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ブログをはてなダイアリーからはてなブログに引越した

これまで、はてなダイアリーで身辺雑記、はてなブログでそれ未満のメモ的なことを書いていたのだけど、だんだん後者の方が機能的に充実してきて、それにつれて前者が更新しづらく感じられるようになり、更新しづらく感じるからあまり使わない、使わないからさらに使いづらく感じる、という悪循環になってきたので、引越し機能を使ってはてなブログの方に統合した。

http://note103.hatenablog.com/

それとは別に、プログラミングの勉強メモに特化したブログを一つ持っているけど、それはそのまま。

雑記をはてダ、より簡便なメモをはてブロで使い分けていたのは、前者はもう10年近く前から書き継いでいたから、当時からを含むリアルな知り合いが読者にいるという前提で、そこに書くのもなあ〜というぐらいちょっとした思いつき、つまりはTwitterに書くようなことをTwitterのように字数制限なく書きたい、という場合に、はてダ以外の場所があった方が気楽だと感じたからだったが、上記のようにそんな風にはてダを残しておいたところで、更新しづらいとか、そもそも知り合い向けの話題というのもそうそう出てくるものではないし、とかいうこともあって、よりトータル的にラクな運用をできそうなこの感じにしてみた。

それらとはさらに別に、scholaの状況・情報を列記するためのブログ。というのもはてブロで一つ作ってしばらく更新していなかったので、そちらも情報を整理するためにまた少し手を入れていきたいなあ、とも思っている。

同時に発生するメリットとデメリットをセットで語る

これを書き始める直前に気づいたけど、ちょうど1年前にこれを書いたのだった。

そして今また、以下の記事が話題になっている。

率直に言って、この内容には胸を打たれた。感動した、と言えばウェットに過ぎるかもしれないが、それに近い何かを感じた。

その感覚の一因は――そして現在この話が話題になっている理由のいくらかは――、この作業が1年かけて果たされた、という説明にあると思う。
本当に1年かけたのかはもちろん本人以外にわからないが、そうなのかもしれない、と思わせる説得力は感じてしまう。
(ブログが前回からほぼ1年更新されていないことなどからも)

ぼくは原文も、改訂版が作られるきっかけになった無料非公式版訳も読んでいないし、これからも読むことはほぼ無いように思うので、ここで言われていることが事実かどうか(つまり改定前のものが本当に誤訳の多い物だったのかなど)は論点ではなく、以下の点についてだけ書こうと思った。

というのは、実は冒頭に挙げた1年前に書いた記事で話題にしたのと結局同じ話なのだけど、「正しいことを指摘するにしても言い方ってものがあるだろ問題」みたいなことだ。

同氏というのは結局「言っていることは正しいが口が悪い(=口は悪いが言っていることは正しい)」と言われるケースが多いようで、だから突っ込まれるのは1年前も今回も「同じことをもっと丁寧に言いなさいよ」ということだ。

で、それが氏への〈助言〉として語られるのであればとくに異論はないのだけれど、氏への〈批判〉として、つまり「口が悪いからやっていることも駄目」となるとちょっと問題があると感じる。

車を走らせれば排気ガスは出るし、電気を使うなら原発が必要になる(少なくとも特定の地域や時期においては)、というのと同じ論理で、アクションを起こす以上デメリットは必ず生じるのであって、結局はどちらのデメリットをアリにするか、という話になる。

無論、理想としては「正しいことを正しい言い方で言う」ことができればそれ以上のことはないし、それを求めて助言する、というなら上記の通り理解できるが、そうでなければならない、という批判になると、なんというか、どんなに偉い立場になればそのようなことを言えるのか、と感じてしまう。

同氏における口の悪い表現、というのは僕から見ると上記の例にある「車が走れば排気ガスが出る」の排気ガスのようなものだと思われる。それはたゆまぬ改善の中で、減らしたり無くしたりすることもできるかもしれないが、少なくとも今走っている車は排気ガスを出さずには進めないのであって、それ以上でも以下でもない。

もしその車の排気ガスが嫌だ、というならば関わらなければいいだけのところ、排気ガスを出すことのみを取り上げてそれを駄目だと言ったり、「頑張れば排気ガスを出さない車も作れるはず」みたいな高い目標を当然のことのように突きつけるのは変だと感じる。

排気ガスの問題性を取り上げるのであれば、それを排しながら達せられた〈成果〉をセットで取り上げるべきだと思うし、より高い目標の達成を求めるのであれば、それを言う自分はどうなのか、それは出来て当然なのか、といった実情をセットで語る必要があるのではないか、と考えている。

結論が決まっている人と議論はできない

ラーメンとカレーのどちらがおいしいか決定しよう、という機会があったとして、初めからラーメンだと決めている人にカレーの良さを伝えることはできない。

一口でいいからこのオススメのカレーを食べてみてよ、と皿を差し出しても、もうラーメンだと決めているのにそんなものを食べたら心が揺れるかもしれないから、その人は出されたラーメンを食べずに捨てる。

議論とはその時の自分の意見とは異なる意見を差し出され、嫌だと思っても一旦それを口に含み、味わい、飲み込むことを繰り返す中で、それ以前には辿りつけなかった新たな答えに共に辿りつくための行為であって、相手から差し出されたラーメンやカレーをひたすら捨て続けるような行為ではない。

安保でもTPPでも原発でもマイナンバーでも良いが、先に結論が決まっていてそれを変える気持がまったくない人が、それに反する意見の人とできるのはそのような「捨て合い」「否定のし合い」でしかなくて議論ではない。

議論とは他人と協力して何かを作る行為であって、そのために最低限必要な条件は、「自分は現時点ではこのような意見だが、もしかしたら変わるかもしれない」という、変更可能性を有していることだ。

片方が提示した論点や証拠に対し、その事実を認めないまま新たな論点を提示する人は少なくない。

1: A「君は昨日遅刻したね」
2: B「覚えていません」
3: A「ここに証拠があるのだけど」
4: B「でもあなたも遅刻しましたよね」

たとえば、このような会話。
Aからの3の発言を受けて、Bは本来遅刻の事実を認めなければならないが、それをしないまま4に移ってしまう。

この状況はピンボールやパチンコを想起させる。放たれた弾の目標は、つねにボードの一番下にある穴に落ちることだけであって、その途中でどこにぶつかって、何度フリッパーに跳ね上げられても、意に介することはない。弾はひたすら下へ向かって落ちていくことだけを指向し、それはやがて必ず成し遂げられる。

自らの非を認める気のない相手と議論することは、ピンボールで永遠に弾を落とさないことを目指すようなもので、それは不可能なことだ。

YCAMまわりの近況報告

今年の春から夏にかけて、山口県の複合文化施設山口情報芸術センター」、通称「YCAM」(ワイカム)のWebサイトリニューアル・プロジェクトに参加していました。

山口情報芸術センター[YCAM]

プロジェクトの進行当時の様子などについては以前にこちらに書きました。

YCAM(山口情報芸術センター)のWebサイトリニューアル・プロジェクトでテキスト編集を担当しました - the code to rock

このWebサイトはMovable Type(以下「MT」)というソフトウェアで作られているのですが、つい先日、そのMTを提供しているSix Apartさんのサイトの「導入事例」で紹介記事が公開されました。

山口情報芸術センター(YCAM)がMovable Typeを使う理由 - 導入事例 | シックス・アパート - CMSソフトウェア、サービスを提供

インタビュー形式の記事ですが、YCAMの担当者・渡邉さんと、デザイン・構築を担当したAlliance Port社の川角さんが応えていて、僕もちらっとだけ名前が出てきます。

リニューアルに際しては、YCAMのコンセプトの再定義から行った。具体的には、「YCAMについて」というページの拡充である。ここでYCAMのコンセプトや沿革、インターラボの取り組みをしっかり告知していくために、リニューアルに際し、コンテンツ(テキスト)の編集、制作に外部の編集者を招聘している。

「内部のリソースだけでは、コンテンツの客観性を担保できないと考え、YCAM事業を構造的に理解して表現できる外部の編集者はマストだと考えていました。そこで、『commmons:schola』や『大谷能生フランス革命』で知られる門松宏明さんにテキストの編集をお願いしました」(渡邉さん)

まさかのフランス革命(笑)。そんなに知られているかはわからないのですが、でも渡邉さんは僕と会う前から仏革本を読んでくださっていたそうで、渡邉さんに知られていたことは事実です。いろいろありがとうございます。

同サイトは堅実だけどポップ、見た目も裏側(サイト運営者)も整理されている、という最新のMTの良さが出ている感じかな、と個人的には捉えています。

スマホ版は後から追いかけて整えているようなので、もし現状未整理でしたら、適宜ご報告頂くか少々お待ち頂けたらと思います。

以上、ちょっと斜めな近況報告でした。

大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命

カップラーメン半分

カップラーメンを食べたいけどいつも多くて半分以上捨てるので、何となく作る&食べる気になりづらかったのだけど、湯を入れる前に諸々半分に分けて半分保存、半分調理、としたらちょうどいい量でライフチェインジングだった。

ただしこれは粉末スープなどが麺と分かれているカップラーメンに限り有効な作戦であって、日清カップヌードルのような容器にすでにスープの素(粉)が振りまかれている場合には難しいというか、同じことするのは大変そうな気がする。(トライはしてみたいが)(とはいえそんなに何度もトライするほど食べる機会もないが)