汰がなくなってしまうような感じだと、じつは周りの時間や集中力といった貴重なリソースがその人を軸に徐々に削られていく。

上記の後者、つまり誰か一人のスターが引っ張ってるわけでもないのに何となく全体がうまく回ってる状況、というのは、上に書いた「言われなくてもやる」人たちによって成り立っている。

誰かに指示をされなくても、「全体が目指している場所」と、「自分たちが現在いる場所」とを把握することで、その2点を結ぶ線上にある次の項目、つまり次にやるべきタスクをこれだろう、と見定められる人は誰かに言われなくてもどんどん作業を進めていく。

「言われなくてもやる人」は「何も言わずにやる人」ではないから、いつも自分が次に何をやるべきなのか考えて、わからなければすぐに聞く。

自分ひとりでわかっていることなんて限られたものに過ぎないから、本当に深く「次にやること」を考え始めたら、わからないことに突き当たる方が自然だ。

あるいは、その瞬間にやっていることに関してすら、やりながら事前には想定していなかった疑問が生じたりして、そういった時にも適切な判断をおこなうためには周りに聞くしかない。

だから、「言われなくてもやる人」はどちらかと言うとよくしゃべる。

黙々と仕事をするのは集中力が増して良い面もあるには違いないが、自分が何をしているのかを周りに知らせないまま進めるのは、じつはその都度の判断に自信がないからで、自分の間違いを周りから指摘されないために何も報告しなくなってしまうという印象がある。

「何も言わずにやる人」の間違いに気づくには、周りが自分の仕事の一部としてその人へアプローチするしかないから、本来周りの人が自分の仕事に向けるべきリソースを奪ってしまうことになる。

生産的なチームでは皆が自分の仕事の進捗を開示しているから、自然と皆の頭の中の情報が同期しているかもしれない。

「言われなくてもやる人」の質問はつねに「一旦自分で考えてみたけどそれでもわからなかったこと」だから、その頭の中にはすでに問題の前提が構築されているし、聞かれた側はそのわずかに抜けた穴を埋めるだけだから、時間をほとんど奪われない。

そのような、「言われなくてもやる」「自分で考えて動く」人たちによる仕事は、同じ方向へ皆で並走するラグビーのようなもので、一人ひとりが自分の役割を自覚しながら同時に作業を進めていくから効率が悪いはずがない。

・・などと言葉でいえば当たり前のようだが、そのような状況を実現することは、なぜか途方もなく難しいことであるような気がする。
掲題の「理想」というのはそういう意味でもある。

そういったことがなかなか実現しないのはなぜだろうか。
そこまでしなくても、ある程度の満足を得られてしまうのだろうか。
それとも、全体にとっての目的が明確に共有されていないのだろうか。

自分自身のことを考えると、ここで言う「理想」的な状況は時に出現する。
しかし、いつもそうなるというわけではない。

今のところ、法則は見出せない。どういう状況ならばそれが実現するのか、どうなるとそれが消え去るのか。

いや、本当は少しは思い当たるところもある。ああなればいいのだろう、こうやっては駄目なのだろう、と。
しかし、その必要な条件を揃えることがまた、ちょっと難しいのだ。

そのあたりの具体的な話については、また情報や経験が溜まったら書いてみたい。

アンガーマネジメント 〜 怒りの原理に関する感想

先日発行されたシノドス Vol.228 に掲載された「アンガーマネジメント」に関する記事は面白かった。

その前半部分は以下で読める。
synodos.jp

具体的なメソッドなどについて触れた後半部分を読むには、要購読。*1

α-synodos | SYNODOS -シノドス-

アンガーマネジメントについては、その言葉を耳にしたことぐらいはあったかもしれないが、まあよくあるライトなハウツーのたぐいだろう、程度の漠然とした印象しかなかった。

しかし、上記の記事はそれほど長くないにもかかわらず、インタビュー形式だったこともあってか、細かいニュアンスまでけっこう深く把握でき、自分でこれまで「怒り」という現象について考えていたことが裏付けられたような部分もあれば、今まで意識したこともなかった観点を教えてもらった、という部分もあった。

具体的な内容については本文を読んでほしいが、じつは一点、ちょっとわかりづらいというか、腑に落ちないというか、「そうかなあ」みたいに思ったところがあったので、その点をメモしておきたい。

気になったのは、以下の一文である。

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

これに似たことは、終盤のまとめのところでも繰り返しているので、

先ほども言ったように、私たちがイラっとするのは、自分の「べき」、つまり価値観が目の前で否定されている時です。

よほどこのメソッド(というか考え方というか)を教えていく上で重要なキーフレーズなのだろうと思える。

しかし、ぼくが違和感を覚えたのもそのフレーズで、果たして、ぼく自身が何かに怒りを感じたとき、その理由はぼくが「○○すべき」という価値観を目の前で否定されたときなのか? と想像してみると、ちょっとわかりづらい。

「そうではない」と言いたいのではなく、むしろ「たしかにそういうこと、多いかも」と思うのだけど、ただ「あなたが今怒っているのは、あなたが持っている『○○すべき』という価値観を目の前で否定されたからなんですよ」と言われても、本当にそれが「自分が怒った理由」と言えるのか? と考えると、説得力がない気がする、ということ。

じゃあ逆に、どう表現したら腑に落ちるのか? といったら、たぶん「自分に不利益が生じたとき」とでも言えば、「ああ、そりゃ怒るよね」とすんなり納得しそうな気はする。

ここで探している「表現」とは、「原理」のことである。

「原理」とは、いつ・どのような状況にあっても適用可能な、再現性のある表現ということだ。

自分自身を省みても、様々な状況、理由によって怒りを感じているはずだが、そのどの状況にあっても、「結局こういうことですよね」という共通項を取り出せるとしたら、それが「原理」ということになる。

で、自分が様々な状況で怒りを感じているとして、そのどれにも共通する要素は何か? といったときに、上記のような「価値観の否定」を提示されても、「んー、まあ、そうなのかもしれないけど、だから何だということ? どうしてそれが否定されたら怒りを感じるの?」という新たな疑問が湧いてしまう。

ここで求めている「原理」というのは、考え尽くした最後に出てくる考え方なので、それに対して新たな疑問が湧いてくることはない。新たな疑問が出てきたら、それは原理として考え尽くされていないことになる。

たしかに、現象としてはそうなのだろうと思う。人が怒りを感じたとき、その現象を描写すれば、「この人は自分の価値観を目の前で否定されたから怒っているのだ」と言えるかもしれないが、ぼくにはそれが「状況描写」にはなっていても、「理由の説明」にはなっていないように思える。

また、それが「描写」であるがゆえに、それを元に対策を立てることも難しい。そう言われても、ただ一言「そうですか」としか言いようがない。

一方、これがたとえば「自分に不利益が生じたと感じるから怒るのだ」ということならば、その視点を軸にして、「では本当に不利益をこうむったのか、あらためて考えてみましょう」という具合に、その怒りをしずめるための対策を立てることもできるかもしれない。

よって、「自分が信じてる『○○すべき』という価値観が目の前で裏切られたから」というのは「怒りの理由」の説明にはなっていないのではないか、としばらく思っていた。

ただ、その後も何度かそれについて考えてみるうちに、単純にそうとも言い切れないかな、と思うようになってきた。

というのも、たしかに様々な「怒りの現場」というものを想像してみると、そこにあらわれている現象は、単純に「その人が不利益をこうむったから」というより、「その人の価値観が目の前で否定されたから」と説明した方がフィットする場合が多いように思える。

より具体的に、誤解の余地がないように、「価値観」という言葉も使わずに言い換えてみるなら、それは「自分が理想とする社会(世界・環境)の実現を妨害されたとき」とでも言えるだろうか。

あるいは、さらに原理的な言い換えを試みるなら、「自分が理想とする社会」というのは、「自分がつねに快適に(快楽を享受しながら)過ごせる世界」とでも言えるだろうから、そうした状況を破壊する要素に対して、人は怒りをおぼえる、というふうにも言えるかもしれない。

しかしこのように書いてみると、これってまるで赤ちゃんである。
快適じゃないから怒る! って、赤ちゃんかよ、という……。

ともかく、このように考えるとやはり、先の

私たちが怒る理由というのは、ごく簡単に言えば自分が信じてる「○○すべき」という価値観が目の前で裏切られた瞬間なんです。

というフレーズは、「価値観」という表現がやや曖昧(未定義)に感じられるものの、充分に突き詰められた原理なのかもしれない、とも思えたということ。

それはそれとして、個人的にはやはり、その記事を読みながら、「ああ、なるほど。ぼくが怒りを感じるのは結局のところ、自分に不利益が生じたと感じたときなんだな」と思えたのは大きな収穫だった。

これはやはり原理と言えるもので、例外はすぐには浮かばない。

一見自分の不利益に見えることでも、回りまわって自分の利益になっているようなことなら怒らないかもしれないし、その逆も然りだろう。

また、上記の「自分の理想(価値観)が目の前で否定されたときに人は怒る」という話にしても、社会のいろいろなところで遭遇する怒りの現場をよく説明している。

世の中には、「そんなのは常識から外れてる(からダメだ)」などと、あたかも万人に共通する「常識」が自明に存在しているかのように、それを振りかざして怒っている人がいるが、それもまさに、自分が快適に暮らせる世界の構築を、その「常識外れ」な人によって妨害されていると感じて怒っているのかもしれない。

実際には、自分の理想とは相容れない生き方をする人なんて無限に近く存在し、そういう人たちがいても大抵の場合は自分の生活への影響などないわけだが、目に映るすべての人が「自分のいる世界」に多大な影響を与えうる、と思ってしまう傾向が、多かれ少なかれ人にはあるのかもしれない。

なお、上記の記事にも書いてあるが、アンガーマネジメントは、「怒るのをやめましょう」とか、「すべての怒りの感情は錯覚です」などと言ってるわけではない(らしい)。

そうではなくて、「本当に怒るべき事態なのかどうか、きちんと見定めましょう」とか、「なんでもかんでも怒るのはやめましょう」ぐらいのことを言っている(と思う)。

上では「人は自分に不利益が生じたと感じたときに怒るのだ」と言ってみたが、それは単なる思い込み(実際にはなんの不利益も生じていない)の場合もあれば、明らかに不当な搾取を受けている場合もあるかもしれない。

前者の場合は声を上げてもかえってトラブルが生じるだけだが、後者の場合にも黙っていれば、人生の少なからぬ期間にわたって不当な不利益をこうむり続ける羽目になるかもしれない。

その前者と後者との境界を見定める練習をしましょう、というのが、このアンガーマネジメントの主眼であるように思える。

ともあれ、これらの考え方はいろいろな「怒り」にまつわる現象を説明できており、何より自分がイラッとしたときに、「でもこれ、本当に自分に不利益を生じさせているのか? どんなふうに?」と考えることで、「あー、いや、とくに悪影響ないですね。いまカチンと来たの、ナシで」としずめやすくなった気がするので、それが一番ありがたい。

*1:本記事のような興味深い視点からの記事が月2回、かなりのボリュームで配信されて月540円とかなので関心が似ている人には勧められる。