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Evernoteにまつわる随想

今日は Evernote が料金プランを変える(値上げする)という話が少し話題になっていた。

blog.evernote.com

ぼくはEvernoteを無料プランで利用していて、かつブラウザからWeb版を使うだけなので、そもそもほとんど影響はないのだけど、金額の変化を見ても、それほど驚く内容ではなかった。

思ったほど強気というものでもなく、むしろ良心的かなと。

反発的な意見の中には、無料プランでできることに制限がかかるのが困る、というものがあるようだけど、個人的な感覚としては、これまで「無料でできる」と謳われていた内容が多すぎただけではないかと思っている。

さらに実際のところ、それら「できる」とされていたことの大半が「猛烈に重い挙動とともに」という条件付きのことだったりもして、もとよりあまりサービス自体に期待を持っていなかったとも言えるのだけど、この価格改定によって少しでも同社が潤い、それによってサービスが向上するなら、それは良いことではないかと思う。

ぼくとEvernoteの付き合いを振り返ると、おそらくサービス開始とほぼ同時に使いはじめて、当初はMacのクライアントも入れていたし、iPhoneの公式アプリやサードパーティの連携アプリも少なからず使っていたけど、今はそのどれも利用していない。

なにしろ公式のMacクライアントやiPhoneアプリは重すぎるし、これは以前から一貫して思っていることだが、結局のところEvernoteの印象をひとことで言えば、「情報を入れるのはラクだが出すのは困難」ということに尽きる。

サードパーティ製のアプリにしても、Evernoteに投稿する(入れる)ものは良くできたものが多いが、中身を検索したり読み出したりする(取り出す)もので良いものに当たったことがない。
これはそれらのアプリ自体の問題だったのかもしれないが、そもそもの公式アプリもけっして快適とは言えない動作だったので、サードパーティの開発者を責める気にもなれなかった。

一方、WebページのクリッパーとしてのEvernoteは良いもので、ブラウザの拡張機能を使ってページを保存しておきたい、という場合には今もよく使用している。

また、ブラウザ体験の補助というか、拡張のような方向で、少し前まで Evernote Clearly というサービスがそのクリッピング機能とうまく相互補完していると思っていたのだけど、それもいつのまにか無くなってしまい、果たして Evernote は自社ツールの魅力をどの程度理解しているのか……という気にもなった。

いずれにしても、ぼくはEvernoteをよくできたWebページクリッパー、言い換えれば「ソーシャルではないブックマークサービス」として使っているので、これほど手軽に、かつ綺麗にページを切り取ってくれるものは他にないとしても、代替となるサービスがないわけでもないから、無くなってもとくに困ることはない。

しかし、これをエディタとして使っている人からすると、上述の重さや、料金プランの改定はそれなりに影響するところだろう。

それで思ったのだが、なぜ自分がEvernoteをさほど頻用していないのかと考えると、「エディタ(メモ帳)として使っていないから」かもしれない。
あくまでブックマークがわりに使っていて、思考を整理するとか、誰かに情報を公開するとか、そういった日常的な用途ではない点がヘビーユーザーとの大きな違いかもしれない。

ぼくは普段、非公開のメモやテキストデータなどはMacでテキストファイルに書いて、ストレージサービスに保存している。
バイル環境で文書を作ることはほとんどないので、それでほとんど問題ない。

まれにモバイル環境で何かメモしておきたい、という場合には、プライベートのチャットルームにコメントしておいて、あとでテキストファイルにコピーするか、大した内容でなければそのまま放っておく。
(メールを自分に送ったり、メールの下書きで同様のことをする人もいるようだが、誤送信が怖くてできない)

くり返しになるが、Evernoteの本質的な問題は、ぼくにとっては「保存した内容を取り出せない」ということに尽きる。だから、ほとんど使(え|わ)ない。

そしてそのような用途で何らかのWebサービスを使うのであれば、GoogleドライブやDropboxのようなストレージサービスを使うのがいいのではないかと思っている。

Googleドライブにおける文書ツール、つまりGoogleドキュメントもけっして書きやすいものではないのだけど、それでも様々な環境からメモをとりたい、という使い道には対応できるだろうし、ひとまずコンピューターであれモバイルであれ、そのほうが一度入れた情報を(Evernoteに比べて)取り出しやすい印象がある。

あるいは、メモをとるツールに妥協したくない(Googleドキュメントでは満足できない)ような人でも、「テキスト保存」と「それ以外のデータ保存」とを別サービスに分けて、後者を上記のようなストレージサービスに移すという手はあると思う。

これは何も、脱Evernote を勧める意図で言っていることではない。ただ、自分が使っていた頃のことを思うと、何かひとつアクションをするたびに「………………」とその動作を待つ時間が発生し、あのまま使い続けていたら自分の人生のうちのどれほどが、「Evernote のレスポンスを待つこと」に費やされていただろう、と思ってしまうので、そのレスポンスを待たないという選択肢もあるよ、と言いたいだけ。

Evernote はもともと、「第2の脳」を謳うサービスなわけで、ユーザーがどんどんデータを放り込むことは大前提であるはずが、そのデータを入れるほど重くなる=使いづらくなる、というのはアイデンティティに関わる本質的な不備ではないだろうか。

個人的には、リマインダーとかノートブックへのショートカットのような泥縄的な追加機能にリソースを割くのではなく、その本質的な問題(挙動の速度)を徹底的に改善すべきではないかと思っている。

ところで、上で

「テキスト保存」と「それ以外のデータ保存」とを別サービスに分けて、後者を上記のようなストレージサービスに移すという手はあると思う。

と書いたが、では前者のテキスト保存に適したサービスはどうすればいいのかというと、これがけっこう不思議なことに、世の中にはあまり「プライベートなメモを預ける」ためのWebサービスというのがないように思える。

古株としては Simplenote、比較的最近では Day One があるようで、その他だと以前にこのブログでも紹介した wri.pe は良いものだと思うが、これという決定版、スタンダードと言えるものはない。

個人的には、はてなブログやQiita がそれらの機能を援用する感じで、そういったものを提供できそうな気もするが、まあ、ビジネスになるかといえば微妙なのかもしれない。

ちなみに、最近だと esa.io の名前もよく聞くが、これはそれこそ収益に目を配ってのことか、基本的には有料のようで、それ自体は構わないのだけど、このサービスは他者との共同作業をある程度前提にしているもののようだから、協業に必須の機能などは有料版に含めるとして、個人用途なら無料でもある程度充分に使える。みたいになっているとユーザー層が広がりそう、という気もしている。

Evernote が無料ユーザーにできることを制限する、というその方針に否定的な感想はなく、むしろ共感する。
広告などに頼らず、プロダクト自体への課金を通して成り立っていこうとする姿勢は健全だとも思う。

上で書いたような感想が、少しでもプロダクトの改善につながり、有償ユーザーの体験を向上させることにつながれば嬉しいのだけど。

選挙を前に(2)

前回はどちらかと言うと自民党寄りの判断になるかなあ、ということを書いたのだけど、

選挙を前に - 103

その後に少し考えの変わった部分があるので続けて書いておきたい。

野党が掲げる、「こうあるべき」という非現実的・理想主義的な態度には期待を持てないままだし、与党が進めている現実的な社会の改善を評価する気持ちもとくには変わらないのだけど、イギリスのEU離脱とその後のあり方などを見ていると、これは前回の後半に書いたことともつながるのだけど、やはり右翼的傾向の加速というのが「怖い」と思う。

憲法改正の議論に関係することもそうだが、単純に「日本人は日本人である点において他民族より優位」的な根拠のない考えを少しでも肯定しているように見える結果になってはいけないし、あるいは政府に対して批判的な意見を持つことすら許せないという、日本会議的な圧力のあり方を肯定しうる結果も望まない。

よって結果的には、また野党側寄りの投票になるのかなあ、と考えているところ。

選挙を前に(1)

参院選がだいぶ近づいてきて、最寄の掲示板にも候補者のポスターが揃ってきた。

ぼくはこれまで、記憶にあるかぎり自民・公明以外の党に投票し続けてきたが、今回は自民党寄りの検討になりそうだなあ、と考えている。

選挙区のほうは人によって(主張の内容によって)検討するから、一概に何党とは言えないが、比例区に関してはやはり党名で考えることになる。

自民党に対するネガティブなイメージとしては、やはり安保法制の暴力的な進め方に尽きるだろう。
また、憲法改正にかかわる議論の最中に出てきた、「働かざるもの食うべからず」的な、職のない人を人として見ないような差別的態度があることも無視できない。

ついでに言うと、安倍首相の野党議員に対する答弁に見られる、攻撃的な様子にもまったく好感を持てない。

しかし一方で、自民・公明党政権になって以降、社会がまともに機能している雰囲気もけっこうあると感じる。

もちろん解決すべき問題はまだまだ山積みだが、それでも地味な取り組みが一つ一つ進んでいるような感覚がある。

何より、今回の18歳選挙権の実現には驚いた。自民党などはむしろ、以前から「高齢者層の支持に支えられている」と言われてきたわけで、その論理で言えば、若者の票数を増やすということは自分たちの首を絞めるようなものだろう。

これを肯定的に評価する声があまり聞かれないことは不思議だが、個人的には現与党の実行力と革新性を象徴する出来事だと感じている。

一方の野党側について、民進党が生まれたときには、「おお、これはアメリカにおける民主党のような、革新的で現実的な希望を訴える党になるかな」と素朴に期待したものだったけど、どうもそういう感じでもない。

政権をいつでも代わりに担えるほどの強力な野党があれば心強いし、それを期待しているが、今の民進党の主張というのは与党がいかに駄目か、という話がほとんどで、代わりにどうしたいのか、ということがわかりづらい。

これまで独裁的とも言えるほど長期間にわたって政権を担当してきた自民党と同等のことを、民進党がすぐにやれると思っているわけではないし、そうなるにはそれだけ長期にわたって政権を担っていく必要があるだろうから、個人的に民進党に求めるのは「建設的な提案」であり、簡単に言えば「夢」を見せてほしい。

しかし実際にはそういうことではなく、「ほら、あっちは駄目でしょう」と言っているだけのように思われ、「まあ、たしかに駄目かもしれないけど、他に選択肢がないような……」という感じになっている。

また個人的には、少し前に舛添氏を攻撃し続けた議員が民進党などの野党中心であったことも支持しづらい理由になっている。

舛添氏はたしかに褒められないことをしたが、かといってまた50億円もかけて選挙をし直さなければならないほどの過失とは思えなかった。

しかし都議会で行われたのは、他の煮詰めるべき議論を脇に置いて舛添氏を追い込むことばかりで、この人々の目的は一体なんなのか? と絶望的な気持ちになった。

だからと言って与党なら期待できるという話にはならないが、少なくともそうした野党に対して期待を持てなくなった、という話。

ぼくは政治家を馬鹿にする気持ちを、少なくとも前提的には持っていない。

上記のように絶望的な気分を味わうこともあるが、それはそれだけの理由があってのことで、初めから政治家は駄目だと考えているわけではない。

むしろこんなに責任が重く、日々ハードに取り組まなければならない仕事を自らやろうとしている人々を尊敬しているし、できれば社会全体がそのように、「政治家を尊敬する」ことを前提にしてほしいとも思う。

しかし周りを見渡せば、どうも「政治家」といえば「悪い人」みたいな、「ラクをして金儲けをしている人」みたいな見方が蔓延しているようで、これでは有能な若者が「将来、政治家になろう!」とは到底思えないし、そうなれば政治家になるのはよほどの変わり者か、それほど能力のない人々になってしまう。

社会を変えるには、「政治家はわるいひと」みたいな単純な思い込みから離れ、誰が何をしたから悪いのか、誰がどんな有意義なことをしたのか、一つ一つ吟味し、評価していくことが必要だと感じる。

政治家とは特定の領域に関する専門職であって、その政治家が扱う対象には我々国民も含まれるのだから、我々が適切なフィードバックをして、政治家を育てながら、ともに社会を作っていく必要があると思う。

上で、民進党などには「夢」を見せてほしいと書いたが、以前の民主党政権における鳩山・菅・野田内閣には、それをやろうとする感じがあった。

結果的には震災などもあり、充分な土台ができる前に終わってしまったが、もっと実力を蓄えられるだけの期間、政権を担当していれば、やがて退くとしてもその経験が日本の政治全体を強くしたのではないかと思わずにいられない。
しかし実際には、民主党政権を生み出したはずの有権者の多くが早々に見切りをつけてしまい、最も得るものが少ない交代の仕方だったのではないかと感じている。

議会そっちのけで舛添氏の糾弾に走った人々を残念に思った、と書いたが、もう一つ印象的な出来事で、以前におおさか維新の議員が、憲法改正の議論の中で自民党に協力する、という旨の話をしながら、その理由として「政治家の一番の目的は後世に名前を残すことだから」と言っていたので驚いた。

政治家の目的は社会を良くすることであって、自分の名前を残すことだとは思っていなかった。

歴史に名を残すことは目的ではなく結果であり、それが目的になると「手段は問わない」ことになってしまうと思うのだが……。

これについては、残念を通り越して「怖い」と思った。
そしてそのような政党と協力する与党もまた「怖い」わけで、なかなか結論は出しづらい。

今回は原発も消費税も争点にはなりづらいと感じる。
あえて言えば、経済ということになるだろうが(我々はより豊かに、食べるものや住むところに不自由せずに暮らしていけるか? みたいな)、それにしても、どうも曖昧に感じられる。
結局のところ、この「人」や「党」に自分たちの未来を託せるか、つまりその人たちと一緒に未来を作っていきたいか、ということを考えることになるだろうか。

その際には、それらの人や党がどの程度専門的な知識や実績を持っているのか、つまり具体的な将来性を持っているのか、ということを吟味することになるだろう。

ぼくは政治家はべつに「いい人」じゃなくてもいいと思っている。それよりも国民を高い確率で豊かにし、外国とも円滑な関係を作っていける専門家集団を求めている。

もう「戦いのための戦い」のような不毛な議論で貴重な人生を費やしたくない。
我々全員の幸福を目指せるような、意味のある検討を行いたいし、行ってほしい。

続編。
note103.hatenablog.com

auからかかってくるフリーダイヤルの勧誘電話(固定電話→出なければ数秒後に携帯へ)

2011年の震災から少し経った頃、それまで使っていたiPhone/ソフトバンクの契約を解除して、それから1年半ほど携帯のない生活をしていたが、iPhone5が発売されたタイミングで再びiPhoneを購入した。
この時には新たなキャリアを試してみたくてauにした。

しかしその後、フリーダイヤルから家の固定電話に、それまではなかった勧誘の電話がくり返しかかってくるようになった。
うちはナンバーディスプレイにしているから、フリーダイヤルだとわかればまず出ない。ほぼ100%勧誘だからであり、もしそうでなくても留守電に切り替わるので、そこで用件を入れることができる。

その勧誘電話には奇妙な特徴があり、まず固定電話のほうに出ないでいると、留守電に切り替わるのと同時に切れてしまう。そしてその数秒後に同じ番号からiPhoneへかかってくる。
この「数秒後に」(あるいは「直後に」)という点が非常に変わっていると感じる。そのようなことをしてくる相手が他にないので、いやでも印象に残る。
さらには、向こうとしてもとくにそれをマズイとも隠したいとも思っていないのか、毎回同じ番号からかかってくる。それがまた奇妙だ。

その番号で検索すると、どうもauの回線の勧誘らしい。先に固定電話にかかってきて、留守電には吹き込まず、切れてから数秒後に携帯へかかってくるという方法も同じなので、同じ相手であることは間違いないだろう。

auがそうした勧誘をどう認識しているのかは知らないが、迷惑である。それに(というかそれ以上に)、気味が悪い。
そもそも、その業者に対してはもちろん、auに対しても自分の携帯電話の番号をそのような勧誘に使ってよいとは許可していない。

初めのうちは、そのような現象が物珍しくも感じられ、「変わったことをするものだな」と傍観していたが、あまりにも無邪気にくり返されるので、常識的な対応として今は着信拒否にしている。

これまでに何度か、携帯にかかってきたときに「試しに出て、何と言うか聞いてみようか」と思ったこともあったが、そのつど「こんな異常なことをしてくる人や会社と関わって、良いことがあるはずがない」とか、「少なくとも相手はこちらを自分と同じ人間だとは思っていないだろうから、話したところで自分が傷つくだけだろう」とか思い直し、結局話したことはない。

これからも関わらずに済めば良いと思うし、auからも遠からず離れたい。

『浅草オペラ100年と二村定一リスペクト・ショー』に行ってきた

もう一週間前になってしまいますが、5/8(日)に両国で行われた以下のイベントに行ってきました。
d.hatena.ne.jp

二村定一。名前ぐらいは聞いたことがありましたが、ほとんどその実態は知らず、イメージ的には東海林太郎みたいな感じかとぼんやり思っていましたが、いやあ、全然ちゃいました。

べつにどちらのほうが良いとかではなく、しかし言えるのは、二村さんってむっちゃ現代的。それはモダン……というより、ほんとに普通に「現代的」というか、その辺を歩いてる兄ちゃんみたいな……ほらあの人、松山ケンイチ? みたいだなあ、って。
基本的には軽い明るい雰囲気なんだけど、でも本当のところは何を考えてるのかちょっとわからないような不穏さもあって……という、そういう今っぽさを感じました。

で、そのイベント、後半では二村定一がメイン的に出てくるのですが、それを踏まえる大事な前提というか、当時への想像力を高める話として、イベント前半では浅草オペラの話をこれでもか! というぐらい濃厚に聞かせてもらいました。

ある意味、その浅草オペラの部分だけでも充分イベントになるのでは(笑)というぐらいの濃密さ。

そしてこのコーナーのメイン的な解説者が、1987年生まれの気鋭の研究者・小針侑起(こばり・ゆうき)さん。もう凄まじいしつこさと愛情の奔流で新著をものにされています。

あゝ浅草オペラ: 写真でたどる魅惑の「インチキ」歌劇

あゝ浅草オペラ: 写真でたどる魅惑の「インチキ」歌劇

正式には明日発売? のようですが、会場で先行販売されていたので、ぼくも購入してサインしてもらいました。で、そのまま会場でパラパラめくりながら、とにかく写真がすごいなあ〜と思っていましたが、その後のトークによれば、それら図版はすべて一次情報。つまりどこかで使われていたものの転載とかではなく、ご本人があちこち探して回ったものらしいですね。

いやあ……ぼくもscholaで図版や音源の許諾作業、ほんとに大変な思いをしているので、それを聞きながら「ふえ〜」と感嘆しました。それはすごい。体力がないとできないですね……敬服します。
まだまだネタはおありでしょうから、2冊め、3冊め、どんどん世に出して頂きたいです。

今回のイベントは第1部のトーク、第2部の映像&ライブ(実演)という構成でしたが、実際には第2部が「映像コーナー」と「ライブ」に分かれた全3部構成、みたいな感じだったでしょうか。

じつはというか、ぼくは今回のイベント、2日前ぐらいまで知らなくて、たまたまTwitterでフォローしています和田尚久さんが以下をRTされていて、それで知ったという。


さらにというか、普段だったらこういう情報を見てもそのまま見過ごしていたかもしれないのだけど、ちょうど今関わっている(上でもちらっと言った)schola(スコラ)という坂本龍一さんの音楽全集の編集仕事でも、そのうちこの辺りの時代に触りそうだな……という感じがあって、二村定一とか、エノケンとかを調べつつあったところだったので「お〜、これはすごいグッド・タイミング!」と思って急遽行くことにしたという。

で、そういう経緯だったので知らなかったのだけど、このイベントって大谷能生さんがかなり関わっていて。
って、初めてこのブログを読む人は当然知らないと思うのですが、ぼくは8年ぐらい前に大谷さんとこういった本を共著で出していまして。

大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命

なので、あ、大谷さんも出るんだ! と後から知って驚きましたね……しかもというか、会場に行ってみたら上記以外にも知り合いに3名ほどお会いしましたし……いったいどんなイベントなのか。

しかし大谷さん、トークを見てもライブの進行を見ても、その本を出した頃から本当に変わらない……フランス革命(同書のもとになったイベント)を見ているのかと思うぐらい当時の雰囲気が思い返され、もちろん変化したところもたくさんあるのでしょうけど、お客さんの立場から大谷さんのイベント見るの久しぶりだったので(何年か前に松本亀吉さんのロフトプラスワンでのイベントを見たとき以来?)ぐぐっと時間旅行したような感覚すらありましたね……ある意味新鮮。

ライブと言えば、青木研さんのバンジョー、すごかったです。正直、バンジョーってぼくのイメージでは、ウクレレとギターの中間ぐらいの音の楽器? みたいなあまりにも雑な認識で、個性はあるけどどんな役割なのかわからん……という感じだったのですが、そんなぼんやりした印象が一気に塗り変えられました。

とにかくすごい存在感。それは青木さん自身の役割の大きさのせいでもあったかもしれないですが、どちらかというとギターよりベースに近いような、バンド全体の方向を決めるような重要な位置にありましたね。

それから、同じく演奏チームの渡邊恭一とザ・スインガーズ。ライブコーナーの後半で、同バンドのみで「Lover, Come Back to Me」をやったのですが、とても良かった〜。ピアノのソロなんて超カッコよかったです。

歌い手の山田参助さんは漫画家でもあって、というかぼくは漫画のほうで先に知っていたので、「うわ、歌も本格的だな……」とそっちのほうで驚きました。
漫画の方は知人が以前にFacebookで話題にしているのを見て知ったのですが、絵がとにかくカッコよくて。エゴン・シーレみたいなカッチリした線と色、というか……非常に好きな感じなのですが。

なので余計、歌のほうは趣味が高じて、という感じかと勝手に思ってしまっていましたが、全体に完成度の高いパフォーマンスで、リラックスして楽しめました。

第1部のトーク、第2部の映像コーナーも大変な充実度で、これもそれぞれに楽しみました。

第1部のみご登場の片岡一郎さんはほんとに喋りのプロ、という感じで、安心して聞いていられる感じがありましたね。その意味でもイベント全体が片岡さんの語りで始まったのは良かったように思います。

そして毛利さん、むっちゃ話が上手い(笑)。お名前は以前から知っていましたが、ご本人を見たのは初めてで、ぼくはもっと年上の方かと勝手に思っていたのですが、実際には大谷さんとほぼ同じ……というか同い年? でしょうか。お二人とも専門がちょっとカブるようで、でもキャラクターがけっこう違って。大谷さんはポイントを定めてココ、ってところでコメントを突いていくんだけど、毛利さんは水がワサーッと流れていくようなすごい流麗さ。止まらない(笑)。

そして毛利さんは大体、作品の発表年に言及するときに「6月ですね」とか月まで言うのがすごいな〜って。
で、そのときは単に「月まで答えてる!」とウケていただけでしたが、後から考えたら、当時の映画って今に比べたらすごいスピードで、同じ役者でも年に何本も公開されているから、月単位で把握する必要が生じるのかなあ、とか思ったりもしましたが。
いや圧倒されました。

それから第2部の佐藤利明さんによる映像進行、むちゃくちゃすごかった。映像の内容もすごいんだけど、かなり緻密に構成されていて、あれ自体が一本の映画のようで。本当に貴重な経験だったなあ、と。
全体が起承転結みたいになっていて、そのせいでとくに終盤、ちょっと泣きそうになりましたもんね……とても良かったです。

その映像を見ながらちょっと思っていましたが、印象的だったのは女性歌手の発声がどんどん変わっていくというか、とくにあの……なんだっけ、先に海外のミュージカル映画を見て、その後にそれを真似たような、たしか「続エノケンの千萬長者」だったか、同様のシーンが出てくるんだけど、そこで歌われる日本語の歌が、それ以前に比べてすごく上手くなってる!
「それ以前」というのは、第1部で聴いた浅草オペラの時代も含めて、なんだけど、そういう初期の頃ってなんだか女性の歌がちょっとヤケになった感じというか、とりあえず高音で大声だったらOK!みたいな、近いのはゲルニカ戸川純さんみたいな、聴き方によってはギャグみたいに聞こえるような歌声なんだけど、上記のミュージカル風の映画の歌っていうのはもう全然ギャグにならない、普通に「おお〜」って感動してしまうような歌で。

これ、何が違うんだろう、何が原因なんだろう……? としばらくその映像を見ながら思ってしまったんだけど、やはりマイクなんですかね……。トークでもマイクの話題が少しありましたけど。やはり初期の、とりあえず大声じゃないとそもそもお客さんに聞こえないよ! という時代から、もう音量はそんなに気にしなくていいから質のほうを極めようか、みたいになっていった、とかかなあ、とか。
まあ、思いつきですが……でもそのぐらいの洗練された印象を受けました。

あと地味な話ですが、佐藤さんの映像ではつねにその映画の公開年が右下に出ていて、とても参考になりました。
ぼくはなぜか、いつもその映像を見ながら&歌を聴きながら、「この映画って何年頃に作られたんだろう?」ということがすごく気になって、そのたびにちょっと目を下に移すとタイトルと年数が出ているので「ああ、昭和12年か。って早え〜」みたいな、想像力をフルに働かせることができて良かったです。
やはり研究者の方が作る資料だけあって、それに興味を持つ人がどういう部分を気にするか、ということがわかっているのだなあ、と。

そうそう、あとその第2部、こういう感想も持ちました。くり返して書くのもなんなので、そのまま貼り付けますが。

結果的には、イベント全体からすると、そういう二村定一のエッジ感というか、異物感というか、危険性とも形容できそうな要素についてはあまり多くは触れられなかったかもしれないんですが(イベント前に見たフライヤー等から受ける印象としては、そういうヤバイ空気みたいなものを多く感じ取っていたので)、でもそのエッセンスというか、貴重な片鱗に触れることができたと思っています。入口に立てたというか。

しかし二村定一……本当に魅力ありすぎですね。すごかった〜……。

さて最後になりますが、第1部の登壇を含めて、イベントを主催されたぐらもくらぶの保利透さん、大変おつかれさまでした。とても面白かったです。

会場もちょうどいいぐらいの広さで、見やすくて、あとライブもマイクの音が大きすぎなかったので、楽器や参助さんの生の声が届いてくる良い環境で、あんなに長時間だったのに最後まで他のことを考えずに楽しめました。

あらためまして、このイベントに関わられた皆さんに感謝します。