103

100年後の人に届けばいい

  • 実直で優秀な作り手が、見知らぬ人からの非難に心折れたり、憤慨して戦ったりして貴重な時間や労力を費やしているのを見ると、もったいないなあと感じる。
  • 嫌なことを言われて心折れたり、憤慨してしまうのは当然のことで、また反射的に戦ってしまうのも仕方ない面があると思うが、それでも「その時間で何を作れたか」「その時間でどれだけ休めたか」「その時間でどれだけ素晴らしい他人の作品を味わえたか」などと思うと、それがもったいないという気持ちにつながっていく。
  • これは遠近法のようなもので、目の前にいる人は大きく見える。宙を舞うビーチボールと空に浮かぶ月とを比べたら、実際には桁違いに月のほうが大きいが、こちらへ向かってくるビーチボールは月よりも大きく見える。
  • 目に見える大きさに惑わされてはいけない。相手の言っていることは本当に重要なのか、見極める必要がある。
  • ものを作る人は作ることで生きていくのだから、なるべく作ることに集中できたらいいだろう。今どれだけ嫌なことを言われても、その言葉じたいは自分の作品を傷つけるものではない。しかし作ることをしなければ、それは将来生まれるはずだった作品を生み出せなくなるという意味で、その作品を傷つけることになるだろう。
  • 今この瞬間を生きる人々に認められなくても、100年後の人には伝わるかもしれない。その人に届けることを第一に考えたい。

編集者の役割に関する随想

  • 最近考えていること。文章とは道案内のメモのようである。書き手の頭にある何かを読者にも見せようとして、それに至る経路を記す。「家を出て駅へ向かって歩いてください」「ポストの脇の道を右へ曲がってください」読者は言われたとおりに道を辿る。
  • 案内のとおりに本のページをめくりながら、そして最後のページに辿りついたとき、読者の目には著者の見せたかったものが映っているかどうか。結果は誰にもわからないが、著者の役目は最大限、それを運任せにせず厳密に指示を記すこと。
  • 編集者とはそれを一緒に読んで、「これだと迷子になりますよ。別の場所に行っちゃいますよ」と伝えること。しかし読者に何を見せたいのか、読者をどこへ連れていきたいのかを決めるのは著者。
  • いわゆる上手い文章というのは、その案内が正確で、読み手に誤解の余地を与えないもの。で、その上手い文章を作る役目はしかし、著者だけにあるのではなく編集者にもある。
  • というかむしろ、著者の一番の役目は「何を書きたいか」「何を読者に伝えたいか」ということだから、「どう書くか」「どう伝えるか」とかについては最初はむちゃくちゃでも構わない。そのむちゃくちゃな文章を、編集者と直していけばいい。
  • もっと言えば、編集者が全部直して、著者が最後に「これでOK」と言うならそれでもいい。
  • しかしいずれにせよ、そのようにできるためには編集者が著者の意図を明確に掴んでいる必要があって、それはなかなかホネの折れる作業でもある。とくに、最初の著者の文章がむちゃくちゃだったら、編集者がそれを解読すること自体それなりに困難になるわけで。
  • だから著者自身も文章が上手ければ、それに越したことはない。最初から高いレベルの文章があれば、同じ労力でもっと高いレベルのものを作り上げられる可能性が生じる。
  • 話を戻すと、文章は道案内のメモのようなもので、編集者は著者の書いたそのメモがより的確になるよう手助けをする。
  • このときにぼくがイメージしているのは、自分が自動券売機のようなマシンになっていて、そこには著者が書いたメモを入れる口と、編集者が編集を施したメモを吐き出す口の二つの穴が空いている。
  • マシンの中で何が起きているのかは誰にも(おそらくは編集者自身にも)わからないが、マシンは元のメモを読み込んで、不備を見つけたら修正して、修正後のメモを吐き出す。「こんにちは」と日本語で書かれたメモを入れたら、「Hello」という英語が書かれたメモが出てくる、自動翻訳機のようなものと言ってもいいかもしれない。翻訳機であり、変換機。
  • この変換機の中身が、編集者によって違う。同じ文章を入れても、出てくるものが違うということ。しかし同時に、そこへ入れる元の文章もまた著者によって、あるいは同じ著者ですら内容によって変わるわけだから、変換機の質の違いを測定したり、比較したりすることは簡単ではない気がする。
  • 編集者の存在意義というか、その能力や存在の効果測定について考えたことがあったけど、現実的に考えて、編集者だけでなくその元の文章自体も変数になる(状況によって中身が変わる)ことを思えば、果たしてそれを厳密に測定する方法があるのか、いまだに答えは出ていない。
  • では問いを少し変えて、「編集者は必要か?」と考える。これについてはけっこうシンプルな答えが自分の中にはあって、それは「著者が必要だと思えば必要」。逆に、同人誌やKDP(Kindleダイレクト・パブリッシング)のように、編集者を介在させなくてもリリースできる仕組みがあって、書き手がまずはそれらを使ってリリースすることを最優先したい、という場合には不要だろう。

坂本さんのこと

「坂本さんってどんな人?」と、よく聞かれるようであまり聞かれない。

最近久しぶりに聞かれたのは、年明けに参加したプログラミング発表会の懇親会で、そのときにどう答えたのだったか、もうだいぶオリオンビールも入っていたので(沖縄料理を出す居酒屋だった)覚えていないが、もし今答えるなら〜と考えてみると、

1. 対等に接してくれる
2. 御礼を言う
3. ごまかさない

といったあたりだろうか。

「1」について、「〜してくれる」などと言うと、なんだか前提として向こうが「上」、ぼくが「下」のようだが、まあ実際、かたや世界的に活躍する音楽家で、かたやそうではない私なので、必ずしも不自然な言い方でもないだろう。

ようは、それでもひとつのプロジェクトの中では忌憚なく意見を交わすことができ、それを本人も求めている(とぼくが感じる)ということだ。
より簡単に言うと、「いばらない」。

よく、偉い人ほどいばらない、なんて言うけれど、ぼくの知るかぎり坂本さんはまさにそうである。
などと言うと、なんだか一緒に仕事をしている関係からくるヨイショのようだが、このようなことを聞いたところで坂本さんからぼくへの評価が変わるとも思わない。

そういう点でも信頼できるし、信頼できるということがありがたい。
(などと言っているぼくの方が偉そうだが)

「御礼を言う」というのは、言い換えると、「感謝を高く売らない」ということである。

という説明ではかえってわかりづらいかもしれないが、どうも世の中には、他人から何かしてもらっても御礼を言わず、むしろそれが当然のことであるかのように振る舞うことによって、あたかも前提的に「自分のほうが上、相手は下」であるとアピールするような人がいる。

またその裏返しで、自分が何か間違えたときなどに、お詫びや反省を伝えられない人もいて、ネットではそれを「謝ったら死ぬ病」などと言うが、それもまた、「間違いを認めることによって自分が下、相手が上になる」と感じてしまうことから、それを避けるためにとる行動だと思われる。

これらはいわゆる「マウンティング」という行動様式として説明できると思うが、以下の記事でも書いたように、

人間の価値をソートする - 103

そういうのって良いとか悪いとか言う以前に、まあ生じてしまうこと自体は仕方ないかな、と感じるし、かく言うぼくにもそれはある。

だからこそ余計に、そういった素朴な衝動にとらわれることなく、相手への感謝をそのまま伝えられる人はすごいと思う。

「3」の「ごまかさない」について。ほとんど「2」と似たようなものだが、坂本さんは様々なプロジェクトの中心というか、トップにいる人だから、その人から指示や依頼を受けたら、もしその意味がよくわからなくても「ハイ」と引き受けてしまうところだが、そういう「意味のわからない指示」とか、意見というものがほとんどない。

言い換えれば論理的であるということで、だからこちらが一度の説明で理解できなくても、聞けばきちんと説明してくれる。

ちなみに、ぼくが趣味でやっているプログラミングの世界には「冪等(べきとう)」という概念があって、手元の『Webを支える技術』(山本陽平著・技術評論社)によると、

「ある操作を何回行っても結果が同じこと」を意味する数学用語

とある。(P101)

Webを支える技術 -HTTP、URI、HTML、そしてREST (WEB+DB PRESS plus)

Webを支える技術 -HTTP、URI、HTML、そしてREST (WEB+DB PRESS plus)

坂本さんの指示や外への態度には冪等性があって、こちらでその指示や依頼の意味をすぐ把握できなくても、不明な部分を質問すれば、何を損ねるわけでもなく同じ内容を(別の言い方や説明のあり方を通して)返してくれる。

もしぼくがそうした意図を取り違えてがっつり作業してしまえば、その作業にかかった時間や労力は無駄になるし、その無駄は自分の損害であるだけでなく、プロジェクト全体の損失にもなる。
だから、方針の意図や作業の目的を明確にすることはとても重要で、それが曖昧であってはいけない。

「方針や目的が曖昧であってはいけない」というのは、べつにすべてのそれが具体的で確定的でなければいけない、とかいうことではなく、というかそもそも、人間にそんな先々のことまで見通す能力はない。

ここで言う「避けるべき曖昧さ」とは、「明確なのか曖昧なのかもわからない」ということで、だから、たとえばぼくの方から「それってどういう意味でしょう? もう少し具体的に説明していただけますか?」などと聞いたときに、「いや、じつはそこまではっきり決めていないんだ」と言われたら、それは「「はっきり決めていない」ことがはっきりわかる」という点で、充分明確である。

普段仕事をしていて、「ああ、これはちょっと困るな」と思うのは、その「明確なのか、曖昧なのか」をはっきりさせてくれない人である。
これも結局、上記のマウンティングという人間の性質につながっていると思うが、「わからない」と言わないことによって、自らの立場を保とうとする行為がようするに「ごまかす」ということで、坂本さんとの仕事ではそれがない。

ぼくは常々「冪等性のある人間でありたい」と思っていて、それは「間違えない人間にはなれないが、いつも誠実に対応する人間には成れる。それになろう」ということだ。

「誠実」というのも何だか歯の浮くような表現ではあるが、「なろう」と思って目指せることがそれぐらいしかない。
具体的には、嘘をつかないということ。

嘘をつくと、嘘をつかなかった時にやったこととの整合性がつかなくなる。
それの何が悪いのかというと、周りがこちらの能力を正確に把握することができなくなり、ぼくの能力にまったく見合わない作業を振られる可能性が高まる。

「あいつは能力の低いやつだが、いつも同じ程度に低いから、安心してこの仕事を任せられる」という状況があると思う。それはつまり、生じる損失を安定的に見積もれるということであり、その想定と実際の結果との差が許容範囲内であるということだ。

逆に、「あいつの作業は当たり外れがあって、良いときは比類なく良いが、悪いときは想像を絶するひどさだ」という状況もあって、こういう相手にはおっかなくって大事な作業を預けられない。
前者のように扱われることを光栄だとは思えないかもしれないが、それでも後者のように扱われるよりは良いと思っている。

そのためには、自分の能力や、過去の成果を可能な限りオープンにして、「この人にコレを渡したらアレが返ってくる」という想定をしやすい人間になる必要があり、それを言い換えると、「冪等性のある人間でありたい」ということになる。

初めて坂本さんに会ったのは、たしか2008年の中頃で、梅雨が明け、暑くなり始めたぐらいだったか。

ぼくは編集者の後藤繁雄さんのアシスタントというか、お手伝いというか、そのような立場で南青山の現場に立ち会い、そこで自己紹介をしたはずだ。

気がつくと、それからもう8年が経っている。
その間、坂本さんとは少なからぬやり取りを重ねてきたが、上で挙げたような要素はいつもあった。

それらの要素に共通することをさらにひと言でまとめると、「人を人として扱う」ということになるかもしれない。

それはまた、そうしたことの「逆」をすることによって、自分を偉く見せる、相手を威圧する、といったことを「しない」ということでもある。

すごいと思うのは、それが限られた一時期のことではなく、いつでもそうだということだ。
もちろん人間だから、不安定なこともあるだろうけど、8年間その印象が変わらないのだから、それはやはり坂本さんの本質のひとつだろう。

上で書いたことのくり返しにもなるが、だから信頼できるし、ぼくもまたそのようにして信頼される人間でありたいと思っている。

坂本さんについて聞かれることはあまりない、と冒頭に書いたが、その前に聞かれたのはもう数年前、scholaのテレビ収録に立ち会った際、スタジオで、演奏家のお一人とちょっと立ち話をする機会があって(ライブ演奏のセッティング待ちだった)、何かの話題の流れで、「坂本さんって、普段はどんな方なんですか?」と聞かれた。

今でも覚えているが、ぼくはそこでもほとんど同じことを言った。

「ん〜と、どんなっていうか……ああ、御礼を言いますね」

「?」

「ぼくが何かやるじゃないですか、仕事で。頼まれたこととか、原稿をまとめるとか。そうすると、御礼を言われます」

「はあ〜」

「そういう人って、案外少ないと思うんですよ。でも坂本さんはそういうところでちゃんと感謝の気持ちを伝えるので、ぼくはそういうところがすごいと思うんですよね」

と、そこまで聞き終えて、その人はひと言、

「尊敬してるんですね!」

と、笑って言ったのだった。

ぼくは聞かれたことに答えただけで、自分のことを話したつもりではなかったから、一瞬なんのことだかわからず、「え?」と聞き返したが、どうもぼくの話す様子がだいぶ一生懸命だったようで、それに対する感想のようだった。

この8年にわたるscholaというプロジェクトとの関わりにおいては、ポジティブなことも、ネガティブなことも、それぞれそれなりにあったが、その間ぼくがずっと続けてきたのは、ただ正直に仕事をする、ということだった。

あまりにも正直すぎて、かえって煩わしいとか、手間を増やすとかいった迷惑を各所にかけてきたと思うが(思い当たるふしがありすぎる)、それでも嘘はつかなかった。

上に書いた坂本さんの印象は、たぶんその上に立っている。

commmons:schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

最近考えていること6本

ひとつひとつまとまった文章に構成していると時間がかかるので、最近考えていたことをただ順番にだらだら書いていく。

タバコの次はアルコール

  • タバコはだいぶ社会的地位が低くなって、以前はある意味暴力的なほど、非喫煙者への無関心の度合いが高かった状況が徐々に解消されてきたけれど、同じようなことが今後はアルコール飲料に対しても生じてくるのでは、と想像している。
  • タバコの被害や影響と、アルコール飲料におけるそれとはまたちょっと性質が違うとも思うので、そのまま同様にスライドさせて考えることはできないだろうけど、とはいえ現在あるような、飲酒者から非飲酒者への無自覚なある種の傲慢さというか、無関心さというか、鈍感さとも言える状況は、自然にというか必然的にというか、解消されていくだろう、というかそうならざるを得ないだろう、と思ってる。
  • 僕自身は随分飲む方だと思うけど、それでも飲んでこうむるデメリットというのはそれなりに感じるし、飲まない場合の「負担の少なさ」みたいなものがあるのは間違いないと思われ、「飲まなくてもいい世界」の存在に気づいた人々はやがてそちらをメインにしていくのではないか、そしてそれは「吸わなくていいなら吸わない方を選ぶ」というタバコ界隈で生じた現象に近いのでは、と思っている。

有名な人や企業が叩かれる理由

  • 有名人や有名企業(団体・組織)がTwitterなどでバリバリ叩かれるのはなぜか? と考えると、それは彼ら有名な人たちがモノ(=人間ではない何か)として見られているからだろうと思ってる。
  • 言い換えると、自分の友達や尊敬する人がその対象だったら、誰もそんなことは言わない。そうではなく、相手は自分とは別の何か、少なくとも人間ではない何かだから、言い返してくるわけがないし、言い返してきたところで「別世界」のモノたちだからわかり合えるわけもないし、という前提があってそういう態度になってしまうのだろう、と。
  • これはよく「有名税」みたいな言葉とともに語れられるところでもあるが、「有名税」、ひどい言葉である。人間が人間を傷つける、ということを正当化する概念になっている。
  • ただし同時に、じゃあそういう、「知らない人だから叩く」というのが悪いのかと言ったら、まあ悪いのだけど、悪いと言って何かが解決するとも思えない。むしろそれは自然なこととすら思われ、自分の知らないすべての人のことをつねに気づかって生きていたら忙しくて仕方ない。関わりのない人のことは「無い」ものとして扱うから日常を過ごすことができる、とは言える。
  • 自分から遠く離れた、想像の及ばない誰かは「人間ではないモノ」に見える。それは仕方ない。というか、「私はこの人のことを理解してる!」と思っても実際は全然わかってない、ということもまた普通にあるし。しかしそれでも、やはり相手は「モノではない人間」だから、自分がバシバシ叩いていることにふと気づいたら、そのことを思い出して手をとめたい。

政治家に憧れる社会

  • 上の話にもつながるが、「叩いていい有名人」と思われる筆頭といえば、政治家だろう。
  • なぜ人々がこうも政治家を憎むのか、理解しがたい。
  • 中には、自分が支持する政党や政治家を応援するような状況もあるが、それはそれでまた見方によっては宗教っぽいというか、信者が教祖を崇めるような、ある意味思考停止的な、もう最初から結論だけは決まっていて、その他の肯定する理由は結局すべて後付なのでは、みたいな意味で、政治家を思考停止的に批判する態度と同等であるようにも感じる。
  • 人々が政治家を馬鹿にしたり、憎んだり、とにかく攻撃し続けるような社会で、すぐれた人が政治家になろうとするだろうか? という危惧がある。
  • 子供に将来の夢を聞いて、こんなにも毎日人々から糾弾され続ける職業を挙げるとは思えないし、挙げたところで賛成することも難しい。
  • 政治と金、とはよく言うが、こんなにも「政治家とは悪どい人間がなるもので、いつも利権をむさぼることしか考えてない」みたいなイメージが定着してしまったのは、そしてそれがいつまでも更新されないままなのはなぜだろう?
  • たしかに政治家の一部が汚職を始めとする様々な犯罪を犯してきたことは事実だが、それは「政治家だから」やったことを意味しない。世の中の犯罪を犯す人間の大半は政治家ではないのだから、「政治家=悪」みたいな図式からは早々に逃れるべきだろう。
  • 政治家はひとつの職業であって、職業である以上、それに見合う対価をもらうのは当然のことだ。政治家は国民の奴隷ではないし、金持ちが趣味でやることでもない。
  • 誰かが職業として国を代表する役割を受け持ち、国内外の多くの人間に影響する作業をするのは少なくとも現代社会では必要なことで、国中のすぐれた人がその役割を目指せるようでなければならない。一部のちょっと変わった人だけが立候補するような状態では困る。
  • とりあえず政治家を軽視する態度はやめるべきである。政治家も人間だから、叩かれ続ければそれを前提にした態度を取るようになる。まずは人間扱いするべきだ。人間であれば当然失敗も成功もするだろうし、その一つ一つに意見するのは良いだろうが、彼らは「叩かれるための人間」ではない。
  • 政治家、楽しそうだなあ、大変そうだけど充実してるっぽいしカッコイイ。と思われるような職業であってほしい。

中川淳一郎著『節約する人に貧しい人はいない。』感想

  • 少し前に中川淳一郎さんの『 節約する人に貧しい人はいない。』という本をKindleで読んだが、面白かった。
  • ぼくは自分を世間知らずな人間だと前々から思っていたが、これを読んであらためてそう思った。いくつかの仕事の報酬や給料の相場などが折々垣間見えて、社会にはこんな状況があるのだなあ、と社会勉強になるようなところがあった。
  • 印象的だったのは、「こういう人間には仕事を頼みたくない」とか、その裏返しで「こういう相手だとまた頼みたくなる」みたいな話があって、前者は「めんどくさい人」。
  • 実際に中川さんがそう表現しているわけではなかった気もするが、自分ではそんな感じで解釈した。
  • めんどくさい人とは、たとえばギャラの振込みが一日遅れたときに責め立てるように督促してくる、とか。論理的にはその督促自体はまったく正しいが、その言い方をして誰が得をするのか? みたいな話。
  • ぼくは基本的にその「めんどくさい」と思われる側の人間だなあ、とこれも前々から感じてはいたが、あらためてそう思った。そして、「そんなことをして誰の得になる?」という考え方も非常に腑に落ちる。
  • そういった気質や傾向をすぐに変えることはできないかもしれないが、なるべく自覚して改善したいと思った。これはかなり「読んで良かった」ことのひとつ。
  • その他、内容が大変濃くてよかった。正直、このような本(というか)はさらっとハウツー的なことを並べて軽めに読者の気分をアップさせて終わり、というイメージを持っていたが、著者の「なんとしても値段に見合うサービスを提供して、読者に得した気分を味わって帰ってもらいたい」みたいな強いサービス精神を感じた。
  • けっこう高い本だと思ったけど(今見るとKindle版で950円)、それに見合う内容だと感じた。
  • おもに後半だったと思うが、著者自身の履歴や、今後の身の振り方について考えを書いているところがけっこう内面吐露みたいな雰囲気になっていて、そのあり方もなんだか太宰治ファンが「これをわかるのは自分だけ!」と思うような、読者に共犯感覚を抱かせるところがあるようで、少なくとも自分はそんな感じで面白く読めた。
  • たしか中川さんはぼくより2才ぐらい年上なのだけど、子供の頃の話などはとくに同世代感があり、またぼくが大学の頃から数年住んでいた地域の近くに中川さんもかつて住んでいたり、共通するところがいくつかあって、それもまた面白く読めた理由だったろう。
  • それから、中川さんは大学は一橋、就職は博報堂、ということで、そこからわかるのは「勉強ができる」、というより勉強を「した」ということ。そして結果を出した(合格や入社など)。
  • よく、勉強ができるとか試験の点数がいいとか、あるいはいい大学や企業に入ったりした人に対して、あたかもそれが先天的な能力であって、「勉強ができるからって(いい会社に入ったからって)威張るなよ」みたいな対し方をする人がいるけど、勉強ができるというのはその人が勉強をしたからできるようになったのであって、同時に勉強をできないのは先天的な理由ではなく勉強をしていない(「しない」ことを選んだ)からである。
  • たしかに、中には何を勉強してもちょっとやるだけですぐに理解できる・成果を出せる、という人もいるかもしれないし、そもそも勉強自体が好き、みたいな感じで向き不向きが出る部分もあるかもしれないが、それでも大半の「勉強ができる人」がそれだけの勉強をしたのであろうことは想像にかたくなく、それを軽んじていい理由などないだろう。
  • 僕自身はなかなかそういった勉強というか、学習というか、努力というか、そういうのが身につかないというか、集中できないままどうでもいいことに逃避してしまう傾向があるので、このように努力している人はすごいと思う。
  • もう一つ、読みながら感じたのは、とにかく「体力、あるな〜」ということで、日々動き回っている&そのことに抵抗がないように見えるそのあり方にただ感心する。ぼくは基本引きこもりというかダウナーというか、放っておくとずっとひとつの場所に沈み込んで何か好きなことをずっとしている……みたいになりがちなので、そのタフさがもたらす価値の大きさも読みながら幾度となく感じた。

プログラミングでハマった(失敗した)経験を書く理由

  • ここ1〜2年、趣味のプログラミングの成果というか、それに至らなくてもハマった/試行錯誤した経過などをブログに書くことが多い。
  • the code to rock
  • 短期スパンで考えると、こんな内容がいったい誰の役に立つのか、少なくとも技術的な「正解」が書かれているわけではないから、これを参考にするエンジニアがいるとも思えないし、かといってプログラミング入門者が読むにしては、ちょっと内容が偏っているというか、Vimのこんな機能をこんなふうにカスタマイズしました、なんて書いているのを参考にしたい初心者がいるとも思いづらいのだけど、それでも書いてるのは、第一には後から自分でその内容を参考にできる、つまりどの作業のどの部分でハマって、それがどう解消されたのか、ということが書かれているので、同じ人間である以上同じことに同じ理由でハマり返る(という表現は聞いたことがないが、そうとしか言えない)ことも多く、そのようなときにその自分用メモみたいな記事が役に立つ。ああ、こんなふうに解消したのか、と。
  • もう一つ理由があって、それは「稀少」だと思うから。
  • 思うに、プログラミングの初心者というのはその大半が「文章を書く」という経験もあまりなくて、言い換えればアウトプットの経験が少ないというか、あるいはそういう入門初期というのは様々な知識が不安定・不確定だから、「間違えたことを書いてしまう」という可能性も高く、だからそういう危険をなるべく避けたいと思うのかもしれないが、どうもやはりそのぐらいのレベルの時期に書かれる文章というのは少なく、しかしそれがその後の習熟度や、自信が増すにつれだんだんアウトプットの量も増えていく、という状況があるように思える。
  • 中には、プログラミング習得日記。みたいな感じで書かれるブログ記事などもあるのだけど、そういうものの多くはIT企業の新入社員とか、学生が、会社や研究室の先輩や同僚などに向けてログや日報のように淡々と記録しているものだったりして、これはこれで他人が見ても役立つ面はあるものの、とはいえやはり、その人の人生が忙しくなったせいなのか、途中でパタッと終わってしまっているような場合も多く、そうなると特定の技術に関するリファレンス(参考情報)になることはあっても、それ以上の何か、たとえばその人自身の考え方や人生の一片に触れられるような感覚というのがあまりない。
  • ぼくはもうすぐ41才になるけど、これまでブログはもちろん、業務における編集やライティング、あるいはメールやチャットも含めればかなりの量、「考えていることを文章化する」ということをやってきたので、そうしたアウトプット作業に対するハードルが低く、一方でプログラミングに関してはまったくのド素人の状態からスタートしたものだから、ひと言で言うと「文章を書けるプログラミング初心者」みたいな、結果的になかなかレアな立場なのではないかと思っている。
  • このような存在というか、スキルセット(?)を持つ人はきっと今後はそれなりに増えていくと思うけど、今はそんなにいないだろう。それがべつにぼくのアドバンテージである、と思っているのではなく、しかし「ある程度文章を書ける(書くことに抵抗がない)状態でありながらプログラミングの初心者でもある」という人が少なくとも今の世の中にはまだあまりいないのなら、そういう人間が文章を残しておくことには、それなりの価値があるだろう、と思って書いている。

学習とは定員の少ない部屋に入室できる人を厳選すること

  • 美大に通っていた頃、ぼくが所属していたクラスの教授が言ったことで今でも覚えているのは、画家っていうのはいつでもすぐに描ける状態にしておくのが大事なんだよ、ということ。
  • 具体的には、油絵ならすぐに描けるキャンバスや、筆や絵の具やテレピンやらがいつでも用意されているということ。ドローイングなら白紙とペンがすぐ手に取れるところにあるように。
  • 画家でなくても、ひとつの定まった仕事をしていると、最初の頃はそういった「準備」的な、環境を整えるまでが大変ではあるけど、ある程度軌道に乗るとあとは前日との差分でどんどん作業をしていけるから、より本質的な作業に集中できるという利点がある。
  • それはいつでも手の届くところに筆や絵の具や溶き油が置いてある、というのと同じで、道具や資材や参考資料を探すためにいちいち長い時間をかけていたら仕事にならない。
  • それと同様に、プログラミングでも英語でも簿記でも、何かを学習するというのは、そうやって「手の届くところに道具や資料を集めていく」ということのようだと感じる。
  • 英語で「この単語、意味はなんだっけ?」といちいち調べないと意味を取れない状態というのは、手の届く場所にその単語がない、ということ。いつでもすぐにその意味が頭に浮かばないと、話されている内容についていけない。
  • それは狭い部屋の中にすべての資料が揃っている状態。人間にたとえると、同室の中にすべての必要なメンバーが揃っている状態。メンバーAの知識が必要なときに、Aがその部屋にいなくて、外や別室へAをいちいち探しに行く、という状況をなるべく避けなければいけない。
  • しかしその「部屋」は広くない。数人入れば満室になってしまう。
  • 人間に記憶できることは限られている。何かを覚えれば、そのぶん(かどうかはわからないが)覚えていたことを忘れる。または新たに覚えるべきことを覚えられない。
  • 覚えられる量は限られていて、つまり「すぐに思い出せること」が限られている、ということ。そして何かを習得するということは、「必要なことをすぐ思い出せる」ということ。
  • すぐに思い出せる、すぐに手の届く場所に、何を置くか。その厳選を行うことが学習するということ。それに集中することが肝要。
  • じつのところ、そのような「学習すること」それ自体は、さほど難しいことではないはず。しかし、ちょっと息をついたついでにどんどん別のことをしてしまうのが人間をつねにおびやかす甘い罠。部屋に入れるメンバーは限られているのに、関係ないメンバーを入れてしまえば、関係あるメンバーは部屋から押し出される。そして必要な時にはまたわざわざ呼びに出なければいけない。効率が悪い。
  • 甘い罠にそそのかされて、つい別のことをやってしまう、ということが結果的に新たなスキルの習得や、新たな人とのつながりが生まれるきっかけになることも少なくないが、そのことと、元々学習していたことが身につかなくなることとは矛盾なく両立する。つまり勉強しなければそれを習得することはできない。

『ふし日記』感想

土屋遊(あそび)さんといえば、Webサイト「Weekly Teinou 蜂 Woman」の人である。

そしてまた、「デイリーポータルZ」のライターのお一人でもある。

最近だと(最近でもないが)、この記事が印象的だった。
portal.nifty.com

関係ないけど、デイリーポータルZではこれもヒット! 泣ける!
portal.nifty.com

広告記事の金字塔だなあ〜……。

閑話休題。(いきなり)

その土屋さんが、『ふし日記』という本を出していたのは前から知っていたが、「再販することになったら告知します」という、読みたくても読めない状態が続いていた。

メールで予約しておけば、再販時に連絡をもらえるということだったが、ややシリアスな内容のようだったから、「あなたの書いたシリアスな話に興味があります」と赤裸々に伝えるような感じもあり、ちょっとそのまま様子を見ていた。(様子というか)

ぼくは土屋さんのブログをRSS購読しているので、大半の更新をキャッチしているが、つい最近、その再販が開始されたという情報が出たので、それでようやく購入に至った。

「日記」というぐらいで、日記形式で徒然に文章は進んでいく。

まだすべて読み終えたわけではないが、思ったのは、「こんなに文章らしい文章を読んだのは、ひさしぶりだなあ」ということだった。

「文章らしい文章」というのは、簡単に言い直すと、文学ということになる。
土屋さんが文学のつもりで書いているかはわからないし、そう言われてどう感じるかもわからないが、ぼくにとってはこういう文章はそれになる。

文学だから良いとか、良くないとかいうことでもなく、ぼくがそのように思う文章には共通することがひとつあって、それは「紋切り型から逃げ続ける」ということだ。

多くの「商品」としての文章において、読みながら、途中で「これは……もういいや」と、飽きてしまうのは、その表現の中に紋切り型、つまり「よく目にする表現」がたびたび使われているときである。

突き詰めて考えれば、言葉というのはつねに「誰かがかつて言ったこと」を使い回しているわけで、完全に特殊でオリジナルな表現をされても、その意味を理解することはできなくなるだろうけど、それでもちょっとウットリするような、あるいはカッコつけるような表現が、「ああ……それ知ってる。もう見飽きてる」というものだったりすると、この著者の世界はどうやら狭く、読者である自分に新たな知見や景色を見せてくれるものではなさそうだ、と思ってしまう。

文章を書くことに意識的な人は(という表現もわかりづらいが)、それをなるべく避けようとする。

というか、元々頭の中にあるのは言葉ではない「何か」だから、それを言葉に変えていく過程で、より厳密にその「頭の中にある、言葉ではない何か」を言語化しようと思えば、オリジナルな表現になることは避けられない。

しかし、その過程はあまりに面倒で、煩雑で、達成できるという保証もなく、試みに敗れれば惨めな気持ちにもなるから、普通はそこまでする前に、大体の、あり合わせの、誰もがよく使う表現を多用して終わらせて(放り出して)しまう。

たとえてみると、100種類のメニューが並ぶ弁当屋の店頭で、今日の昼食をどれにするか、完全に気が済むまで選び続けるのが本当の「文章を書く」という作業で、逆に「今日のオススメ」として提示されたそれを「とりあえずこれでいい」と、こだわりなく選ぶのが「紋切り型の表現を使う」ということになる。

(とはいえ、実際の弁当屋ではぼくも「オススメ」の方を取るが。弁当屋にとって都合の良い商品のほうが美味しいだろうと感じるから。上のはあくまでたとえ話)

「ふし日記」の文章は、文庫ぐらいの小さな判型で、1日分の出来事がせいぜい1〜2ページでつづられていく。
分量でいうと、Twitterよりは多いけどブログよりは少ない(か同じぐらい)といった程度でひとかたまり。

だから、読みやすい。
難しい言葉も出てこないし、ポップな雰囲気もある。

しかし全編を流れるシリアスさや、叙情性があり、さらにしかし、それに飲み込まれるわけでもなく、ドライな笑いを誘うような、あるいは自分のことを他人のように眺める離れた視点もある。

それが、他の文章にはない独特な軽さを作ってもいる。

「ハイ、ここで泣いて〜」「ここで笑って〜」みたいな、読者を操作するような意図が感じられず、ぼくはその世界を頭から終わりに向かって、ただ道をとぼとぼ歩いていくように、辿っていける。

その道の途中には様々な店や風景があって(さっきの弁当屋もあるだろう)、そこで展開される一つ一つの出来事を、見たり見なかったりしながら通りすぎていく。そういうことを可能にしている。

プツ、プツ、とフラグメンタルに出来事は語られながら、しかしその全体はひとつながりの時間の上に乗っている。

だから、読みかけのところから読み始めると、すぐにその世界に戻れるし、その日付が終わったところですんなり本を閉じることもできる。

たぶん、長時間の移動のときなどに持ち歩いて、電車で読み継いだりするのにもいいかもしれない。
(ぼくはあまりそういう機会はないが)

上記の再販告知のブログ記事では、同書の感想をいろいろ読めるけど、その中でよく合わせて紹介される本で、植本一子さんの『かなわない』というものがあって、ぼくはまだそれを読んでいないけど、著者の経歴から想像するに、きっとその本も、「紋切り型の反対側」にあるのだろう。

最初に『ふし日記』のことを知ったとき、なぜそれに惹かれたのかと考えると、「Weekly Teinou 蜂 Woman」の土屋さんのキャラクターと、本書の概要で示されるトーンとのギャップが大きく感じられたからで、でもこうして実際に読んでみると、あまり無理なく、その二つがつながってくる。

思い返せば、ぼくが「Weekly Teinou 蜂 Woman」を知ったきっかけは、大谷能生さんと出したこの本の、

元になった渋谷のイベントで、ばるぼらさんが同サイトを紹介していたからで、この本はイベントを書籍化したものだから(ぼくは共編・共著)、当然その内容も載せることになって、その編集時に「どんなサイトなんだろ……」と思って調べたのが最初だったはずだ。

世の中には、比べようもなくセンスのある人と、そうでもない人がいて、その前者を見るたびに打ちのめされるような気持ちになるが、この人もその一人だなあ、と、べつにその時にはそこまで自分の中で言語化していたわけではないが、今思えばそのような感想を持った。

普段このブログを読んで、面白いと思っているような人だったら、けっこう好みに合う部分もあるかもしれないので、もし上の話を読んで興味を持ったら、以下へどうぞ。
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