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加藤泉さんのNY個展情報(2016/1/7〜2/27)

[last updated: 2016-01-22]

NYで個展を開催中の加藤泉さん(画家・彫刻家)の情報を集めてみました。

会期は1/7〜2/27。お近くにお越しの方はぜひどうぞ。

ギャラリーのサイトは以下。f:id:note103:20160119132756j:plain:right
Galerie Perrotin

加藤さんとは僕が美大を卒業する前後からの知り合いで、その後もアルバイトを紹介してもらったり、住まいを紹介してもらったり、いろいろお世話になったのですが、その繋がりで今も私設広報担当的にFacebookページをゆるく更新しています。(投稿は年数回ぐらい)
https://www.facebook.com/IzumiKato.art/

今回はニューヨークの個展ということで、会期もまだひと月以上ある感じだったのでえいやとまとめてみました。

考えないという病

ISってなんであんなことするんだろうね、と家族で話題になり、なぜだろう? と考えた。

こちらの記事によると、
元人質が語る「ISが空爆より怖がるもの」(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース

同グループの構成員はどこにでもいる普通の人たちのようにも感じられる。

少し前にNHKだったか、ISに関する特集で、モロッコ出身でイスラム教の父と、ベルギー人の母から生まれた青年がISに入ってしまい、その直前まで母は懸命に息子のIS入りを引き止めたが、説得することも止めることもできなかったという。

……と、思い出しながら書くのも大変だなと思ったら、ちゃんと紙上再現されていた。NHKニュースウォッチ9、すごい! やるね。
www9.nhk.or.jp

一部引用。

息子がISに加わった ジェラルディンさん
「息子はこう話してました、『なぜどの国もシリアのために動かないのか理解できない。もし誰も動かないなら、僕たち若いイスラム教徒が行動し助けなければ』と。」

アニスさんは、必死の説得にもかかわらずシリアに渡り、ISの戦闘員になりました。
ベルギーにいた時は、移民の息子だという理由から就職できなかったといいます。
(※太字強調は原文ママ

ここに出てくる息子の写真。ISに入れてむっちゃ楽しそう。自分の場所を見つけた、自由になれた、と言わんばかりの……。

同記事の続きで、小説家のル・クレジオや地元の演劇の監督(演出家?)へのインタビューが入っていて、TVで見たときは「へえ、ル・クレジオが喋ってるよ」とかそっちに感心していたのだけど、後から印象に残っていたのは後者の人が言っていたことで、曰く

若者は社会も宗教も理解できていません。
私たちはともに“無知”と闘わなくてはなりません。

という。

で、そのときは「なるほど、そうかもしれないな」と思ったのだけど、「無知」と言うと、知らないことが未熟な劣った状態で、知識を持てばそれでクリア(問題解消)みたいな印象もあり、でも実際はそういうことでもないのではないか……とも思ったり。

ここでISを少し離れると、上の記事ではフランスの極右政党のことも取り上げているのだけど、最近は米大統領選を控えて、日本でもドナルド・トランプの話題がよく出てくるようになってきた。

同氏の発言には差別的・排他的なものが多く、メディアではよく「過激な発言で知られる〜」みたいな冠を付けることが多いようだけど、それだけと言えばそれだけが売りのようにも思える存在であるところ、そのフランスの政党共々なかなか人気が途絶えない(ように見える)。

思うに、ここでもまた「無知との闘い」みたいなことが生じている。

同時に、上で演劇の人が言っている「無知」というのは、僕の実感に照らして少しアレンジすると「無共感」ということではないか、と思えてくる。

自分はこう思う。だからこうする。それによって相手がどうなるか? 知らない。どうでもいい。どれだけ痛がろうが命を失おうが、知らない。俺は正しい。俺たちは正しい。

そのような心境に陥ると、相手に何でもできるようになる。相手をモノとして扱い、相手の痛みを我がことのようには感じない。
そうでなければ(相手の痛みを無視しなければ)できないようなことをしている人たちがいる、ということ。

そうした行為は、自分の中で一度出た結論を何度も考え直したり、それまで想像したこともなかったことを想像してみるという行為の反対側にある。

考えない。想像しない。共感しない。そこにあるのは単純で条件反射的な反応だけだ。

一方、その「反応だけ」というのは個々人に固着した属性というものでもない気がする。僕にもやはり、そのような性質は多くあるだろうし、実際何に対しても「考え直し」や「初めての想像」ばかりしていたら頭がおかしくなりそうだ。

僕自身に関して言えば、ちょっと他人に共感(共鳴・共振)しすぎるところがあると感じる。そこまで相手の身にならなくていいよ、と言いたくなる。
後になってかつての自分に、「相手はそこまで気にしてないよ、君のことばかり考えてるわけじゃないよ」と声をかけたくなってくる。

僕はいろいろ細かいことが気になるタチで、心の中では見るもの聞くものにつねに罵倒や呪詛を吐いている。で、きっと他人も自分に対してそうしているだろう、という想像が働くから、時に過剰なほど他人の目を気にしたり、気をつかったりしてしまう。

これは不満を溜めこむ原因になるから、気をつかいすぎるのも考えものだ。共感や想像ができればいいというものではない。

結論的に、いつも思うのは、まずは他人がどうとか考える前に自分が一番やりたいことをやるべきだ。そしてその結果として出てきたものが、他人のためにもなれば尚良し。
つまり、まずは自分。次に他人。逆はない。

そうでなければ――自分を後回しにすれば――不満という負債を際限なく抱え込むことになる。それはいつか、暴発するかもしれない。

先のISに参加した(そして空爆で命を落とした)青年もまた、シリアにある何かに「共感」し、そこで生きる自分を「想像」したのだろう。
また上で引用した本人の主張を読めば、それは論理的ですらある。少なくとも自分の中では筋が通っている。

でも、考えるための材料があまりにも限られていて、偏った結論に至ってしまった。ル・クレジオが言う「教育」には、自分で考えるときに参照できる材料を増やす、ということも含まれているだろう。

ブログにつくコメントやブックマーク、Twitterなどで見かける発言の中には、単純で過激で偏ったものが時々ある。なぜもっと考えないのだ? というような。

同じ問題があると感じる。

必要な前提情報が少なすぎる。だから単純な答えしか出てこない。人々の意見が食い違うのは、前提としている情報の違いに拠る部分が大きいだろう。考え方や考える力の違いではなく、元にある前提情報が違うのだ。

「もっと参照できる知識を増やしたい」と思う人もいる。でも、そう思わない人もいる。
あるいは同じ人が、そのように思ったり、思わなかったりする。

視野を広げたい、もっといろいろな事実や考え方があることを知りたい、と思えない状況は、喩えてみるなら風邪をひいたような状態で、そんなことをしている余裕がない、ということじゃないか、と最近ふと思った。

風邪をひくように、何かのウィルスに感染してしまったように、「考えない」という病に罹(かか)ってしまっただけで、その人が駄目とか悪いということでもなく。
逆に言えば、今この瞬間に様々な観点から積極的にものを考えている人にしても、時と場合によってそれに罹ってしまい、いつ「考えなく」なってしまうかわからない。

病のせいだと思いたい。いつ罹るかはわからないが、いつかは治るかもしれないそれのせいである、と。

commmons: schola vol.15『20世紀の音楽Ⅱ 〜1945年から現在まで』発売

もう先週のことになりますが、掲題の巻が発売されました。

【vol.15】Music of the 20th century II - 1945 to present(20世紀の音楽Ⅱ~1945年から現在まで)| commmons: schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

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前回の第14巻『日本の伝統音楽』が12/17、今回は12/16に発売されたので、ギリギリ1年以内に出ましたね!(謎)

しかし6〜7巻ぐらいまでは年に3冊、その後もしばらくは年2冊のペースで出していたので、その頃は一体どうやって作っていたのか……というぐらい、今もまったく全力で作っているのですが、だいぶ時間がかかっていますね。

どういう違いがあるのか……数年前に遡って自分に聞いてみたいぐらいですが。

さて、今回のテーマは20世紀後半以降のクラシック音楽です。
具体的には、収録曲中一番古いのがブーレーズの1945年作曲の作品なので、それから後。

と同時に、じつは「20世紀の音楽」と言いつつ21世紀の作品もいくつか入っているので、巻タイトルの確定までにはけっこうな時間と労力を要しましたね……。
ようは「20世紀の音楽」という小テーマ(シリーズ内シリーズというか)を、第12巻の「20世紀の音楽Ⅰ」の「Ⅰ」という表記で伏線的に置いているので、それを回収するには同じ小テーマ名をここで使わなければいけないんだけど*1、でも今回は20世紀の作品だけじゃないし……という。

結論的には、小テーマ名(「20世紀の音楽」)は残しつつ、これまでscholaでは使ってこなかったサブタイトル方式を採用して21世紀以降の音楽も暗示する、という絶妙なソリューション。って、いや出来上がってみれば普通〜な感じのサラッとスルー可能なタイトルですが、こんな10文字前後の言葉の選択でも後悔のないよう、坂本さんを中心にみっちり検討を重ねて作りました。

で、事前の見込みとしては、この巻の参加者は藤倉大さん以外はどなたも以前にscholaに登場したことのある(というかレギュラーの)方ばかりで、かつ内容的にもクラシックの範疇ということで、その前の「日本の伝統音楽」に比べたらまだ作りやすいだろう〜、と考えていたのですが、まったくそんなことはなく今回も課題・難題の連続。

いくつもの「ん〜……これ、どうしたらいいんだ……」という壁や山に直面しながら、グイグイと地道にほふく前進しながら参加者&スタッフ皆で大岩をゴールへ押していった感じでした。
いやあ……大変だった。

しかし結果として、幸運なことに、と同時にこれは今までの巻すべてに対しても言えることですが、今回も胸を張ってお勧めできる……と言うと実感とはちょっと違うのですが、そうだな、制作に関わったことを後世に誇れる内容になったと思います。
認識の間違いや誤植、違和感のある表現などは残っているかもしれませんが、そのようなことがあればぼくの能力の至らなさゆえです。逆に言うと、今できるかぎりの事・物はすべて惜しみなく投入できました。

そのようにプロジェクトやその対象に全力を注げる、ということはそれだけでも幸運なことだと思います。
そしてそれを実現させてくれているのは、やはり坂本さんをはじめとする関係各位です。わざわざすべての方の名前は出しませんが、ひっそり&深く感謝しています。

さて、「20世紀後半のクラシック音楽」と言えば、ようは「現代音楽」ということだと思います。

しかし今回の制作にあたっては、ぼくの頭の中には「まあ一般的には、これを《現代音楽》と言うだろうな」という認識はありつつも、ほとんどそのキーワードは浮かびませんでした。

というのも、「現代音楽」というと、どうしても難解とか、聴きづらいとか、「音楽として楽しむというより体験することに意義がある」的な印象を持ってしまうのですが(少なくともぼくはそうでした)、今回は最初のラフな選曲関連のやり取りから、最後の許諾確定の大詰めまで、そこで取り上げられる音楽のほとんどがぼくにとって「面白い!」とか「ウケる!」とか「楽しい!」とかいった曲ばかりで、名前の挙がる作曲家や演奏家たちも興味深い人ばかりでした。

だから、今回の収録曲やその候補曲に関して言えば、ぼくはそれらを「現代音楽として」というより、どこまでも「schola 第15巻の音楽として」聴いていて、それは今を生きる、「今の音楽に希望を持っている」人たちに向けた音楽でもあると思っています。

「今の音楽に希望を持つ」とは、次に何が出てくるかがわからなくてワクワクできる状況というか、たとえて言うなら、まだビートルズが活動している頃に「次の彼らのアルバムはどんな内容になるだろう?」とワクワクするような感覚です*2

今回取り上げられたそれらの音楽は、ジャンルとしては「クラシック音楽」の延長というか、範疇で語られるかもしれませんが、実際にはまさに「今、この時」に作られ、演奏され、聴かれている音楽であり、実際にそれを感じとれる内容になっていると思います。

もう一つ、今回schola初参加の藤倉大さんは、世界的に活躍する作曲家ですが、充実したご自身のWebサイトを見てもわかるとおり、
Dai Fujikura home page

非常に先進的な情報活用力を持ちながら、これは坂本さんと同様、まったく偉ぶらないというか、ぼくら制作スタッフに対しても本当に自然に、対等に&真摯に&積極的に関わってくれて、おかげでそれと相乗するように、チーム全体としてもとても良いコミュニケーションを取りながら制作を進めることができました。

もちろん、言うまでもなく浅田彰さん、小沼純一さん、岡田暁生さんという錚々たるメンバーも、皆さんオリジナルかつ豊かな見解の数々で、どなたが欠けても今回のレベルには行き着かなかっただろうと思いますが、その上でやはり、今回の巻の特徴を簡潔に、未読・未聴の方々に知ってもらうためには、藤倉さんの魅力をまず伝える、ということが有効だろうと思っています。

で、これについてはじつはすでにいくつかの媒体で、藤倉さんの最新インタビューが行われているそうで、そのうちにそうしたメディアを通して、それに近いことが実現されるだろうと期待しています。

最後に、簡単に宣伝ですが(というかここまでもある意味宣伝ですが)、commmonsのスタッフに聞いたところでは、現在渋谷のタワレコ代官山蔦屋にて、それぞれschola15巻を店頭展開してくださっているそうです。

ぼくが直接見にいったわけではないのと、明確な開催日程がわからないので*3、やや曖昧な情報になりますが、もしお近くへ寄られたらついでに見てみてください。

どうもこの時期、坂本さんの『Year Book 1971-1979』が来年早々に出るそうで、

Year Book 1971-1979

Year Book 1971-1979

それとも絡めて展開してくれるお店があるようですね。こちらもcommmonsスタッフを含め、関係各位に多謝です。

ということで、1年ぶりのscholaリリースのご報告でした。今後の展開もお楽しみに。

*1:当初は「20世紀の音楽」って「Ⅲ」まで続くつもりで計画していたのだけど、その後いろんな構成をどんどん新たに考えていく中で、「Ⅲ」どころか「Ⅱ」というネーミングも不適なのではないか、という話になったということ。言い換えると、scholaのラインナップはつねに検討と更新が繰り返されているのです……!

*2:ビートルズはぼくが生まれる4〜5年前に解散していたので、実際にはそんな体験をしたことはありませんが。

*3:スタッフ間で情報が共有されていないということではなく、現場の状況によって変わる催しであるため公に明示しづらいということ。

いま読んでいる本のメモ 〜 一般書、小説、プログラミング

基本的には仕事をしていない時はプログラミングか簿記の勉強をしているので、そのどちらかの教科書や参考書を読んでいるだけで紹介しても面白くなさそうだけど、後から記録になるかなと思ってメモ。

なお、schola関連の資料は次のテーマが広報解禁になるまで秘密にできるようココでは書きません。 ;)

まず一般書だと基本こちら一択。

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

移動の合間などに読みつつ、いま最初の3分の1〜半分ぐらいまで来てる。すごく面白い&ノリがいいのだけど単純にページを開く機会が少ないので毎回そのちょっと前から読み始めて、内容を思い出しつつ先へ進むので返し縫いみたいになっていて終わらない。
とはいえ、内容としては楽しんでいる。これは読み終わったらまたメモを書きたい。

小説だと、こちら。

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟4 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟5?エピローグ別巻? (光文社古典新訳文庫)

Kindle版のカラマーゾフの兄弟亀山郁夫訳。なお、光文社は来年1/7までけっこう長めの半額キャンペーン実施中。


すごいことだと思う。どんどん買うといい。
www.amazon.co.jp

カラマーゾフの兄弟は以下のような流れでとりあえず1冊だけ買ってあったのだけど、

上のキャンペーンを知って残りも買った。
読みやすいし、面白い。数分読むだけでも別の時空間に入っていける感じがある。どこかでまた途中経過を記したい。

その他、プログラミング関連だとこちら。

すぐわかる オブジェクト指向 Perl

すぐわかる オブジェクト指向 Perl

Gitによるバージョン管理

Gitによるバージョン管理

C言語体当たり学習 徹底入門 (標準プログラマーズライブラリ)

C言語体当たり学習 徹底入門 (標準プログラマーズライブラリ)

どれも面白い。最後のC言語の本は平成13年というから・・(すぐに西暦換算できない&する気にならない。もう公的な情報は西暦で合わせよう国全体の生産性を上げるために)2001年という普通に考えたら技術書的にはありえない古さだけど、サンプルコードを打ち込んでみると普通に動く。これが枯れた言語のメリットか。
著者の前橋さんによる以下の本を以前に読んだら面白かったので、買ってみた。

センス・オブ・プログラミング! 抽象的に考えること・データ構造を理解すること

センス・オブ・プログラミング! 抽象的に考えること・データ構造を理解すること

同氏によるC言語本としてはポインタの解説に特化したものもあるようなので、上のが終わって余裕があれば手を出したい。

その他、プログラミングの話題は以下のブログで書いているので、進捗があればそちらに続きを書きます。

簿記関連は普通に教科書でとくにバラエティに富んだものではないので、割愛。

重い扉の開け方

人は重い扉があれば「強い力」で押し引きするし、なかなか埋まらないクギには「強い力」で金槌を叩きつける。

人間同士のコミュニケーションでも似たようなことが生じがちで、相手が思い通りのリアクションを返さなかったり、こちらの意見を素直に聞き入れなかったりすると、こちらからのアクションはさらに強さを増してしまう。

相手がそれで「わかった、言うことを聞きます」と受け入れればまだ良いが、そうはいかないことも多い。
そもそも、そんなことをする必要もなかったのにこちらの勘違いで無用だったはずの強い力を行使してしまうこともある。

だから「重い扉」に出会ったときには、ひとまず身を引いて諦めて、気がついたら自然に開いていた/閉まっていた、だから何もする必要はなかった、少なくとも強い力をかける必要はなかった、となれば最善ではある。

実際にはそうはいかないことも多いが、自分が誰かに強い力をかけつつあるとふと気づいたら、そのようなイメージを持つことで多少は状況をマシにできるのではないかと思う。