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単純で暴力的な煽動者と、論理的で魅力的でありながら嫉妬を誘発しない存在

  • 単純で暴力的な煽動者に人生を奪われないためには、論理的で魅力的でありながら嫉妬を誘発しない存在がそれより多く目につくようでなければいけない。
  • 単純で暴力的な煽動者を叩いても後者のような人物が増えるわけではなく、むしろ単純で暴力的な煽動者を人目に多く触れさせるという逆効果につながる可能性がある。
  • 単純で暴力的な煽動者を上回る数の、論理的で魅力的でありながら嫉妬を誘発しない存在をどう生み出し、育てていくかということを第一に考えていくべきだろうと考えている。

下へ、下へ

  • ワイドショーなどをたまに目にすると、違法駐輪をする人とか、不法投棄をする人とか、万引きをする人などを追いかけて、「こんなひどいことをする人もいるんですねえ〜」という論調で見下したり、責めたり、あるいはその報いを受けているところを見せて溜飲を下げたりしている状況があるのだけど、それはたぶん以下に書いたような、
  • 人間の価値をソートする - 103
  • 自分よりも下のものを見つけて(作って)、そのぶん自分が「上」に立ったような気になれるから、成立しているのだと思っている。
  • わざわざワイドショーなどを見ない人であっても、ネットのニュース記事などで、愚かなことをしたとされる人を見て、あれは良くないとかそれはダメだとか言うことはあると思われ、やっていることは似たようなものだと思っている。
  • 「自分より下」だと思えるものを探し続けてしまうと、それまで本来の仕事としてやってきた、「自分のやりたいことをやる」ということができなくなる。それは何だか、それまでのぼってきた山を下山していくことに似ている。
  • 下へくだれば、たしかに目当ての「自分より下」のものは見つかるだろうし、そのつど「自分はこれよりはマシだ」と思えるかもしれないが、実際に自分の立つ場所もどんどん下がっていってしまう。
  • 「自分はまだ下のほうにいる」と思いながら、先人の後ろ姿を見ながら上へ、上へのぼっていくつらさのほうを選択したい。

100年後の人に届けばいい

  • 実直で優秀な作り手が、見知らぬ人からの非難に心折れたり、憤慨して戦ったりして貴重な時間や労力を費やしているのを見ると、もったいないなあと感じる。
  • 嫌なことを言われて心折れたり、憤慨してしまうのは当然のことで、また反射的に戦ってしまうのも仕方ない面があると思うが、それでも「その時間で何を作れたか」「その時間でどれだけ休めたか」「その時間でどれだけ素晴らしい他人の作品を味わえたか」などと思うと、それがもったいないという気持ちにつながっていく。
  • これは遠近法のようなもので、目の前にいる人は大きく見える。宙を舞うビーチボールと空に浮かぶ月とを比べたら、実際には桁違いに月のほうが大きいが、こちらへ向かってくるビーチボールは月よりも大きく見える。
  • 目に見える大きさに惑わされてはいけない。相手の言っていることは本当に重要なのか、見極める必要がある。
  • ものを作る人は作ることで生きていくのだから、なるべく作ることに集中できたらいいだろう。今どれだけ嫌なことを言われても、その言葉じたいは自分の作品を傷つけるものではない。しかし作ることをしなければ、それは将来生まれるはずだった作品を生み出せなくなるという意味で、その作品を傷つけることになるだろう。
  • 今この瞬間を生きる人々に認められなくても、100年後の人には伝わるかもしれない。その人に届けることを第一に考えたい。

編集者の役割に関する随想

  • 最近考えていること。文章とは道案内のメモのようである。書き手の頭にある何かを読者にも見せようとして、それに至る経路を記す。「家を出て駅へ向かって歩いてください」「ポストの脇の道を右へ曲がってください」読者は言われたとおりに道を辿る。
  • 案内のとおりに本のページをめくりながら、そして最後のページに辿りついたとき、読者の目には著者の見せたかったものが映っているかどうか。結果は誰にもわからないが、著者の役目は最大限、それを運任せにせず厳密に指示を記すこと。
  • 編集者とはそれを一緒に読んで、「これだと迷子になりますよ。別の場所に行っちゃいますよ」と伝えること。しかし読者に何を見せたいのか、読者をどこへ連れていきたいのかを決めるのは著者。
  • いわゆる上手い文章というのは、その案内が正確で、読み手に誤解の余地を与えないもの。で、その上手い文章を作る役目はしかし、著者だけにあるのではなく編集者にもある。
  • というかむしろ、著者の一番の役目は「何を書きたいか」「何を読者に伝えたいか」ということだから、「どう書くか」「どう伝えるか」とかについては最初はむちゃくちゃでも構わない。そのむちゃくちゃな文章を、編集者と直していけばいい。
  • もっと言えば、編集者が全部直して、著者が最後に「これでOK」と言うならそれでもいい。
  • しかしいずれにせよ、そのようにできるためには編集者が著者の意図を明確に掴んでいる必要があって、それはなかなかホネの折れる作業でもある。とくに、最初の著者の文章がむちゃくちゃだったら、編集者がそれを解読すること自体それなりに困難になるわけで。
  • だから著者自身も文章が上手ければ、それに越したことはない。最初から高いレベルの文章があれば、同じ労力でもっと高いレベルのものを作り上げられる可能性が生じる。
  • 話を戻すと、文章は道案内のメモのようなもので、編集者は著者の書いたそのメモがより的確になるよう手助けをする。
  • このときにぼくがイメージしているのは、自分が自動券売機のようなマシンになっていて、そこには著者が書いたメモを入れる口と、編集者が編集を施したメモを吐き出す口の二つの穴が空いている。
  • マシンの中で何が起きているのかは誰にも(おそらくは編集者自身にも)わからないが、マシンは元のメモを読み込んで、不備を見つけたら修正して、修正後のメモを吐き出す。「こんにちは」と日本語で書かれたメモを入れたら、「Hello」という英語が書かれたメモが出てくる、自動翻訳機のようなものと言ってもいいかもしれない。翻訳機であり、変換機。
  • この変換機の中身が、編集者によって違う。同じ文章を入れても、出てくるものが違うということ。しかし同時に、そこへ入れる元の文章もまた著者によって、あるいは同じ著者ですら内容によって変わるわけだから、変換機の質の違いを測定したり、比較したりすることは簡単ではない気がする。
  • 編集者の存在意義というか、その能力や存在の効果測定について考えたことがあったけど、現実的に考えて、編集者だけでなくその元の文章自体も変数になる(状況によって中身が変わる)ことを思えば、果たしてそれを厳密に測定する方法があるのか、いまだに答えは出ていない。
  • では問いを少し変えて、「編集者は必要か?」と考える。これについてはけっこうシンプルな答えが自分の中にはあって、それは「著者が必要だと思えば必要」。逆に、同人誌やKDP(Kindleダイレクト・パブリッシング)のように、編集者を介在させなくてもリリースできる仕組みがあって、書き手がまずはそれらを使ってリリースすることを最優先したい、という場合には不要だろう。

坂本さんのこと

「坂本さんってどんな人?」と、よく聞かれるようであまり聞かれない。

最近久しぶりに聞かれたのは、年明けに参加したプログラミング発表会の懇親会で、そのときにどう答えたのだったか、もうだいぶオリオンビールも入っていたので(沖縄料理を出す居酒屋だった)覚えていないが、もし今答えるなら〜と考えてみると、

1. 対等に接してくれる
2. 御礼を言う
3. ごまかさない

といったあたりだろうか。

「1」について、「〜してくれる」などと言うと、なんだか前提として向こうが「上」、ぼくが「下」のようだが、まあ実際、かたや世界的に活躍する音楽家で、かたやそうではない私なので、必ずしも不自然な言い方でもないだろう。

ようは、それでもひとつのプロジェクトの中では忌憚なく意見を交わすことができ、それを本人も求めている(とぼくが感じる)ということだ。
より簡単に言うと、「いばらない」。

よく、偉い人ほどいばらない、なんて言うけれど、ぼくの知るかぎり坂本さんはまさにそうである。
などと言うと、なんだか一緒に仕事をしている関係からくるヨイショのようだが、このようなことを聞いたところで坂本さんからぼくへの評価が変わるとも思わない。

そういう点でも信頼できるし、信頼できるということがありがたい。
(などと言っているぼくの方が偉そうだが)

「御礼を言う」というのは、言い換えると、「感謝を高く売らない」ということである。

という説明ではかえってわかりづらいかもしれないが、どうも世の中には、他人から何かしてもらっても御礼を言わず、むしろそれが当然のことであるかのように振る舞うことによって、あたかも前提的に「自分のほうが上、相手は下」であるとアピールするような人がいる。

またその裏返しで、自分が何か間違えたときなどに、お詫びや反省を伝えられない人もいて、ネットではそれを「謝ったら死ぬ病」などと言うが、それもまた、「間違いを認めることによって自分が下、相手が上になる」と感じてしまうことから、それを避けるためにとる行動だと思われる。

これらはいわゆる「マウンティング」という行動様式として説明できると思うが、以下の記事でも書いたように、

人間の価値をソートする - 103

そういうのって良いとか悪いとか言う以前に、まあ生じてしまうこと自体は仕方ないかな、と感じるし、かく言うぼくにもそれはある。

だからこそ余計に、そういった素朴な衝動にとらわれることなく、相手への感謝をそのまま伝えられる人はすごいと思う。

「3」の「ごまかさない」について。ほとんど「2」と似たようなものだが、坂本さんは様々なプロジェクトの中心というか、トップにいる人だから、その人から指示や依頼を受けたら、もしその意味がよくわからなくても「ハイ」と引き受けてしまうところだが、そういう「意味のわからない指示」とか、意見というものがほとんどない。

言い換えれば論理的であるということで、だからこちらが一度の説明で理解できなくても、聞けばきちんと説明してくれる。

ちなみに、ぼくが趣味でやっているプログラミングの世界には「冪等(べきとう)」という概念があって、手元の『Webを支える技術』(山本陽平著・技術評論社)によると、

「ある操作を何回行っても結果が同じこと」を意味する数学用語

とある。(P101)

Webを支える技術 -HTTP、URI、HTML、そしてREST (WEB+DB PRESS plus)

Webを支える技術 -HTTP、URI、HTML、そしてREST (WEB+DB PRESS plus)

坂本さんの指示や外への態度には冪等性があって、こちらでその指示や依頼の意味をすぐ把握できなくても、不明な部分を質問すれば、何を損ねるわけでもなく同じ内容を(別の言い方や説明のあり方を通して)返してくれる。

もしぼくがそうした意図を取り違えてがっつり作業してしまえば、その作業にかかった時間や労力は無駄になるし、その無駄は自分の損害であるだけでなく、プロジェクト全体の損失にもなる。
だから、方針の意図や作業の目的を明確にすることはとても重要で、それが曖昧であってはいけない。

「方針や目的が曖昧であってはいけない」というのは、べつにすべてのそれが具体的で確定的でなければいけない、とかいうことではなく、というかそもそも、人間にそんな先々のことまで見通す能力はない。

ここで言う「避けるべき曖昧さ」とは、「明確なのか曖昧なのかもわからない」ということで、だから、たとえばぼくの方から「それってどういう意味でしょう? もう少し具体的に説明していただけますか?」などと聞いたときに、「いや、じつはそこまではっきり決めていないんだ」と言われたら、それは「「はっきり決めていない」ことがはっきりわかる」という点で、充分明確である。

普段仕事をしていて、「ああ、これはちょっと困るな」と思うのは、その「明確なのか、曖昧なのか」をはっきりさせてくれない人である。
これも結局、上記のマウンティングという人間の性質につながっていると思うが、「わからない」と言わないことによって、自らの立場を保とうとする行為がようするに「ごまかす」ということで、坂本さんとの仕事ではそれがない。

ぼくは常々「冪等性のある人間でありたい」と思っていて、それは「間違えない人間にはなれないが、いつも誠実に対応する人間には成れる。それになろう」ということだ。

「誠実」というのも何だか歯の浮くような表現ではあるが、「なろう」と思って目指せることがそれぐらいしかない。
具体的には、嘘をつかないということ。

嘘をつくと、嘘をつかなかった時にやったこととの整合性がつかなくなる。
それの何が悪いのかというと、周りがこちらの能力を正確に把握することができなくなり、ぼくの能力にまったく見合わない作業を振られる可能性が高まる。

「あいつは能力の低いやつだが、いつも同じ程度に低いから、安心してこの仕事を任せられる」という状況があると思う。それはつまり、生じる損失を安定的に見積もれるということであり、その想定と実際の結果との差が許容範囲内であるということだ。

逆に、「あいつの作業は当たり外れがあって、良いときは比類なく良いが、悪いときは想像を絶するひどさだ」という状況もあって、こういう相手にはおっかなくって大事な作業を預けられない。
前者のように扱われることを光栄だとは思えないかもしれないが、それでも後者のように扱われるよりは良いと思っている。

そのためには、自分の能力や、過去の成果を可能な限りオープンにして、「この人にコレを渡したらアレが返ってくる」という想定をしやすい人間になる必要があり、それを言い換えると、「冪等性のある人間でありたい」ということになる。

初めて坂本さんに会ったのは、たしか2008年の中頃で、梅雨が明け、暑くなり始めたぐらいだったか。

ぼくは編集者の後藤繁雄さんのアシスタントというか、お手伝いというか、そのような立場で南青山の現場に立ち会い、そこで自己紹介をしたはずだ。

気がつくと、それからもう8年が経っている。
その間、坂本さんとは少なからぬやり取りを重ねてきたが、上で挙げたような要素はいつもあった。

それらの要素に共通することをさらにひと言でまとめると、「人を人として扱う」ということになるかもしれない。

それはまた、そうしたことの「逆」をすることによって、自分を偉く見せる、相手を威圧する、といったことを「しない」ということでもある。

すごいと思うのは、それが限られた一時期のことではなく、いつでもそうだということだ。
もちろん人間だから、不安定なこともあるだろうけど、8年間その印象が変わらないのだから、それはやはり坂本さんの本質のひとつだろう。

上で書いたことのくり返しにもなるが、だから信頼できるし、ぼくもまたそのようにして信頼される人間でありたいと思っている。

坂本さんについて聞かれることはあまりない、と冒頭に書いたが、その前に聞かれたのはもう数年前、scholaのテレビ収録に立ち会った際、スタジオで、演奏家のお一人とちょっと立ち話をする機会があって(ライブ演奏のセッティング待ちだった)、何かの話題の流れで、「坂本さんって、普段はどんな方なんですか?」と聞かれた。

今でも覚えているが、ぼくはそこでもほとんど同じことを言った。

「ん〜と、どんなっていうか……ああ、御礼を言いますね」

「?」

「ぼくが何かやるじゃないですか、仕事で。頼まれたこととか、原稿をまとめるとか。そうすると、御礼を言われます」

「はあ〜」

「そういう人って、案外少ないと思うんですよ。でも坂本さんはそういうところでちゃんと感謝の気持ちを伝えるので、ぼくはそういうところがすごいと思うんですよね」

と、そこまで聞き終えて、その人はひと言、

「尊敬してるんですね!」

と、笑って言ったのだった。

ぼくは聞かれたことに答えただけで、自分のことを話したつもりではなかったから、一瞬なんのことだかわからず、「え?」と聞き返したが、どうもぼくの話す様子がだいぶ一生懸命だったようで、それに対する感想のようだった。

この8年にわたるscholaというプロジェクトとの関わりにおいては、ポジティブなことも、ネガティブなことも、それぞれそれなりにあったが、その間ぼくがずっと続けてきたのは、ただ正直に仕事をする、ということだった。

あまりにも正直すぎて、かえって煩わしいとか、手間を増やすとかいった迷惑を各所にかけてきたと思うが(思い当たるふしがありすぎる)、それでも嘘はつかなかった。

上に書いた坂本さんの印象は、たぶんその上に立っている。

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